主宰・広田淳一にインタビューするこの連続企画、 今回は番外編として、劇団所属の俳優 ワタナベケイスケさんの話を伺いました。 |
(photo by 赤坂久美/bozzo)
川の流れを眺めるように
───毎度ながらの広田さんにインタビューする企画ですが、今回は、先の「雨天決行season.6」の振り返り雑談をする予定が、広田さんがお忙しいということで、急遽、代打で「雨天決行season.6」で『ぬれぎぬ』に出演されていた劇団員のワタナベケイスケさんをお呼びいたしました。 |
ワタナベ よろしくお願いします。 |
───ワタナベさんをお呼びしたのは理由があります。ワタナベさんは10月の公演前に、ツイッターで「いつも以上に慎重に稽古を進めている」「これが今回自分のなかでより良い成果につながっていくのではないか」ということをつぶやいていて、公演後には「新たな試みをして実り多い公演だった」という総括的なことをつぶやいていました。そしてまた、それをどこかで共有できる場があればいいなともおっしゃっていたので、今回の『ぬれぎぬ』で、ワタナベさんが俳優として得た手応えについて、インタビューし、文字として残しておいたらいいんじゃないかと考えたんです。 |
ワタナベ 「共有」というのは、誰かに伝えたいとか、教えたいとか、そこまで本格的なことではなく、いつも演劇のことで会って語り合っている人たちに向けて、関心あればまた話しましょうという程度のことではありましたが。 |
───あとは『ぬれぎぬ』におけるワタナベさんのパフォーマンスの質が非常に高かったことも、お呼びした理由の一つです。では、私がワタナベさんの「新たな試み」について共有する最初の人物ということで、伺っていきましょう。──まず訊ねたいのは、山中結莉さんのワークショップについてです。ワタナベさんは今年受けた風姿花伝でのワークショップ、とりわけ山中さんのワークショップから多く示唆を得て、それを今回の『ぬれぎぬ』で活かしたとも取れるツイートをしています(https://bit.ly/37UtEj8)。これは、戯曲読解のワークショップだったのでしょうか? |
ワタナベ 今年受けたのはそうです。山中さんのワークショップは以前も受けていて、今年のはとくに戯曲読解にフォーカスしたものだったんですが、すごい良かったんですよ。そもそも山中さんのワークショップ自体が良くて、〔小角〕まやとかも受けてて「良かったよね」って話したりしてるんですけど。ただ、今年の戯曲読解のワークショップが僕にとって重要だったのは、それが僕個人が近年直面していた課題を解く鍵になりそうだったからです。 戯曲読解については、僕のなかでもっと以前に大きな転機がありました。大分遡るんですが、2015年3月にアマヤドリの『悪い冗談』の上演がありましたが、僕は、その少し前に城崎国際アートセンターで北川大輔さんと演劇の滞在制作をする機会があったんですね。一ヶ月半ぐらいの滞在制作で、みんな他にすることないですから、膨大な時間毎日毎日ずっと演劇漬けで。そのなかで、戯曲を完全に一から読解してみようっていう時間があって、本当に一ブロックずつ、分からない箇所、疑問に思う箇所をみんなで挙げて、全員でディスカッションして答えを探すということをやったんです。しかもその答えは、単なる解釈では駄目で、必ず戯曲の本文のどこかを典拠としなければならないというルールを徹底して。 それをやっていくうちに、自分のなかで或る認識が得られたんです。というのは、俳優は──というより僕は、台本を読むとき、知らず識らず上演を想定しながら読んでしまっているということ、すなわち、単なる文字情報としてでなく、台本に色々と余計なものを付加しながら読んでしまっているということが分かった。本来なら、まず確固たる原典としての台本があって、そしてそこに書かれている事実の厚みというものがあって、さらにそのもっと外側に俳優がそれを演じたときのパフォーマンスのイメージというものがあるはずなのに、自分は、その二番目と三番目をごっちゃにしてしまっている。俳優は、僕は得てしてそうなりがちだな、っていうことを認識したんです。 