【雨天決行season.6】再出演俳優・Zoom座談会

 

三作いずれも約五年振りの再演作を揃えた
秋の三本立て公演「雨天決行season.6」。
その出演俳優のなかから、五年越しの
二度目の出演になる五名の劇団員に
Zoomを介して座談会をしていただきました。

(収録日:2020年9月28日)

 

 

 

 

  ───2020年10月に行われるアマヤドリの三本立て公演「雨天決行season.6」は、目下感染症対策のため、三つの作品で稽古場を分けて稽古をつづけていますが、本日はそれぞれの作品から、前回の約五年前の上演でも出演されていて、今回再度の出演になるみなさんに集まっていただきました。

 

全員  よろしくお願いしまーす。

 

  ───みなさんには予備知識のない方々への作品紹介がてら、五年前と今回の違いなども語っていただければなと思います。まずは『ぬれぎぬ』の、沼田星麻さんとワタナベケイスケさん。お二人は『ぬれぎぬ』をどんな作品だと考えていますか?

 

沼田  『ぬれぎぬ』は、初演のときは「悪と自由の三部作」という連作の第一弾という位置づけでしたよね。それもあって、自分のなかでは、「悪」というテーマが最も色濃く出ていた作品だったという印象になってます。ストーリー上分かりやすくはっきりと法律上の罪を犯した人間がいて、その悪にいかに対峙するかという話があり、他方で、自覚しないけれど日常のどこかに潜んでいる悪ということにも触れていて、ひっくるめて何が本当の悪なのか、自分は悪ではないと言えるのか否か、ということを考えさせられる作品だったと思います。

 

  ───そこは大きなポイントですね。民営化された刑務所のある地区という舞台設定があって、犯罪者と市民の対話という大枠が提示されはするけれど、何が悪なのかは簡単には割り切れない話になっている。

 

沼田  もっと言うと、悪という以上に「反省」の話なんじゃないかと思ってます。反省の難しさ、自分の悪を自覚することの難しさ、罪と向き合うことの難しさ。そっちの方が大切なことなのかもしれない。

 

 

───ワタナベさんはどうでしょうか。

 

ワタナベ  さっき星麻くんが言ったことに補足するかたちになりますけど、2014年度の「悪と自由の三部作」では、『ぬれぎぬ』は個人の悪と自由の話、第二弾の『非常の階段』は詐欺グループの悪と自由の話、第三弾の『悪い冗談』は国家としての悪と自由の話、という大まかな区別があって、そのなかで『ぬれぎぬ』は個人に焦点が当たっていたということで、観るお客さんには共感しやすい話だったと思います。なので、「こいつはなんて悪い奴なんだ」「こいつはなんて可哀想なんだ」みたいな感想が第一に来るとは思うんですが、そういった一側面を伝えるだけではなく、さらに、登場人物たちの人生を、お客さん自身に我が事のようにロールプレイして感じてもらえるよう、演じられたらいいなと考えています。

 

  ───なるほど。その点がワタナベさんにおいて、初演からの意識の変化ということになりそうでしょうか。ワタナベさんはtwitterでも、今回の稽古について「いつも以上に慎重に稽古を進めている」と呟いていましたが。

 

 

ワタナベ  うーん、これはとくに、僕が広田さんの台本に接すると感じることなんですが、広田さんの台本って、「このスピードで、この声量で読んでくれ」っていうことが指定して書いてあるように見えるんですよ、僕には。ここは速いテンポでやるよね、とか、ここはバシッと声量入れるよね、とか。そして、おおむねそのイメージどおりにやった方が上手くいきそうに見えるんですが、やはり、それは罠だと思うんですよ。台本上の科白ですでに組み立てられていることに単に乗っかった方が上手くいきそうに見えるとしても、罠なんで。いや、僕自身今までそれに乗ってやってきた部分もあったんですが、今回は、台本を読んで「これはこう読むんだな」「これはこうやったら楽しいだろうな」って衝動が浮かんでくるのを抑えて、ただ台本を眺めて役について考えるという時間を多くしています。ちゃんと台本の分からないところを探したりして。

 

