広田淳一、語る。#06

 

主宰・広田淳一が今現在考えていることを
語り下ろしで記事にするインタビュー企画です。
第六回は、10月の「雨天決行season.6」について。

 

 

 

『ぬれぎぬ』について

 

  ───広田さんにインタビューする連続企画の、第六回目です。本日は10月14日(水)〜10月25日(日)のシアター風姿花伝での三本立て公演について、広田さんにお話をうかがっていきます。

 

広田 よろしくお願いします。

 

  ───本公演とは別の企画枠として設けられている「雨天決行」も、今回で六度目になります。今回は、広田さん作の戯曲『ぬれぎぬ』、『ジョシ』、そしてデービッド・ミルロイ作の『ウィンドミル・ベイビー』という三本立てですが、どれも約五年越しの再演で、例えば、2016年の『ロクな死にかた』以降にアマヤドリを知った方などは観たことのないだろう三作で、面白い組み合わせだと思います。企画意図は?

 

広田 たまたま俳優さんたちのタイミング、劇団としてのタイミング、世の中のタイミングが折良く重なってこの再演三作になったという感じです。

 『ウィンドミル・ベイビー』は、初演をやったときにすでに、今後も五年に一度ぐらいはやろうという話が出ていました。これは俳優(や演出家)の経験というのがとても重要な作品で、「もう若くないからこの役はできない」ではなく「まだ若くてこの役はできない、説得力が出ない」ということが言える作品なんですね。それは、役の年齢のこともありますが、それだけではない。それこそ、何十年かけて成長する面もあるということを見越しての企画なので、このタイミングで再演するのは計画どおりというところもあります。

 『ぬれぎぬ』は、以前2014年にシアター風姿花伝でロングランの上演をしたこともある、劇団の代表作でもあるような作品で、劇団員のなかからもやりたいという声があったので、そろそろやろうか、とこのタイミングでの再演になりました。稽古をやってみて感じているのは、役者の顔振れによって全然違う舞台になる戯曲だな、ということ。なので、これもまた今後手を替え品を替え上演していっていい作品だと思います。

 『ジョシ』は、一番最後に立った企画です。新型コロナウィルスの感染の問題が生じて以降、影響で色んな演劇の企画が潰え、僕らの5月の本公演も中止になりましたが、そんななかで、『ジョシ』をやってくれる団体っていうのが複数あったんですね。それで気づいたんですが、うちには『ジョシ』の映像記録がないんですよ(笑)。まあ撮影はしたけれどどこかに紛失してしまったとか、単にうちの管理がなっていなかったという話ではあるんですが、『ジョシ』の映像がないということが判明し、なら一度ここで、本家アマヤドリの『ジョシ』の決定版をやっておこうじゃないかと考え、三本立ての三つ目として企画しました。

 

  ───では、一つ一つの作品についてうかがっていきます。まず『ぬれぎぬ』ですが、広田さんの戯曲のなかでも非常に綺麗に組み立てられた作品というか、七人の登場人物が過不足なく動いて、どれも一癖も二癖もある人物で、彼らの静かな対話がフーガのように重なって進むストーリーも、定型には収まらない意外性があり、完成度の高い戯曲だと思います。また、俳優に要求されるレベルも高い戯曲だと感じます。

 

広田 『ぬれぎぬ』は、俳優に求められるものが大きいんだなということは、感じていますね。有島にせよ門田〔※いずれも『ぬれぎぬ』の登場人物〕にせよ、初演とは全然違う印象のものになるでしょうね。ちょっとピックアップして言えば、有島という役は特に難しい。仕事がちゃんとできる人に見えないといけないし、かつ女性として魅力的に見えなければいけないし、性格の強さも弱さも見えなければならないし、さらに言えば、有島こそこの戯曲のなかで最も「悪」であるかのように見えなくてはならない部分もある。本当に、やろうと思えば色んな要素が出せる役だから、総合的な力が求められますね。

 

 

───元の2014年の公演は「悪と自由の三部作」の一つ目という位置付けでしたが、「悪」ということで言えば、占部という役も難しそうですね。

 