でもそれを認識したからといって、じゃあどうすればいいかということはなかなか難しい。普通にやっていると、例えば台本を覚えようとするときにも、無意識に余計なものがくっついてきちゃうんですよ。で、どうやってフラットに台本を読めばいいのか、どうしても上手くいかないな、って課題を抱えて悩んでいたところに、山中さんのワークショップで学んだことが、一つの光明になりました。ものすごく具体的に戯曲に書いてある事実を掘り下げていく。この戯曲の舞台になっている場所はどこなのか、このシーンのこの部屋ってどこにあるのか、この登場人物はいつここに来たのか、戯曲に書いてある事実を、とにかく調べる。そこから役の人生について考えていく。そういうアプローチの仕方が、僕のなかでは城崎国際アートセンターでの経験が転機になって直面した課題の、解決策になっているように思えたんです。 |
───素朴な疑問なのですが、戯曲を純粋にフラットに読まずに、上演を想定しながら、色々余計なものを付加しながら読んでしまうと、どのような弊害があるのでしょうか。 |
ワタナベ 単純に言うと、誤読が生まれる。誤読が生まれるし、意味を置き去りにしてしまう瞬間が生まれるんですよ。僕に関して言えば、科白を扱うときに、僕特有の節の強さや、テンポ、間の取り方、語尾の上げ方といった癖があって、それに引っ張られて役の感情を理解してしまうということが起こります。そうすると、そこにはもっと複雑な意味があったはずなのに、最終的には自分に寄せて理解してしまう、そして毎回やっていることが同じになってしまうということになりがちだな、と。そういう弊害があると思います。戯曲の面白さを汲み尽くす手前で仕上がってしまうんです。 |
───今回はそういう弊害を避けられたと自覚しているわけですね。 |
ワタナベ もう本当に、広田さんには自由にやらせていただいたんで。妙な表現になりますけど、川の流れを眺めるように、ずーっと台本をただただ眺めているっていう時間が長かったです。「分かんねーな」「分かんないわ」とずっと考えつづけて。これまでは、台本を与えられたら、分からない箇所も含め自分の技術を使ってこねくりまわして何か作らなきゃ、何とか形にしなきゃ、という努力をしていたんですが、そういうことはやらずに、ただひたすら向井〔※『ぬれぎぬ』でのワタナベさんの役〕という人物の像が見えてくるまで、台本を眺めていました。もちろん、有島とどこで出会ったんだろうとか、この仕事何年やってるんだろうとか、色々調べたりはしつつ、そうして調べて考えたことは考えたことで、一旦脇に置いておいて、向井ってどういう人間なんだろうなっていうことを延々考えていた。 |
───向井という役は、戯曲の前半と後半で見せる面がちがってくる役ですが、それでも前半からの一貫性がないと成立しないシーンがある役だと思います。 |
ワタナベ でも、川を眺めるように台本を眺めているときには、シーンの整合性が取れるかどうかっていうことすら、全然考えていなかったです。安易にこうやろうとかこうしようとか考えないで。だから、二回目の通しぐらいまでは、とくに後半のシーンとか、分からないことは分からないっていう体を稽古でも前面に押し出してました。でも、それが自分にとってはすごく良かったと思うんですよ。安易に形を作ってしまわないということが。 |
───すでに述べたとおり、私は今回の『ぬれぎぬ』におけるワタナベさんのパフォーマンスは質が高かったと感じているのですが、一言で言うと、科白の扱いがすごく丁寧だったなという印象を抱いています。──例えば冒頭の、携帯電話越しに夢について語る科白がありますが、あれは、内容が内容なだけに、つらつら喋っているだけだと観客を思いっきり退屈させかねないんですけれど、ワタナベさんの向井の場合、観客がとくに科白の内容に集中していなくても大体言っていることが頭に入ってくるような、科白の扱いの深さがありました。それって、その科白における重要なところや引っ掛かるところはどこか、きちんと把握しているからこそ、出てくる深さだったと思います。 |