  ───分かるような気もします。広田さんはメールでも、実際にお話ししていてもすごい饒舌で、広田さんが書く戯曲にも喋ることの快楽、快感というのが溢れていると思いますが、当然ながらそれだけの戯曲では全然ないですからね。とりわけこの『ぬれぎぬ』という作品は、科白に書かれている以外のところで、俳優に委ねられている部分が大きいと思います。

 

ワタナベ  それによって最終的にお客さんに見えるかたちとしては、もしかしたら、初演とあまり変わっていないねっていう感じになるかもしれませんが、例えば最終的には美味しいホットケーキか何かを作るということが目的で、それが「美味しい」という結果に変わりはないかもしれませんが、僕としては、もう包丁から変えてやっている、作り方が根本から違っている、という意識で稽古をしています。

 

  ───実際それは、目に見える違いとして表われるんじゃないでしょうか。そういう振れ幅を許容する戯曲でもあると思います。初演の『ぬれぎぬ』に出演されていた中村早香さんは、この作品についてどういう印象を持っていますか。

 

中村  『ぬれぎぬ』は、さっき喋る快楽というような話がありましたけど、やっぱりそれが広田さんの他の戯曲と比べると少なくなっている作品だという印象があります。だから、初演の自分のことを想い出すと、色々なことをそぎ落として演技を作っていきました。何かクセのあることをやるたびに「それはやらないでいい」と言われて、じゃあどうするのか、という事を必死に考えて、すごく勉強になった記憶があります。

 

ワタナベ  ありますねー。

 

中村  或る程度芸歴があれば、こうやれば楽しいだろうな、こうやれば心地よい音だな、というのは分かってしまうし、お客さんもそういうのが好きだなと感じると、こっちもそれをやりたくなってしまうし、という相互作用があると思うんですが、『ぬれぎぬ』は、そういう要素で成立させようと思えば成立させられる作品かもしれないけど、やっぱりそれ以外のところで面白くできる可能性のあるドラマで、そういう意味で難しい作品だなって思います。

 

  ───その難しさに今回の座組のみなさんがどう挑戦されるのか、期待して待ちたいと思います。

 

 

 

 

  ───次は『ジョシ』についてです。相葉るかさん、相葉りこさんのお二人は、この作品をどういう作品だと思っていますか?

 

るか  二人の女の子が転生して入れ替わっていく物語、ですかね?

 

  ───物語としてはそうですね。全体としてはコミカルで、笑いに溢れた作品になりそうですが。

 

るか  前半はもうふざけまくってるって感じですよね。台本上でも笑いを取りに行っているという箇所は多いです。

 

りこ  それと、当時これを書いた広田さんが大学生だったっていうこともあって、若さと勢いがすごいです。実は、五年前にやった『ジョシ』は、2003年の一番最初の『ジョシ』の伊東沙保さん・酒井彩子さんのキメキメの動きのほぼ完コピだったんですよ。笑いの取り方なんかも含めて。それで今回五年越しに再演するに当たって、それとは違うかたちでやってみようっていうことで二人で一旦作った動きもあったんですが、やっぱり一番最初の2003年の『ジョシ』のテンション、若さを復活させようという方向性になって、動きも前回のを踏まえたものになっています。とはいえ、もちろんセットとかは違うので、ベースはベースのまま作り直すということをしていますけど。

 

  ───そうやって動きは前回を踏襲しつつも、五年間でのお二人の俳優としての成長もあり、やはり前回より進化した『ジョシ』になるだろうと予想します。その五年前からの変化を、どんなふうに捉えていますか。

 

りこ  五年前は、開演始めから終わりまでの時間を二人だけで持たせるということが、本当にしんどかったです。その場の集中力を舞台で保ちつづけるのだけでも大変で。だからそれだけで精一杯だったという記憶で、しんどかったという想いもあって、二人とも、五年振りに『ジョシ』をやらないかっていうお話があったときに、「え、どうする」って三日ぐらい悩んで、決めるのに勇気が要りました。でも、五年振りにやってみると、当時よりは演技上のやり取りができるようになっている点と、五年前には全然気づかなかった、台本にある裏テーマ、学生時代の広田さんがニーチェなどを読んで考えて作ったこの作品の時間構造の面白さについても、少しでも理解を深められるんじゃないかという点で、五年前と同じく元気にわーってやりつつ、変化したところを見せられたらな、と思います。