広田 当然難しい。占部は世間の常識から外れたことを言い続ける役、一般的に善良とされていることには拘泥しないという役で、型破りなスタンスを求められるので、簡単に表現できることではないですね。初演に占部をやった中村〔早香〕さんは、身長も含め、少し規格から外れているということが役にマッチしていたところもあったと思いますが、初演のことを抜きにしても、台本上の占部をどう演じるか、一筋縄ではいかないと思います。あと、初演時に比べると、占部の言っていること──安楽死殺人のテーマ──の時事性みたいなものが強くなってきているので、占部の存在も観客の方に初演とは全然異なって受け取られるんじゃないかという予感がしています。僕自身、父と甥の死という個人的経験もあって、この問題に新しい観点でもって取り組んでいますしね。

 

  ───占部の場合は、村田という役との関係性も重要になってきそうです。それを含め再演でどう変わるか楽しみにしたいと思いますが、今回、戯曲のリライトはされるんでしょうか?

 

広田 リライトは軽くしてますけど、最小限です。初演を観た人も気づかないんじゃないかというくらい、少しずつ変えています。実は大幅にリライトしようかというプランもあって、そういう作業もしたんですが、実際、大きく変えた台本を役者に見せたこともあったんですが、結局初演の台本を尊重することに決めました。方針として、初演の映像を観返したとき、『ぬれぎぬ』はシンプルに物語れることをわざわざ複雑にしているところがあるなと感じて、もっと構成をシンプルにしたらいいんじゃないか──というリライトの可能性を考えたんですが、よくよく考えてみれば、初演のときだってシンプルに書こうと思えば書けたのに意図的に構成を複雑にしていたわけで、語りの場を多層化し、視点を多角化して、劇中の出来事を色んな人物が色んな角度から語っていくということは、『ぬれぎぬ』の作品空間を成立させるための必須の土台になっている。有島はこの劇を一人称視点から決して語らないが、向井は一人称で語ったり、或る部分は情報を見せるが、別の部分では見せなかったり、そういった対比も含め、視点の多角化がないと成立しない劇になっているので、それを視点を減らしてシンプルにしようというのは上手くいかないな、と思い直した次第です。なので、リライトは最小限ですね。

 これは、似ても似つかぬものに見えるだろうから言いますけど、実は『ぬれぎぬ』を書くとき直接影響を受けたのはサイモン・マクバーニーの『春琴』なんですよ。『春琴』は非常に複雑な構成をしている作品で、観たとき「なんだこの劇の複雑さは?」と思って、珍しく自分で図解みたいなものを書いて、どういうことをやっているのか分析したりもしました。単に構造が複雑だというより、複雑なことをスッと難なく見せていることに感銘を受けた。だから『ぬれぎぬ』でも複雑なことをやってみようと、それが動機になっているところもありました。リライトの方針を考え直す過程で、当時のそういうことも想い出しましたね。

 

  ───七名の出演俳優のうちの、三人の客演の方々にも触れていただければと思います。〔※※※以下、配役のネバタレを含みます〕

 

広田 客演の方は、元々特定の役で呼ぼうということを決めていて、現状それを変えていないので、期待どおりやっていただいています。遠藤役の島村勝さんは、「演技のためのジム」を通じて出会った方ですが、まず見た目や印象がこの「遠藤」という役に合致しているということに加えて、これは、僕の勝手な想像ですけれども、僕よりもいわゆる「ライフステージ」を先に進んでいる方だな、という印象を持っています。人間って、何歳になっても成熟しない部分は成熟しないというところがあると思うんですが、それでも、周囲から成熟することや責任を負うことを求められる環境にいて、その時間が長ければ、自分の身体に責任を引き受けた時間の長さがその人の立ち姿に影響を与えることもあると思うんですね。島村さんには、初演にはなかった、遠藤の上司らしい側面、年長者の格好良さや格好悪さを出してもらえるかなと思っています。