ワタナベ 以前と比べたら、科白の扱いは丁寧にはなったと思います。あの夢についても、あの夢って一体何なんだろうってことは、ずっと考えていました。向井にとってどんな夢なのか。彼がよく見る夢なんだろうなあ、とか。 |
───そうやって長く考えつづけた上で、しかしその考えたことをパフォーマンスに直結させるのではなく、考えたことを一旦脇に置く、その脇に置いてある検討量の多さが、丁寧さとして表われているようなパフォーマンスだったと思います。一度膨らませたものをスリムに、シンプルしたがゆえに出てきた丁寧さというか。 |
ワタナベ そうですね。稽古期間中はそんなふうなことをやっていたと思います。 |
立ち小便に相当するもの
───丁寧さということで、もう一つ例を挙げます。『ぬれぎぬ』のなかで、最初に向井と占部が対話するシーンで、小憎らしい占部の態度によって対話が険悪に白熱していくということが起こります。そこで、向井の腕時計と海外で窮乏する子供たちの比較を持ち出された箇所で、向井が「全然ちがうでしょ。まるっきりちがいますよ。これは端っからちがいます」という強めの科白を言う。このとき、私の記憶ではワタナベさんは、占部と完全に一対一で対話しているシーンなのに、「まるっきりちがいますよ」のタイミングで、客席に言葉を振ったんですね。しかも、私は劇場でと映像でと、『ぬれぎぬ』は別の回を二回観ているんですが、どちらでもほぼ同じタイミングで客席に言葉を振っていた。そのタイミングが丁寧だったなという印象があります。それは、単に時々言葉の配置を広げてみたということではなく、稽古場で色々試行錯誤して掴んだタイミングで客席に言葉を振ったということが分かるような、安定感、丁寧さがあったと思います。 |
ワタナベ その箇所は、長く二人で喋っているシーンですが、お客さんにもちょっと参加してもらいたいなという気持ちもあって、「このタイミングだな」っていうところで、言葉を振った感じですね。 |
───演技中言葉を客席に振る、身振り手振りをお客さんに見せるという技術自体は、べつに珍しくないんですけど、それを効果的にやるには、密度の高い戯曲読解をベースとした上で、色々考えて可能性を探って「ここだな」っていうタイミングを見つけないと、丁寧にならない、却って雑な印象にもなりかねないと思うんです。 |
ワタナベ その箇所に関連して言うと、『ぬれぎぬ』という戯曲の特殊さ、向井という役の位置付けについては、かなり悩みました。僕にとって、『ぬれぎぬ』で一番面白いのは、全然ちがう国だったり、全然ちがう時代の話ではないけれど、舞台は日本で時代も今とそんなに変わらないけれど、やはり特殊な「特区」の設定があったりということで、現実とは少しちがう時空の物語になっているところです。それで、その面白い世界をお客さんにも体感してほしい、ロールプレイしてほしいと考えたときに、どういうことを俳優はできるんだろう、演技レベルで何かできることがあるんじゃないか?と、ずっと稽古中探っていたんです。 で、そのヒントになったのが──これ話が逸れるようで逸れていないんですが──僕、ラッパーの呂布カルマさんという方が、すごく好きなんですよ。そして、その方が今年4月に出した「Karmic Overdose」(http://youtu.be/diZfE_DuuX4)という曲がすごく良かったんですが、その曲の何が自分に刺さったのかというと、言葉の持つフィクション性の扱い方が天才的だな、と思って。例えば、一つのラインで「未踏の地で立ち小便」というフレーズが出てくる。「未踏の地」っていうのは、「関ヶ原」とか「本能寺」とか実在する時空とは直接繋がっていない、フィクショナルな、抽象的な場所で、そういう言葉を使ったこのフレーズも、「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」といった諺や慣用句のように、フィクション性の高い言葉で何かの意味を伝えようとする、たとえ話に近いものだと思うんですが、それだけで終わっていない。そこに「立ち小便」っていう日常的な言葉があることで、一挙に世界が広がる感覚があるんです。