 俳優としての成長ということでは、やっぱり、この五年間、アマヤドリで出られる作品には全部出て、そのなかで先輩たちのことを見つづけて、「これどうなんですか」っていう議論を一杯先輩たちとさせてもらって、そこから頂いたものを武器にして取り組めるというのが大きいと思います。五年前の何の武器もないという状態と比べれば。

 

ワタナベ  いや、僕は五年前の『ジョシ』も観させていただいてますけど、もう、別人と言っていいんじゃないですか? 俳優として見えているものの量がまったく違うと思う。五年前の『ジョシ』のときは、おそらく、広田さんから与えられたタスクに従って、結果として出てくるパフォーマンスをキープするっていうことをやっていた時期だと思うんだけれど、今は、広田さんから与えられたタスクをどう理解するか、という時点から明確に意志があって、自分たちが何をやろうとして何に躓いているか、ということも明確に見えていて、そして最終的に自分たちがどこへ向かうべきかということもぼんやり見えていて、もう、悩んでいることのレベルが違うと思う。単純に年齢を重ねたってことではなく、役者としての印象が全然違います。だから必然的に、上演も五年前とは全然違うものになるんじゃないですか。

 

るかりこ  (ニコニコする)

 

  ───広田さんが、お二人について結構面白いことを言っていたんですよ。「双子はアマヤドリに入団した頃の方が似ていた、今ではそれぞれの個性が別れてきた」とおっしゃっていて。

 

 

るか  実際それはめっちゃ思いますね。アマヤドリに入ってから、名字の違う役、本当に赤の他人だという役をそれぞれに振られて、同じ家系の人だとは思われないよう工夫して役作りをするという経験も数多くありましたし、今は別居していて、お互い生き方が違ってきたりしているので、自分たち双子が二人でセットだ、という感覚は、アマヤドリに入って以降、段々薄れてきていると思います。今は各々生きていこうぜ、っていうスタンスで。

 それで想い出すんですけれど、五年前に『ジョシ』の稽古をしていたときは、二人で一緒に暮らしていたし、本当ずっと一緒だったんで、相手が自分のことを分かってくれないことが分からない、みたいな状況だったんですよ。だから、「どうしてこう動いてくれないんだろう?」って思っても、上手くコミュニケーションが取れなかったりしたんです。でも今は、相手は他人なんだな、双子だけど他人なんだなこの人、って理解がもう頭にあるので、コミュニケーションがすごくやり易くて、何か引っ掛かったとき、ちゃんと言語化して「ここはいいよ」「ここは嫌だよ」って言えるようになって、五年前より稽古がし易くなったなって感じています。以前は言葉にするのをサボることで見失っていたものが色々あったんだなあ、と。やっぱり、人と人とが理解できないってことは、大切なんですね!

 

沼田  (笑) うん、双子は変わりましたよ。それは他の劇団員みなも思っていることじゃないですかね。単純に慣れて二人の見分けがつくようになったということもありますが、そういうことではなく、配役でも、アマヤドリでは二人を双子としてほとんど扱わなかったですし、振られる役の傾向がそれぞれの個性に沿ったものになっていて、二人の役者としての成長の方向もそれぞれだなあ、というふうに俺には見えてます。面白いですよね。

 

  ───劇団設立当初から関わっている中村さんは、この『ジョシ』の一番最初の初演にも立ち会われたと思います。中村さんの目からみて、この作品はどのように見えていますか。

 

中村  音とかリズムといった点では、俳優と広田さんとの相性が問われる作品だろうと思います。でもそれ以上に、2003年の『ジョシ』って、就職して会社員にはなったけれど、それでも演劇をやりたい、っていう女優さん二人が広田さんに企画を持ち込んで、直談判して戯曲を書いてほしいと頼んで、できた作品なのね。だから、どうしても演劇をやりたいんだ!っていう彼女たちの情熱がすべて詰まった作品で、当時のその熱量をすごく覚えています。演劇をやることを越えて生きていることそのもの、もう舞台に立っていることそれ自体が楽しくてしかたがない!っていうようなパワーが伝わってくる上演でした。