 都倉有加さんは、アマヤドリは『ブタに真珠の首飾り』に次いで二度目ですが、彼女も「演技のためのジム」で出会った方です。すごく印象的で覚えてますけど、ジムでイプセンの『野がも』を扱ったとき、第一幕のグレーゲルスと父親が対立するシーンの、グレーゲルスを都倉さんにやっていただいて、男性の役だったこともあって、すごく迫力のある演技をされていたんですよ。特別な迫力を出せる俳優さんだな、ということはそのとき思って、『ブタに真珠の首飾り』にも呼ばせていただいて、今回も、この『ぬれぎぬ』の佐野という役は、登場シーンはそれほど長くないですが、彼女の言動によって劇の雰囲気をガラッと変えなければいけない、起承転結の話で言えば、起から承、転から結のようなターニングポイントを画する役なので、ちゃんとインパクトを残せる俳優さんじゃないといけないなという考えがあって、お声掛けしました。

 村田役のばばゆりなさんは、まだ彼女ががっつり出るシーンまで稽古が進んでいないので、多くは語りませんが、関西であったディレクターズワークショップで出会った方です。その後何回かオーディションにも来ていただいて。村田という役は、単に元気のいい若い女の子というだけではなく、頭の回転が早くて気が回るんだけれどどこか大きな穴が空いているというような、不思議な印象の残る役になるといいなと考えて書いた役で、その点は、よくやってくれていると思います。

 ともあれ、この三役だけではなく全役を初演と違う人が演じることになるので、『ぬれぎぬ』にまったく新しい角度から光が当たることになりそうですね。

 

 

 

『ジョシ』について

 

  ───つづいて『ジョシ』についてです。キャストは五年前と同じ、相葉るかさん・相葉りこさんの双子です。

 

広田 さっきも言ったとおり、『ジョシ』は三つのなかでは最後に立ち上がった企画なんですが、今更ながら企画して良かったと思っています。というのも、前回の『ジョシ』は、結構双子がアマヤドリに入団して早い段階でやったんですが、それはそれで二人も頑張ってくれたし、面白い舞台にはなったとは思うものの、それから五年を経て、二人が劇団員としての活動を通して成長した現時点であれを振り返ると、やっぱり当時はむちゃくちゃだったな、と。

 

  ───(笑)

 

広田 二人も言ってるんですよ、「今思えば、当時は一生懸命やってたけど、何も考えてなかった、戯曲のことを何も分かってなくてただ夢中でやってた」と(笑)。それは仕方のない面もあって、『ジョシ』は、僕の戯曲のなかでも上演されることが多い作品で、おそらく高校生とか、若い女優さんがやってくださることが多いと思うんですが、意外と科白の内容が小難しく、ややこしい構造をしている作品なので、それなりに戯曲を理解してやろうとすると高い水準の読解力が必要なんですよね。しかも動きを多く付けなければいけない作品でもあるので、それこそ五年前のときは、動きを付けるだけで精一杯になってしまったところもあった。今回の再演では、大枠の動きだったり演出だったりは、敢えてあまり変えずにやっているので、前回の蓄積を踏まえてちゃんと動けつつ、戯曲の理解を深めることもできそうだなと思っています。

 

  ───戯曲に忠実にやるだけで、お客さんを感動させることもできそうな作品ではありますしね。

 

広田 そう?

 

  ───展開はぶっ飛んでいるけれど、やりようによっては出所不明の感動を生み出すような怪作になると思います。

 

広田 ただがむしゃらにやればいいってものではないんでしょうね。双子との稽古でも、戯曲読解を深めるために、戯曲についての質問があればどうぞ、という時間を設けたりしています。最近訊かれたのが「この戯曲に表れている生命観ってどんなものなんですか?」ということ。彼女が生まれ変わりでもあり、私が生まれ変わりでもあり、……って何なのこれ、という点について少し話をしたりもしたんですが。これは、当時の自分の死生観みたいなものがそのまま出ているんでしょうね。インド哲学的な梵我一如や輪廻の思想、あとはニーチェとかに当時かぶれてて、永劫回帰の思想なんかも意識しながら書いていた覚えがあります。

 

  ───まあほとんど広田さんにしか書けないような内容ですよね。女子の二人芝居というフォーマットで、こんな作品が出てくるとは普通誰も思わない(笑)。

 