「未踏の地」だけ言われると、どこにも実在しない、何か切り立った崖があったりする場所なのかなというイメージにとどまるんですが、「未踏の地で立ち小便」って言われると、急に「未踏の地」がリアリティを帯びてくる。未踏の地だけど、立ち小便していいんだ、そりゃ場所だからそうだよね、立ち小便できるよね、そっかそっか、っていう。言葉の組み合わせの妙で俄然フィクションの実感が具体的になる。翻って、「Karmic Overdose」に倣って、今回僕が『ぬれぎぬ』をやるにあたっては、この未踏の地に対する「立ち小便」に相当するものを、演技のなかで見つけなきゃならないんだな、と考えたんです。それが結果として、おそらく、「まるっきりちがいますよ」のタイミングの動きなどに結実したのだろうと思います。 この悩みでは、一回広田さんにも相談したんですよ。どうしたらいいんですかね?って。それで広田さんがおっしゃったことも自分のなかではつながって。例えば、僕がジンバブエで何かのビジネスをやっているとします。そして、僕が投資家たちに対して、「ジンバブエっていうのはこういうところでー、こういう人たちがいてー、こういう美味しいものがあってー」とビジネスの説明しているところに、タッタッタッと僕の部下がやってきて、「すみません次の会合に出るときのリボン、これでいいですか」って横から質問してくる。それに対し「おまえバカ、ピンクは駄目って言ったじゃん、ジンバブエはピンクNGなんだって! 分かってんだろ!」って怒鳴ってから、また投資家たちに「あ、すみません、ちょっとこっちの話で」って切り替えて話しかける。そういうふうに、聞き手(投資家=お客さん)を一旦突き放してから、「ごめんなさい、話を中断しちゃって」って感じで戻ってくる、その行き来があるといいんじゃないか、っていうのが広田さんのお話で、それが、僕的には「それだ!」とすごく腑に落ちたんですよ。演技レベルで、『ぬれぎぬ』の世界にリアリティを帯びさせるための、「立ち小便」に相当するものを探すにあたって。 だから、「まるっきりちがいますよ」の動きも、そうやって色々考えていくなかで、向井という役としてやるわけではなく、戯曲の世界をお客さんにロールプレイしてもらうためにやる、しかし、それを向井として不自然ではない動きとしてやる、ということを精査していった結果出てきたものだと思います。 |
───面白いですね。今のお話だと、戯曲を読んで「どうしたらいいんだろう?」って引っ掛かって、疑問を持って取り組んだという端緒が重要だったのかもしれないですね。疑問がないと、解決しようという模索の可能性も生まれないですから。 |
ワタナベ 疑問を持てるようになるのが、成長の証だとは思います。でもそれは、僕の場合は、周りにいた先輩たちのおかげですね。〔中村〕早香さんとか、倉田〔大輔〕さんとか、それこそ成河さんとか、色んな人と話してみても、やっぱり誰しもずっと悩んでいるので。あんなに芝居上手ければ悩みとかなさそうだけどな、何でもできそうだけどなって思う先輩でも、「分かんない」「分かんない」ってずっと言ってるんですよ。本当に素晴らしい役者の方ほどずっと悩んでるんで。だから僕も、どうやったら悩めるかということは探しています、つねに。 |
麻雀の摸打(モウター)
───私の知っている或る役者の方も、能力が高く、経験も豊富な俳優ほど短時間で的確な戯曲読解にたどり着いてしまうので、意識的に遠回りして可能性を探す作業をしないと、稽古を通じての発見がないということをおっしゃっていました。 |
ワタナベ そう。遠回りは大事ですよね。最終的には本番に間に合えばいいんですから。今回、門田役の〔沼田〕星麻めちゃくちゃ良かったと思うんですけど、あいつも、色々遠回りしてましたもん。本当に星麻は一皮剥けたなと思う。 |
───ワーク・イン・プログレスの段階ではまだ門田という役を掴めてないのかな、どこか素の沼田さんに近いところでやっているなという印象でしたけれど。実際の上演では、全然ちがいましたね。過去のアマヤドリの舞台でも類例のないような演技体で。 |
