広田淳一、語る。#05

 

主宰・広田淳一が今現在考えていることを
語り下ろしで記事にするインタビュー企画です。
第五回は、雑談回です。
#稽古休みなアマヤドリ

(収録:2019年10月〜2020年1月)

 

 

 

執筆に行き詰まったら

 

広田 あなたってしょっちゅう数千字ぐらいのメールを送ってきますけど、よくあんなに書けますね。

 

  ───返信で広田さんも同じくらい書いてますけど。

 

広田 僕の場合、書けるときはササッと書けるんだけど、書けないときは本当に書けないから。けっこうムラがあって、書けるモードになっているときとそうでないときの差がすごくある。あなたはいつでも書けるように見えるからすごいですね。

 

  ───いつでもってわけじゃないと思いますが……でも、文章を書くための習慣とか、作ったりしません?

 

広田 習慣? 朝、コーヒーを飲む、とか?

 

 

───そういう日常的な習慣ではなくて、文章を書く前にやるルーティンみたいなものです。広田さんが今おっしゃった「書けるモード」に自分を持っていくためにやる手段、です。飲み物であれば、文章を書く前にゆっくりコーヒーを飲む、という手段もあり得ると思いますし、ストレッチとか軽い運動とかでもいいし、本の一節を読んだり、音楽を聴くのでもいい。──たとえば、普通に生活していて、なんかちょっと文章を書くことに集中できなくなるくらい心が動揺してしまうような、ニュースとか出来事にでくわしてしまうことって、よくあるじゃないですか。

 

広田 あるある。よくあるよ、僕はそんなことばっかりだよ(笑)

 

  ───それで時間を無駄にしてしまうのが嫌なので、動揺を抑えるためにいろいろやってみて、効果があったものを習慣化していくんです。

 

広田 第一フェーズ、第二フェーズみたいなプロセスがあって、決まったとおり必ずそれをやるということ?

 

  ───そこまで複雑ではないです。いくつかの手段が便覧化されている感じです。自分が心理的動揺を抑えて文章を書くことに集中できたときに、その前に何をやっていたかをメモしておいて、それを蓄積していく。音楽だったら特定のアーティストの特定の曲みたいにメモしていますし、本だったら特定の著者の特定の書籍の特定の文章とか、いろいろ試してみて、動揺を抑えてくれて集中力を高めるのに効果があったものだけをリストに残していく。逆に却って気が散ったもの、効果がなかったものはリストから外していく。

 

広田 なるほど。いくつか選択肢があるのか。たとえばこのアーティストのこの曲を聴いて前回は集中力アップしたけど今回はそうじゃないってこともあるから……。

 

  ───そうそう。毎回効果を発揮してくれることは期待せず、とにかく一度効果があったものはリスト化しておいて、用意してある候補のうち何か一つが当たって集中できればそれでオッケー、ということです。

 

広田 面白いですね。ちょっとメタな視点で自分を見てるんですね。どういうときに自分というプレーヤーが集中できたかを記録しておくという。

 

  ───大抵誰しもそういう習慣を用意してるものだと思っていましたが。

 

広田 うーん、僕の場合、強いて言えば、日記を書くことがそれに当たるかもしれない。僕は、戯曲を書く前に台本調の日記を書くってことをよくやるんですよ。ここ何年かはそうですね。

 

  ───台本調?

 

広田 戯曲みたいな形式で日記を書くんです。登場人物が四人ぐらいいるんですよ。固定メンバーで。本当馬鹿みたいな話なんですけど、励ます役のやつとかいるんですよ。「もうダメだ、書けないよー」とか言ってるやつに対して「頑張ろうよ!」って言う役で。

 

  ───(爆笑)

 

広田 いや、最初やったときは自分でも恥ずかしいなーと思ったし、馬鹿げてるなーとも思ったんだけれど、これがいいんですよ! どうしても、何か作品を執筆しようというときには、自分に対する厳しい目線というのが自分のなかに生まれるじゃないですか。「こんなしょうもない文章を書きやがって」とか「もっと傑作を書かなきゃいけないのに、こんな文章じゃ使いものにならない」とか、実際に言葉には出さないけれど、そういう批判が自分のなかで内攻して動けなくなってしまうことがあると思うんですが、そういうときに、「今日はこれだけしか書けなかったよー」「でも一文字も書けないときよりは全然いいよー」「大丈夫だよー」みたいな雑談から始まって、もっと作品に関する建設的な議論もして、たとえば「ここに違和感があるんだよ」とか「あの登場人物は何であんなことしたの」「そもそもあの登場人物って何なの」「あいつちょっと都合良すぎない?」みたいな戯曲執筆についての対話を、毎日日記として書いていくんです。これは、以前あまりにも戯曲が書けなくて追い詰められたときに無理矢理編み出した手法なんですが、その後はちょくちょくやってますね。自分のなかで、自分にとってキャラがぶれない人物を何人か作り出して、そいつらにとにかく雑談をさせるという。

