【連続企画】広田淳一、語る。#03

 

主宰・広田淳一が今現在考えていることを
語り下ろしで記事にするインタビュー企画です。
第三回は、NTLive『イヴの総て』について。

(収録日:2019年11月08日)

 

 

 

イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出

 

  ───現在22時。われわれはナショナル・シアター・ライブの、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『イヴの総て』の上映を、TOHOシネマズ川崎で今さっき観終えたところです。

 

広田 圧倒的でしたね。地力の差を感じます。とにかく俳優がパワフル。もちろん、資金力とかもありますけどね。セットとか、あんな色の家具で全部揃えられるものなんだなと思うし、映像の使い方もセンスが際立っていて、小手先に走ったという感じがせず、演技の力を削がないような使い方をしていた。でも、とにかく俳優の力がすさまじい。

 

  ───脚本はそれほど良いとは思わなかったですけれども。登場人物はみな自業自得という感じで、最後に若い子がイヴのところを訪れるという結末も、そうなったら安易だなと予想していたそのままの結末でした。でも、ストレートプレイの演技・演出としては、今までに観たもののなかで最高レベルだったかもしれません。

 

広田 最後はピアノを演奏するところで終わらせてよかったかもしれないですね。しかし、あのすごさは、つまりは一人ひとりの俳優の強さですよ。どの役も素晴らしくて、リアリズム演技として違和感が出そうなところでも全然それを感じさせない。「?」と思ったのはイヴくらいかな。でもあの役は戯曲によって持ち上げられちゃっているから、たぶん誰がやっても難しい。何にせよ、圧倒的なパワーを感じた。これはイヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出の特性でもあるのかな。演技にものすごいパワーを込めようとしているような気がする。病的なまでの緊張感を流しつづけて、何かパッと触れたら一気に爆発してしまいそうな、エネルギーが張り詰めている状態をずっと維持しつづけている。日本人に比べたらヨーロッパの人、ないし英語圏の人の方がジェスチャーが派手に出るということもあるかもしれないけれど、しかし、それでもあんなに激しく表現するというのは、やはりイヴォ・ヴァン・ホーヴェの特徴なんだろうと思う。

 

  ───イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出の個性ということで言うと、2017年末、NTLive『ヘッダ・ガーブレル』を観たときも思いましたが、舞台空間を広く使って、俳優一人ひとりに与えられている演技スペースが尋常じゃなく大きいですね。『イヴの総て』でも舞台の左右に10メートルぐらい離れて言葉を投げ合うみたいなミザンスが普通に出てきて、そこから、さらに科白をきっかけに距離を詰めたりするので、走りながら喋ったり、移動が早足だったりする。でもそれが無理しているようには見えない。舞台の半分くらいの距離を取って喧嘩をしたり、押し引きしたり、倒れたり立ち上がったり、突然近づいたり離れたりするのがすごく闊達自在に見えました。

 

広田 『ヘッダ・ガーブレル』ほどではなかったけれどね。『ヘッダ』では、装置がほとんどなかったし、より動いていた印象だった。

 

 

───いずれにせよ、イヴォ・ヴァン・ホーヴェの演出の舞台は、空間の使い方が根本的に違うと感じます。それは誰が観ても気付くと思う。『イヴの総て』と比べれば、大抵のストレートプレイの舞台は演技スペースが小さくまとまっていると感じてしまう。

 

広田 もともと俳優さんが持っているサイズ、スケールが大きいということもあるんでしょうね。あの距離を取ってもお互いに空間を感じ取っている、お互いに影響を与え合っているということだから。俳優の力がないと、あそこまで離れてしまうと、近づいているのか遠ざかっているのかも分からない、リアクションもできない。あの距離なのにあれだけパワフルになっているというのは……もう、そういう俳優を育てていくしかないのかな。一人ひとりの存在の濃さが段違いだった。

 