ワタナベ うっかりこっちが惹き込まれて感動してしまうような演技を見せてくれて。やっぱり、彼なりに色々やっていたことが、最終的に結実したんじゃないですか。彼は彼で、実演家としては僕とはまったくちがったマシーンなので、厳密に彼のなかで何が起きて何がつながったのかは、僕には分からないですが。 門田というのは、彼にとってはネックになる役だったと思うんですよ。星麻は器用な俳優ではあるんですが、再演『月の剥がれる』での役とか、再々演『銀髪』での役とか、自分と合わないような方向性を求められたときに、パフォーマンスが落ちてしまうということが往々にしてあった。そして『ぬれぎぬ』の門田という役も、普段の彼からすると良い結果が出にくい役だと僕は思っていたんですが、実際、稽古序盤では苦手そうだなということが露わだったんですが、やっぱり彼は、考えつづけて、色々調べたり、本も読んだりして、相当回り道をしていましたし、くだらないことでも何でも、やってみたことが良かったんじゃないかと思います。門田というのは両親からも見放された、天涯孤独の受刑者という人物ですけれど、それをなぞるかのように、彼は稽古期間中友人とかに一切会わなかったらしいんですよ。あと、風呂に入るときも、絶対湯船にはつからないで、制限時間を設けて、石鹸しか使わないで洗うとか。もちろん本人も、「こんなことやって何になるのか分からないですけどね」って言ってましたし、実際それによって門田のことが理解できたなんて簡単な話ではないと思いますが、そういう模索をして、ちょっとでも何かが見えてこないかな、って足掻いたこと自体が良かったんじゃないかと思うんです。 |
───女性から端的に「気持ち悪い」って言われる役ですからね。普段の沼田さんのパーソナリティからすると、相当距離がありそうです。 |
ワタナベ それはずっと悩みつづけて、考えつづけていましたから。休憩中もよく彼と話し合いましたけど。 |
───ここまで伺ったお話を考え合わせると、遠回りするには、戯曲の難しさを受動的に受け止めているだけでは駄目なのだろう、という気がします。突き詰めて考えられる、延々と悩むことのできる問題というのは、おそらく意識的に探さないと見つかならない。そもそも『ぬれぎぬ』という戯曲自体分かりやすいドラマの構造をしていなくて、難解ですが、受動的にではなく積極的に、どうやったら疑問を持てるか、どうやったら悩めるかという模索をしないと、その難解さに翻弄されるだけになってしまう。それなら自らの意志で遠回りを選んだ方がいい。 |
ワタナベ そう。それにまた、そうやって回り道をして、突き詰めて考えて、悩める問題って、演劇をやっていない時間にも持続するものだと思っています。 芝居をやっていないときって、不安になりもするんですけどね。自分は本当に俳優なのかっていうアイデンティティが揺らぎがちなので。目の前に演劇の仕事があった方が安心する。でも、「遠回りをする」という意味では、僕には芝居をやっていない時間も結構重要だったりするんですよ。芝居の仕事がない時期でも、僕の場合、演劇と関係ないところで人と会って話したり、「こうなんじゃないかな」って演劇を離れて考えたりしたことが、後々になって、自分が演劇で悩んでいたことの答えにつながったりすることが、あるんです。稽古に入ってから、「これってあのとき考えたことじゃん」って気づく。それは、悩みや疑問を抱えて悶々とすることに耐えつづけて、長い時間、現場を離れても考えてつづけていたからこその気づきだと思います。 例えば、麻雀プロと麻雀の話をしたりすること。ひたすら麻雀のことを真剣に考えること。演劇のワークショップに参加したりっていうことだけじゃなく。一度、僕は麻雀プロの滝沢和典さん〔※日本プロ麻雀連盟所属、Mリーガー〕と呑ませていただく機会があって、「滝沢さんの牌捌きって綺麗ですよねー。なんでそんなふうにしてるんですか」って訊いたんです。滝沢さんの摸打って、姿勢もピシッとしていて、すごいカッコいいんですよ。なんでその姿勢でやっているんですか、と訊いたら、滝沢さんは「うーん、色々理由はあるんですが、これだと相手に読まれにくくていいんですよね」って答えをくださって。じゃあそれ俺もやってみようって思って、自分も背筋を伸ばして、決められた動作で摸打をやってみたら、たしかにこれは相手に読まれにくいんです。それまで僕は配牌が配られてから、手牌が良いとちょっと前のめりになって、駄目な手牌だと猫背になったりとか、手牌の良し悪しで身体の状態が変わってしまうような打ち方をしていたんですよ。そのことを、姿勢を一定に保つ打ち方を試すことで自覚できた。しかも、しっかり手牌と卓に対して真ん中に自分の身体を持ってくることによって、場の状況もよく見えるようになったし、自分の手も冷静に判断できるようになった。そこで思ったんですよ。戯曲読解も、「これだ」と。 |