 

  ───たぶん、広田さんの劇作家としてのキャリアのなかでもメモリアルな作品ですよね。それを長い時を経てアマヤドリに入団した双子が、決定版として上演するというのも、劇団の歴史を感じさせる出来事と思います。五年越しのお二人の再演を楽しみにしています。

 

 

 

 

  ───では、中村早香さんの『ウィンドミル・ベイビー』の話をうかがっていきたいと思います。これは広田さんの戯曲ではなく、デービッド・ミルロイというオーストラリアの劇作家の作品です。作品紹介的なことを語っていただけますか。

 

中村  物語としてはシンプルな作品なんですね。アボリジニの、昔からオーストラリア大陸に住んでいる先住民のお話で、70歳のアボリジニのメイメイっていうお婆ちゃんが、50年振りに自分が過去に働いていた牧場を再訪して、そこで自分の過去の生活を顧みながら語っていくんですが、やがて、メイメイには目的があってここに戻ってきたんだっていうことが判明する。その成就のために、彼女は過去の出来事を一つ一つ想い出して、色んな物語が、色んな登場人物が現われて、最初はメイメイ一人の世界だったのがどんどんどんどん広がっていく……というお話です。アボリジニのお話ということで、少し難しそうな印象があるかもしれないですけど、そんなに複雑なお話ではなくて、民族としての迫害があって、悲しいことがあって、というシンプルな流れのなかで、色んな要素が見えてくるお話です。

 

  ───或る種の純朴さが根底にある作品ですね。それゆえの難しさがあると思いますが、それだけでなく、一人でお芝居をやるということの難しさがまず大きくあると思います。

 

中村  誰も助けてくれないという恐ろしさがあります(笑)

 

  ───広田さんも感銘を受けたという大方斐紗子さんの『ウィンドミル・ベイビー』は、中村さんもご覧になられましたか。

 

中村  DVDで、初演、再演、再々演、全部観ています。

 

ワタナベ  流石ですよねー。

 

中村  いやいやいや……。今回は、五年前の自分の映像もあったから観たんですけれど、まずは自分の映像を観て、「ああ、あたし頑張ってた、よくやってたな、下手くそだけどね」っていう感想を抱いてから、大方さんの映像をそのあと観たんですね。そしたら、「これと比べたらあたしのは何だありゃ」っていう感じになって(笑)。大方さんのが本当にすごくて。作品としては単純なお話なだけに、単純なお話だからこそ、その裏にあるものをどれだけ滲み出せるか、お客さんをその世界にどうやって引き入れていけるかっていう勝負なんだなって思って。五年前の自分は、自分なりにずっと力一杯全力でやっているってことでしかなかった。大方さんの『ウィンドミル・ベイビー』は、ところどころちゃんと穴を開けて、お客さんを引き込んでいって、本当にその世界の登場人物たちが生きていたんだってことを感じさせてくれていて。だって、私が大方さんの演技を観て一番泣いたのって、カーテンコールだったんですよ。もちろん劇中に感動するポイントはたくさんあるんですが、すべてが終わってから、大方さんが「ありがとうございました」って言って、今まで演じた色んな登場人物の仕草をちょっとだけ、カーテンコールでポーズでやったんですけど、それを観て、「ああ、この人たちの世界あったわ……」っていう感慨が溢れて、そこで泣いたんですね。すごい現象だなと思って。

 

  ───それは、戯曲読解の話にもなるかもしれませんが、それとは別の……今中村さんがおっしゃった「穴を開ける」っていう表現は面白いですね。

 

中村  そんなイメージなんです。私は、五年前はもう、鋼鉄の鎧を着て演技をやってましたから。

 

  ───今回は、それでは駄目だっていうところから稽古が出発しているんですか。

 

中村  出発はしているんですが、私の兜はなかなか強情でして、なかなか穴が開かないんです(笑)

 

 

  ───やはり一人芝居には独特の困難があるのだろうと感じます。他のみなさんは、一人芝居をおやりになったことはありますか。

 