 

  ───戯曲の形式で書くのがポイントなんでしょうか。戯曲の方は書けていなくても、日記の方は書けているという、その積み重ねで、戯曲の方にも書ける流れが生まれるというふうな。

 

広田 書くことに対する心理的なハードルが下がる、という効果があると思います。創作にあたって、事前に良い作品を書かなければならない、って気負えば気負うほど、「なんだこの文章は!」みたいな批評精神が生まれて一行も書けなくなるという現象が起きがちだと思うんですね。でも、日記であれば、何でもいいやと思ってすらすら書ける。喩えて言えば、傑作を書かなければならない真っ白なキャンバスを前にすると恐ろしくて竦んでしまうけれども、クロッキー帳にだったら気軽にデッサンを描いていけて、そのなかで「意外といいな」と思うものがあれば採用できるし、自分のなかでテーマの理解が深まったりすることもあるということです。戯曲を直接書き出すより、戯曲に関する日記の方が、全然ハードルが低いんですよ。戯曲の方だと、一度書いてしまうと、すでに書いてしまったことに自分が縛られるということも起こるから、やはり書き出すのに注意深くなってしまう。一方、日記の方はどんなしょーもないことでも何でも書いていいことにしています。「今日もまた一日寝てしまった」とか(笑) この方法でなかなか書けなくても何とか筆を進められた作品というのが結構ありますね。

 

  ───なるほど。H.v.クライストという文学者が、思考するためには誰かとお喋りしなければならない、「考えは話をしているうちにわいてくる」という変な主張をしているんですが、それを思い出しました(笑)

 

 

 

広田が読む「異世界物」

 

広田 あ、読みましたよこのあいだ、あなたが薦めてくださった漫画『ダンジョン飯』。

 

  ───読んだんですか?(笑) たしかに「これ面白いですよ」ってお伝えしましたが。

 

広田 とはいえ最初の方だけですけれども。不思議な漫画でしたね。Kindleで買って読んだので、他にも関連商品がおすすめで出てきたんですが、いわゆる「異世界物」っていうのでしょうか、ああいうジャンルにこれまでほとんど触れたことがなかったこともあって、「不思議」だなっていう感想が先に立ちました。あなたがあれを面白いと思ったということも不思議だったし。

 

  ───あの作品を「異世界物」と言えるかは微妙ですが、ファンタジーRPGやダンジョンを探索する冒険者を題材にした漫画は過去にもいろいろあったなかで、冒険者の食料の調達という一点で設定を掘り下げ、作品世界(異世界)を構築したということで、『ダンジョン飯』は、類例のない作品になっていると思います。「魔物は食べられるのか」「食べられるとしたらどの魔物のどの部位か」っていうことを細かく考察して、魔物の存在を生物学的に捉え、それを踏まえつつダンジョン内での魔物の生態やダンジョンの構造の成り立ち、さらにそこで常用される魔法とは何かということまで、細かく理屈づけして、さもすべて空想の存在でないかのように装っている。いわゆる「異世界物」だと、魔物とか、魔法とか、ファンタジー世界のお約束はお約束として処理して、『ダンジョン飯』ほど細かく設定を掘り下げて理屈づけしたりはしないと思うので、やはり『ダンジョン飯』は、異世界を舞台にしていてもちょっと異色だとは言えると思います。

 

広田 なるほど。むしろ、そういった異世界の細かい設定を通して、われわれの現実が何かということがあぶり出されてくるような作品なのかな。

 