  ───物語のなかでのそれぞれの登場人物の動機は分かりやすいこともあって、一人ひとりを見たらアクが強いなと感じるんですが、ああいう空間の使い方のなかで見ると、全員かっちりとはまっている印象でした。逆に言うと、俳優のスケールが小さいと、アクの強さがパワーにつながっていかないのかもしれない。

 

広田 単純なことではないんでしょうね。難しいですね。去年、アマヤドリでイプセンの『野がも』をやったとき、僕としては自分たちでどこまでできるんだろうと挑戦してみたところもあったんですが、やっぱり、大きく動かそうと思っても、なかなか動くことができなかった。まず、戯曲のテキストを掴めていないと動けないということにも直面したし、リアリズムの演技として、ただ大きくするだけだと、心理的にいろいろカスタマイズされていって、空騒ぎみたいなことにも簡単になってしまうんですよ。内面のリアリティを満たしつつ、ダイナミックな動きを作るというのは、本当に難しい。

 そこで、ここ最近僕が演出の仕方を変えたところがあったのか、という前回のあなたの質問に今更答えるんだけれど、……強いて言えば、2017年12月にイヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ヘッダ・ガーブレル』を観て、非常に衝撃を受けたことは大きいんです。『ヘッダ』では、『イヴの総て』よりさらに激しく動いていましたよね。

 

  ───舞台の端から端まで小道具を蹴飛ばしたり。

 

広田 花束をばしばし叩いてみたりもそうだし、美術はソファーとかしかなかったけれど、それを相手を壁際に追い込むために使ってみたり……本当にさまざま動いていたという印象で。だから、同じイプセン作の『野がも』をやったときは、やはり、動きということをすごく意識していました。「大きく動いてくれ」ということはしきりに言っていた。でもなかなかそう上手くはいかない。全部つながっていることなんでしょうけれど、大きく動こうとしたときに、前提として動機をちゃんと掴めていない、つまりテキストを読めていない人は動くことができない。科白のどこにどういう動機があるのか分かっていないと、たとえば、単純にここで近づいてここで離れるといったことでも、とんちんかんなところでとんちんかんな動きをしてしまう。座っているとごまかせることでも、大きく動かそうとすると、途端に戯曲読解の甘さが露呈する。

 それに加えて、動きを大きくする、ということで、僕は「声を大きくしてくれ」という指示を出しているわけじゃないのに、動きにつれて俳優の声もだんだん大きくなっていくということにも直面したんです。何なのだろう……動きを大きくして、日常の文脈で処理できなくなると、「派手にやらなきゃ」という意識が生じてきてしまうんだろうか。そこで乗っかってくるものを、どうやって切り離していけばいいのか。

 一回、途中で上手くいったこともあったんです。それは、『野がも』の直前に大阪のウィングフィールドでディレクターズワークショップに参加して、ファシリテーターとしてイプセンの『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』を演出したことと地続きになっているんですけれど。

 

  ───?

 

広田 もう少し分かりやすく話しますと、ディレクターズワークショップっていうのは、演出家向けのワークショップで、たった四日間しかないなかで、戯曲の一シーンをそこに集った初対面の俳優さんとチームを組んで上演する、しかも僕はファシリテーターとして、みんなと同じ条件で他の演出家にお手本を見せるみたいなハードルの高いことをやらなきゃいけなかったんですが(笑)、そこでも「大きく動くこと」を意識していたんです。一日目は戯曲を読み込んだだけで終わりましたが、二日目から、リアリズムとして演技を大きくしていって、三日目からは、リアリズムの範疇を超えて、二日目よりもさらに動きを派手にしてみた。それに俳優たちも短期間で適応してくれたんだけれど、どんどん大袈裟になって、声も大きくしてくれとは言っていないのに叫ぶような芝居になってしまったので、四日目に、すべてをそぎ落とすかのように、ぼそぼそ声の芝居にして、動きだけを残したんです。それが、非常に上手くいったんですよ。俳優さんが頑張ってくれたのもあったし、偶然もあったんだけれど、四日間であれだけの成果が出たことは奇跡に近い。で、それをアマヤドリの稽古場でも試してみようと思って。『野がも』の稽古で、一旦役者さんに大きくやってもらってから、バスッと削るということを提案してみた。これも瞬間的には非常に上手くいったんですよ。みんな、お芝居がスケールアップすることで失われてしまっていたコミュニケーションの実感の部分を、ぼそぼそ小さく喋ることで取り戻した感じがあって、すごくリアリティが出た。でも、それは数日間しかもたなかった。その、ぼそぼそ喋るということも一つのモードになってしまうと、演技がまた新鮮さを失っていくんです。一つの定式を壊したことによって得られたリアリティが、その壊し方が定式化することで、また失われていくというか。だから……難しいですよ。内面的なリアリティを保ちつつ、ダイナミックな動きを作るというのは、全然まだその道筋が僕に見えているとは思えないです。