ワタナベ  ないですし、自分にできるかどうかも分からないです。観るのは好きなんですよ、一人芝居を。一人芝居というジャンルが嫌いということは全然ないんですが、例えば、自分がパンクバンドを組んでいるとして、クラシックやジャズも好んで聴くけれども、実際それを演奏するのは別の話だよねっていうことに近くて、一人芝居を素敵だなって思っても、それを実際自分がやることには相当距離を感じますね。

 でも、早香さんの『ウィンドミル・ベイビー』の初演、僕が色々観てきた一人芝居のなかでも、印象に残ってますけどね。これは僕の主観ですが、一人芝居って、結構いかに自分が器用なことができるかっていうことのお披露目に終始しがちな気がするんですよ。一人芝居って、単に一人称視点で進むよりも、一人で色んな役を演じ分ける作品が多いじゃないですか。そして、そこで生じるテクニカルなタスクを、複雑に、複数回こなせばこなすほど素晴らしい、というふうになってしまっている劇が少なくない気がするんです。でも、一人芝居に課せられた制約を、器用さで乗り越えることって、そんなに意味があることなのかな、と僕は思っていて。『ウィンドミル・ベイビー』のメイメイという役を、早香さんより器用にできる役者は、そりゃあ演劇界は広い業界ですから、いると思います。思いますが、早香さんの初演『ウィンドミル・ベイビー』には、目の前で早香さんが身を削ってやっている姿に、物語を追いかけるのと並行して、観ていて心が動くタイミングがあったんですよ。だからそれは普通に楽しかったし、普通に感動しました。……なんか、早香さんがあの役をやっていること自体に感動したんだよな。

 

沼田  一人芝居は、演じている役者のパーソナリティを避けて通れないんじゃないかっていう印象が、俺にはありますね。もちろん特定の役を演じるは演じるんですが、一人芝居では、その人自身がどういう人間なのかっていうのが出てこざるをえないし、むしろ、それが見えれば見えるほど、結果面白くなっていくんじゃないかという気もしています。器用さということについて言えば、器用にやればやるほど、その人自身がどんな人間かということから離れていってしまう、という意味で、器用さでやるのが違うだろうという考えも分かる。ただ、初演の『ウィンドミル・ベイビー』は、俺らは、お客さんよりも余計早香さんがどんな人間か知っているわけで、それも含めて観ている部分で得しているところもあったでしょうね。

 

ワタナベ  まあね。

 

沼田  そして、本当に面白い一人芝居っていうのは、まったく知らない赤の他人が目の前でやり始めても、その人がどういう人間であるのか、こちらの想像や勘違いもあるでしょうが、そういうのが自然に出てきてしまうんだろうなと思います。それも含めての一人芝居の面白さなんだろうなと。

 

  ───なるほど。たしかに広田さんも、単に器用さでお客さんを楽しませるという趣旨でこの企画を立ててはいないでしょうね。初演の『ウィンドミル・ベイビー』にあった魅力は踏まえつつ、一人芝居としてどこまで先に進められるのか、今回の中村さんの上演を、しっかり刮目したいと思います。

 以上、みなさん色々と長時間語ってくださりありがとうございました。今回の、この「雨天決行season.6」は、劇団本公演ではない別枠の企画公演ではあるものの、五年越しの再演ということについて、三つの作品いずれにも背景と意味があり、アマヤドリが劇団であることの実質が問われてくるような、緊張感のある、生々しい公演になるだろうと予感しています。いずれの作品にも劇団でなければ立ち向かえないようなしんどさがある。最初から到達目標を、そう容易にはたどり着けない高みに置いている感もある。今回の三本立て公演で、五年前のアマヤドリを知っているお客さんにも知らないお客さんにも、劇団という形態で活動しつづけることの辛苦や困難、さらにその先の、充実や洗練の可能性をも見届けてもらえたらなと、お畏れながら愚考しています。──というわけで、劇団員のみなさま、本日はお忙しいなか、座談会に参加していただき本当に痛み入ります。お疲れさまでした。

 

全員  お疲れさまでしたー。

 

 

 


 

アマヤドリ 雨天決行season.6

『ぬれぎぬ』
『ジョシ』
『ウィンドミル・ベイビー』

作 広田淳一/デービッド・ミルロイ
演出 広田淳一

2020年10月14日(水)〜10月25日(日)@シアター風姿花伝

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