広田 今の自分にも書けない(笑)。これは、すごいあっという間に書いた気がする。まだ僕が大学生の頃ですよ。ほとんど推敲せずに、一週間か二週間ぐらいでガッと書いた。その後2007年に再演したときにちょっとシーンを付け加えたりはしましたけど、本当に勢いで書いたという作品ですね。

 それと種明かしみたいなことを言ってしまうと、この作品は、80年代的な演劇、例えば野田さんの夢の遊眠社であったり鴻上さんの第三舞台であったりの、饒舌にまくしたてるような科白があり身体を使って大いに動く要素もあるという、いわゆる日本の小劇場演劇的な何かと、00年代の口語劇、一人の人間の発話のノイジーな言い間違いや言い直しも織り込んであるような科白を喋っていくという、過剰に微分的な口語劇の側面というのを融合して、一つの舞台にしてみた、という作品でもあるんですよね。『ジョシ』は、僕のなかでは80年代から00年代の日本の小劇場の歴史を踏まえた、それらに対するオマージュのつもりもありました。

 そういう意味でも、仮に今二人芝居を書くということになったとしても、全然別の作品を書くでしょうね。やはり『ジョシ』は僕にも二度と書けない作品です。

 

 

 

『ウィンドミル・ベイビー』について

 

  ───ところで、二人芝居であればまだ相手役という契機があるんですが、そういった手掛かりが何もないところで芝居を成立させなければならないのが、一人芝居の難しさだと思います。というところから、中村早香さんの一人芝居、『ウィンドミル・ベイビー』の話に移っていきたいのですが。

 

広田 いやあ、一人芝居っていうのは本当に難しいですね。経験がなければなかなかできないことだと、痛感しています。これは役者だけではなく演出家としてもですけれど。芝居をする上で、一人芝居には罠が一杯あるんですよ。一人の世界のなかで色んなことを回す、科白や、動きや、段取り的なものや感情の起伏みたいなものも含めて、自分一人のパフォーマンスをコントロールすることなんて実は簡単なんですよね。そもそも、演技を自己完結的にやってしまうのは絶対にいけない、それを外に開いていくからこそ演劇は成立するのに、その大前提を見失わせてしまうような罠が一人芝居にはある。相手役がいればね、自分は一人だけでやっているんじゃないんだってことを、相手役からの刺激でつねに意識せざるを得ないだろうけど、一人で芝居をやっていると、つい色んなことを忘れてしまう誘惑が、一杯仕掛けられている。一人でやりながら自己完結的にならない──言葉にしてしまうと簡単なんだけれど、このミッションを達成するのが非常に難しくて、本当、一人芝居というのは、未経験な人間にはできることじゃないなと思う。経験がなければできないんだなっていう世界がある。これは僕自身に対しても思うことだけれど。

 

  ───経験が足りないっていうのは、技術が足りないっていうことにも置き換えられるんでしょうか。

 

広田 うーん、もちろん年を取れば誰にでもできるというわけではないし、若い人には絶対にできないということでもなく、技術だったり能力だったりがあればできることだとは思います。思いますが、やはり、経験で培っていかなければならない、時間を掛けなければできない部分が大きいとも感じています。

 

  ───中村早香さん自身、五年前の初演から変わっていらっしゃるでしょうか。

 

広田 良くも悪くも人って変わっていくものだから、全然違うよね。ただ、こういうふうに一、二年程度じゃない、もっと長いスパンで取り組むことがあるのは、俳優にとっていいことなんじゃないかな。もうこういう役をやれる年齢じゃないな、っていうことがある一方で、まだ自分にはこの役は早いんだなって思いながらその難しさに挑戦できることは、大事なことだと思う。とくに昨今は若いことに価値の重きが置かれがちな風潮があるから。一人芝居の難しさに挑戦するというのはそれに逆行するコンセプトでもある。

 

  ───一人芝居を成立させるための鍵は何か?という演出論的なことを、もう少し突っ込んでうかがってみたいのですが。例えば、想像力、でしょうか。いかに自分の想像したものにしっかりリアクションできるか、という。

 