  ───まったく非現実的な設定から、細かな事実とそこからの思索を体系的に積み上げて、われわれの現実でも検討するに値する問題が展開されているかもしれないと思わせるという意味では、そうですね。これは食べていい/これは食べてはいけない、という差別があるのはなぜか?とか。……それは、結構、広田さんの作風とも似ているところがある、と思うんですよ。『月の剥がれる』がとくにそうですけれど。あれに出てくる「散華」とか、あんな変な団体が現実に存在するわけがないだろうと、設定だけ聞くと思うんですけれど、実際に物語として共有すると、ああいう団体が存在する歴史のことを考えてみることは意味があるのかもと思わされる。変な設定を基盤に、想像力を膨らませていって、登場人物たちのリアルな会話を構築している。現実の人間の思考や社会問題をトレースするのではなく、非現実的な世界で思考やヴィジョンを展開して、それを観る人に感染させうることは、広田さんの作家性の一つで、その点は『ダンジョン飯』と共通するところもなくはないのではないか。そう愚考しています。

 

広田 うーん。でも、それで言うと、さっき言及した「異世界物」に感じる「不思議」さの話にもかかわるんですが、あの『月の剥がれる』は、出発点が僕自身の偏った問題意識だったり苦しみから書き始めているのだとしても、最終的には、現実の社会に重ねようとしている意識はあったんですね。たしかに、今回の「ひきこもり」の主題にしても、そういうふうに一括りにネーミングしているからこそ社会問題として可視化されているけれども、その問題を、そのままトレースする気はなくて、もう少し原始的な何か、社会問題として前景化される以前の何か個人的な深層部分に根差して作品を書かなければならないと僕は思っている──思ってはいるんですが、でも、やはり、その個人的なもの、個人の視野に限定された深層は、社会の最も表層にある現実、一人一人の個人の切実さを無視するような具体的・社会的現実とのかかわりのなかでしか表現し得ないだろう、とも思っているんです。言わば、僕個人の孤独に関して、単純に僕の孤独として語っているだけでは駄目で、それを「社会的ひきこもり」という社会的事象を媒介にして間接的に表現しないと、お客さんには伝わらない。僕はそう思っていたんですね。

 だからこそ『ダンジョン飯』は新鮮だったんです。最終的に社会につながらない作品世界であっても、ここまで具体的な話を構築できるなら、お客さんとかなり深いところで対話が成立するんだなということが。「魔物」や「魔法」は、「ひきこもり」と違って現実の社会にはまったく存在しない事象なわけだけれども、それを題材にしてここまで細部を突き詰められるのなら、それでもう、実社会に突き抜けなくてもお客さんと感情や思考の共有ができてしまうんだな、と。『ダンジョン飯』って、かなり手触りが変な作品じゃないですか。ジャンルとしてはエッセーに近いと思うんですね。でも、エッセーって普通は、もっと自分の身近な現実から、たとえば「近所のスーパーで○○を買ったら…」みたいなきわめて具体的な現実と自分とのかかわりから生じたノイズだったり、喜びだったりを伝えるジャンルだと思うんですが、『ダンジョン飯』は、まるで近所に生えてる野草を紹介するみたいに魔物について詳しく紹介して、作者の空想の産物をあたかも卑近な現実であるかのように伝えていて、しかも、それが「おまえが空想しただけだろ」と突っ込む余地もないほどに表現として完成されている。その面白さを、実社会に全然触れないままお客さんと共有できてしまえている。それが不思議だな、と思ったし、今「異世界物」というものが流行っているのだとしたら、その作品の作家と受け手との会話の仕方、お客さんと対話するための共通の媒介項というものが、現実よりフィクショナルなものの方にズレてきているのかな、そういう時代になりつつある兆候なのかな、とも思ったんです。『ダンジョン飯』は、やはり僕には不思議な作品でしたよ。

 

  ───今のお話はかなり大事な話であったと思います。私がすべてを理解できたとは思いませんが。深層にある個人的なものと実際に作品としてあらわれるものの違い、とか……。

 