 

  ───『イヴの総て』でも出力の大きさで距離を埋めるという感じではなかったですね。大きく動いているというよりは、空間を大きく使う意識が役者にある、という印象でした。ナチュラルな動きではなくて、感情が盛り上がってきているのに突然パッと離れたり、といった妙な動きも結構あったと思いますが、下半身の瞬発力があるので、どんな動きも自然に見えた。身体がすごく利いていた。──でもそれは、アマヤドリがやってきたこととそれほどズレていないんじゃないか。

 

広田 そう?

 

  ───「全員で動く」といったメソッドや、音ハメではなく呼吸で合わせるダンスとか、簡素な舞台美術とか、広田さんの空間に対するセンスとか。日本の他のカンパニーと比べれば、相対的に、イヴォ・ヴァン・ホーヴェとアマヤドリのやろうとしていることの類縁性はあるのではないでしょうか。

 

広田 なるほど。それを聞いて思い出しましたけど、イヴォ・ヴァン・ホーヴェを観て僕が受けた衝撃というのは、僕個人としては、僕が野田秀樹さんの「夢の遊民社」の影響で演劇をはじめたことと関係するかもしれません。

 野田さんは、やはり僕は夢の遊民社時代が至高だと思っているんです。才能のある人たちがずっと同じメンバーでやっているから、積み上がって、鍛え上がって、とんでもない水準に達していた。で、夢の遊民社の舞台って、めちゃくちゃ動くんですね。当時演劇やる前の僕はハンドボールをやっていて、会話劇の機微なんかはさっぱり分からなかったけれど、夢の遊民社を観て、役者が走り回っているのが面白いというのは分かったし、自分でもできそうだなと思って──もちろんそんな単純にできるものではないですが──リアリズム的なことは無縁な、演技としても科白としてもコミカルであったり誇張されていたりという舞台への憧れから「ひょっとこ乱舞」(アマヤドリの前身)を立ち上げたところがあります。初期は、やはり野田さんの影響というのは大きかった。

 それが、最近では、とくにイプセンとかに傾倒して、リアリズム演技でやっていこうとすると、なんだかどんどん動けなくなっていったんですよ。リアリズムでは夢の遊民社みたいには動けないな、という思いがあって、アマヤドリの舞台もだんだん動きの抑制されたものになっていった。そこで、イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ヘッダ・ガーブレル』を観たから、イプセンでもこんなに動けるのか!という衝撃があったんでしょうね。

 だから、リアリズム演技と動きをつなげるということは、まだまだ試行錯誤のとば口に立ったところだと思います。先の新人公演でも「全員で動く」みたいな稽古はまったくやりませんでした。二本立てだったし、期間も短かったし。しかし「全員で動く」でやっている身体のことと演技ということが役者さんのなかでつながるためには、本当は、もっと時間を掛けて訓練しないといけない。それこそ、年単位の時間が掛かることかもしれない。

 ともかく、奮い立ちますね。『イヴの総て』を観ると。あれにちょっとでも対抗できるものを創るにはどうしたらいいか、考えていかなきゃならないですね。

 

(聞き手:稲富裕介)

 


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