広田 いや、僕はそうは思ってないかも。やっぱりこれは、五年前にも考えたことですけれど、いかにお客さんと共有している空気を俳優が受け取れるか、という問題じゃないかな。『ウィンドミル・ベイビー』は、一人で何役もやる戯曲ではあるので、たしかに自分で想像した何かに反応するというシーンも出てくるのですが、それよりは、そのあいだにお客さんという存在に介在してもらうことで、膨らんでいく何かがないと成立しないだろうと思っている。変な言い方だけど、俳優が黙って舞台に坐っていても、お客さんはそれを見ているわけで、そのただ黙って坐っているってことを成立させるのが、一人芝居が成立するための重要な要素なんじゃないかな。動いたり何か派手なことをやるというんじゃなくて。俳優も、お客さんも、そこにただいる、ということを成立させる何か。それだけでお芝居がやれている時間を生み出すことが、大事なんじゃないかと思う。

 

  ───この企画の発端になった、広田さんが感銘を受けた大方斐紗子さんの『ウィンドミル・ベイビー』の舞台というのも、お客さんとの目に見えない交流を強烈に感じるような舞台だったのでしょうか。

 

広田 そう、すごかったあれは。あれは本当に今でも記憶に残っていますけど、中津川の演劇イベントでの公演〔※2012年10月〕で、上演としては役者にとって非常にハードルの高い状況だったんですよね。客席との段差もない平土間のような空間で、お客さんにはお子様もたくさんいて、学校に行くような齢じゃない子供が、当たり前だけど全然劇に集中しないでキャッキャッと騒いでいる、劇と関係ないところで奇声を上げる、それを親御さんたちが「ちゃんと坐ってなさい!」「あんた静かにして!」と叱りつけるという状況、つまり、めちゃくちゃやりづらい状況で上演していた。それにほとんど照明も入れず、最小限の音響照明効果で。だから序盤とかは僕も「子供がうるさいなあ」と感じながら観ていて、他方、大方さんはそれを無視するでもなく、もちろん聞こえているんだけれど、一々「ああ、お子様がね…」とか反応したりもせず、大方さんにもその声は聞こえているよ、みたいな素振りはしつつ、お芝居を進めていくということをやっていて。それで序盤はもう誰も集中できないみたいなワアワアワアワアうるさい状況だったんだけれど……後半になったら、もうみんな号泣(笑)。シーンと静まり返って、お客さんはみんな泣いちゃってるみたいなことになって。嘘だろ、と思うかもしれないけど、演劇にはこんなこともできるんだって衝撃を受けた経験でしたね。当然演出家の方の力もあったんだろうけど、やはり大方さんという女優の力で、一人でここまで持っていけるんだ、すごいなこの人は、と感動しました。それで大興奮して、──それまで僕は一人芝居ということに後ろ向きで、さっき言ったように芝居が自己完結してしまうことにかなり警戒心を抱いて、自分でもやったことがほとんどなかったんだけれど、演出家の和田喜夫さんが知り合いだったこともあって、戯曲を見せていただいて、早香さんにこれやろうよって持ちかけて、企画を立てたんですよね。

 

  ───今のお話をうかがうと、経験が重要だということは分かります。

 

広田 あれは、大方さんにも想定の範囲内では収まらない状況だったと思うんですよ。総じて日本の演劇のお客さんは節度があるので、劇の途中で席を立ったりということもあまりないし、まして野次を飛ばすなんて滅多に見たことがない。あれほど騒ついた会場での上演というのは、なかなかない。それでも大方さんは動じるどころか、観客全員を巻き込むぐらいのことをやってみせたわけで、キャリアや経験がものをいうんだなと改めて思いましたし、そういうことへの憧れからこの企画も立ち上げています。今回の二度目の上演も、五年前の初演からの成長・変化ということも含め観ていただきたいですね。

 

(聞き手:稲富裕介)

 


 

 

アマヤドリ 雨天決行season.6

『ぬれぎぬ』
『ジョシ』
『ウィンドミル・ベイビー』

作 広田淳一/デービッド・ミルロイ
演出 広田淳一

2020年10月14日(水)〜10月25日(日)@シアター風姿花伝

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