広田 これは僕がずっと考えてきたことなのかもしれないですけど、たとえば、三島由紀夫の『太陽と鉄』っていう評論があるじゃないですか。一読すると、文章としては面白いものの、「何だこれは」という感じで困惑するんですが、他方で、非常に彼にとって重要なことを、彼にしか分からないような形で書いているという感触はある。それはあまりにも彼の個人的な感覚や世界観に根差した内容で、とくに彼の感覚性を結晶化したような文章でありすぎて、そのまま物語になるようなものではなくて、彼の場合でも、その、自身が直感的にだけ触れた世界を、他人と共有するために、具体的な・社会的な衣裳を着せて小説化して提示することで、読者との会話が成立していたと思うんです。でも現代では、読者との会話を成立させるための共通の基盤というのが、具体的・社会的なものから、もっとフィクショナルなものにズレてきているのかもしれない。それは、もしかしたらインターネットのせいなのかもしれない。ネット上には具体的な場所というものはないんだけれど、みんなで共有している何かしらの空間性というものはあるわけですから。実際にはインターネットのせいかどうか、分かりませんけれど、お客さんとの対話を成立させるためのその基盤というのが具体的・社会的なものからズレてきているのかな、との思いはずっとあるんです。

 

  ───その思いがまた広田さんの劇作にも反映されるようだと、面白いですね。

 

 

 

演技における「配置」

 

  ───去年の12月、広田さんはTwitter上で「今年後半に考えていたことは何と言っても『配置』ということ」とツイートして、そこから演技における「配置」ということについて、十八番の怒涛のツイート連投で論じていたのですが、これについて少し語っていただけますか。

 

広田 「配置」という用語はすごく気に入っているんです。10月に新人公演を終えて、その後演劇ジムを経て長年やってきたことがようやく言語化されてきた感がある。

 

  ───一連のツイートを読むかぎりでは、「配置」というのは台詞のなかの単語に関わることのようですが。

 

広田 もっとシンプルな言い方をするなら、同じ台詞を扱いながらも、何を言っているのか全然分からなくなってしまう俳優の人と、すんなり観客にも分かるように台詞を言える俳優の人と、そこにどういう違いがあるのかというのが問題意識の出発点です。それは、これまでは直感で何となく判断していたことだったんだけれど、今は、戯曲の台詞のなかの言葉の配置ができているか否か、という指標で考えられるんじゃないかと思っている。つまり僕のなかでは「配置ができている」ことは俳優さんにとっては良いことだと思っているんですね。

 僕は「フォーカスを合わせる」という表現も使うんだけれど、僕らが日常的に会話をしているときには、自分の喋っている言葉に対応する具体的な対象を自然に意識しているから、名詞一つ一つに対象物を当てがうこと、対象があってそれにフォーカスを合わせるということが自然にできていると思うんですね。それが戯曲の台詞でも、その文章に出てくる単語すべてについてできているならば「配置ができている」状態だと言っていいのですが、実際には、普段日常の会話をするのとは違って、与えられた台詞を喋るときには、自然に単語一つ一つに対象を当てがい、自然に言葉の配置ができているということは起こらない。楽器に喩えるなら、運指を意識的に練習しておかなければまともに演奏なんてできないのと同じように、俳優の稽古でも、台詞の単語の対象・距離感・サイズを意識し、意識的に言葉の配置をするという段階を経て初めて複雑な台詞でもすんなり観客に分かるよう言えるようになるのだと思う。一体に、われわれは戯曲の台詞を簡単に喋れると思いがちだけれど、本当は、その前の段階でもっと確認しなければならないことがある、ということです。それは相手役に向かって声を発するとか、声量を大きくするということより以前の段階の話です。

 

  ───その、言葉の配置というときの言葉というのは名詞に限るのでしょうか。そこに動詞や形容詞は入りますか。

 

広田 一義的には名詞だね。というより、その質問を受けるまでは、動詞や形容詞のことはあまり気にしたことがなかった。名詞の配置さえできていれば、動詞や形容詞を見失うことはない、という感覚が僕のなかにあるのかもしれない。与えられた台詞のなかで、名詞を言うときには、やはりその明確な位置づけや場所を見失いがちである一方、動詞を言うときには、それほど失敗しないんじゃないか、間違わないんじゃないかと思っているところがある。「上がる」とか「落ちる」とか「渡す」とか──もちろん「怒る」とか「嫉妬する」とかややこしいものもありますが──動詞のなかに含まれている一種のベクトルやパワーといったものは、必ずイメージ上分かっていて、言葉として発するときも手放すことはないだろうと思うんです。

 

  ───この質問をしたのは、台詞と演技の関係を表現するのに、「配置」という用語では静的すぎるのではないかと思ったからです。さきほどのギター演奏の比喩で言えば、名詞の配置を確認しているのは、音符の運指やコードの押さえ方を確認している段階で、その次には、音のつながりのアーティキュレーションや、コード進行の緊張と緩和の推進力を意識する段階がくる。戯曲の台詞の扱い方で言えば、台詞のなかの単語の空間的な配置を確認したあと、その台詞を時間の流れのなかで再生するときに、一つ一つの単語の配置自体が、立体的に、曲線的に絡み合っていくということがあって、そこまで意識できているかどうかで、広田さんのおっしゃる「すんなり観客に分かるように台詞を言える」かどうかの差異が生まれている気がしたのです。文章のなかの単語の配置が、さらに立体的なダイナミズムを生むことができるかどうか。私も何名か、台詞の扱いが上手い役者の方ということで思い浮かぶ方はいるのですが、その方々はもっと動的な、「配置ができている」以上のことをやっていたように思うんです。

 

広田 なるほど。あなたの今の話を受けて、僕に思い浮かんだのは──これは僕がかつてハンドボールをやっていたからこそでしょうけれど──球技における「フォーメーション攻撃」のイメージでした。フォーメーション攻撃というのは、例えばサイドの人がこう動いて、それに対してセンターの人はこう動き、別の人はこっちへ行き……というふうにフィールドプレーヤー全員の動きが総合的に絡み合うことで、相手を崩してボールをゴールに運ぶという目的を達成しようとするわけですが、フォーメーションですから、もちろん個人のアイディアや個人技に頼らず、目的に向けて全員で一体の生き物であるかのように動く必要がある。翻って、演技において、台詞の単語の配置を、時間のなかで成立するダイナミズムにつなげるということは、たった一人でフォーメーション攻撃をやっているようなものなのかなと思いました。「配置」するというのはまさに、サイドの選手はここにいる、センターの選手はここにいる、という位置づけを曖昧にしないということで、それは練習=稽古の段階できっちり把握しておき、いざ試合での実行段階では、すべてが連動するように動かなければならない。ハンドボールのフォーメーション攻撃は最初の引っ掛けでこうなって……というふうに狙いがあって、原則的には、連動した動きによって一人の選手で相手選手二人を引きつけ、最終的に一人フリーになる選手を作ることを狙うんですが、それは、全員が一斉に動的にならないと上手くいかないわけです。いや、実際には、理想通り上手くいくことなんて稀で、相手を崩しそびれることなんてしょっちゅうで、一人で一・五人ぐらいしか引きつけられなかった、みたいなことが起こっていくから、それも含めて流動的になっていく。

 

  ───演劇で言えば、相手役からの影響で、言葉の配置のダイナミズムも変わっていくということですね。面白い比喩ですね。文章の単語の配置が連係していき、立体的な言葉のフォーメーション攻撃のようなものが、自分と相手役の身体を含めた空間に生まれていく……。たしかに台詞の扱いの上手い役者の方はそういうことをやっているのではという気もします。

 

広田 それこそ以前、ツイッターにも「演劇は動的な現象だと思わなければならない」「演技空間は試合中のサッカー場のようですべての要素が絶え間なく変化していく」みたいなことを書いた覚えがあるんですが、僕も、動的な状態ということは、一時期すごく重要なことだと思っていた。なんというか、演技を「点」で捉えている人が少なくないなと思っていたんでしょうね。台詞の言い方とか、この瞬間この台詞でどういう表情を作るかとか、演技を「点」で捉えて、演技を流動的な流れで捉えていない人というのは実際いて、そういう人は単発での修正、「あそこのあの台詞をもう少し声を大きくして言うことにしよう」といった「点」での修正を考えて、それが可能だとも思っている。いや、そういう修正もまったく不可能なわけではないと思うけれど、本当に演技として起こっていることは、「点」にしても流れのなかでの一コマであるはずだから、或る一コマだけを変えることはできないだろう、と。もっと言えば「止まる/動く」というのも錯覚で、舞台上ではあらゆる要素が絶え間なく動きつづけているだろう、と、そういうことをかつて考えていた時期もありました。

 

  ───その話と重ねるなら、「配置ができている」ということも、言葉の配置を、球技のフォーメーション攻撃のように流動的に動かす、というところまで視野に入れて機能する指標なのかもしれません。

 

広田 いや、それは賛成です。そこまで含めて考えるべきなんでしょうね。

 

 

(聞き手:稲富裕介)

 

 


 

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