─── (笑) |
ワタナベ 台本を読むときも僕はこうじゃないといけないんだ、と。今回の『ぬれぎぬ』に対しても、自分の役がどうだから、とか、こういう盛り上がりのあるシーンだから、とかいうことを抜きにして、戯曲に書かれていることをフラットに読もうとするとき、身体の姿勢というのがかなり重要なんだ、と。僕はこれ、滝沢さんと話さなかったら考えつかなかったと思いますよ。フラットな戯曲読解にフィットする身体の問題というのは。 |
───じゃあ、先ほどおっしゃっていた川の流れを眺めるように台本を読んだっていうのも、麻雀での気づきの応用だったんですか? |
ワタナベ ええ。これはtwitterでも書きましたけど(https://bit.ly/37UtEj8)、演劇をやらないあいだにずっと考えていたことが、自分の演劇を前に進めてくれたと感じています。今回、広田さんとやるのも二年振り、もちろん、間に映像の仕事をやっていましたが、演劇をやるのも相当久しぶりで、最初の一週間はやはり、現場感がなくてふわふわしていたんですけど、逆に言うと、一週間もあればブランクなんてすぐに埋まるんです。それだったら、現場が目の前にある時間だけでなく、演劇を離れている時間も同じくらい重要なんだって捉えた方がいい。その方が、自分の演劇を前に進めるための糧が得られる。現場を多くこなして、自分の今のキャパシティではこれだけ期間を与えられればこれくらいできる、というのが分かったら、別のアプローチを目指すべきだと思う。そのためには、回り道して、今までの努力の延長線上ではないところ、演劇から離れたところまで視野を広げて、締め切りに追われないで考えたり、人と話したり、例えば真剣に麻雀したりする時間が必要だと思うんですよね。 やっぱり、面白いものを作りたいし、すごい人にもなりたいじゃないですか。そのためには、コツコツ自分の演劇を前に進めていくしかない。 |
───いずれにせよ、そのためにも、疑問を持つ能力、突き詰めて考える能力というのが必須になってきそうです。 |
シャボン玉の膜を割らない
───『ぬれぎぬ』の上演について具体的に、こちらからは冒頭や占部との対話シーンなど、ワタナベさんのパフォーマンスを指定して取り上げてみましたが、それ以外で、ワタナベさんご自身で手応えを感じているシーンというのはありますか。 |
ワタナベ 手応えがあったのは、はじめの方の、最初に有島と門田が対話するシーンで、途中途中で僕(向井)が客席に向かって喋るという箇所がありますよね。あそこは、自分のなかでは安定した手応えを持ってやれてました。 |
───そのシーンだと、私はワタナベさんの佇まいが印象に残ってます。 |
ワタナベ あのー、これまず伝わるかどうか分からないので、前提として言うと、近年の僕、2018年の『野がも』の前後あたりから、広田さんに「あなた、何言っているのかよく分からないな……いや、あなたがピンときてるなら全然良いんだけどね(笑)」って言われるようになってるんです。自分の演技について説明し、ディスカッションするときに。広田さん曰く「俺はピンとこないけど、あなた自身で分かってて、パフォーマンス自体もそんなにおかしくないなら、それはそれでいい」と。それって、実は、僕のなかでは意図的にぼやかしてることなんですね。別に煙に巻こうとか、わざと奇妙なことを言おうとしているんじゃなくて、頑張ってぼやかしているんです。それはどういうことかというと、近年僕は、言語化して説明することにはかなり危険な側面があるな、と感じていて。例えば、──稲富さんが着ているそのパーカーって、黒じゃないですか。で、僕の着てるパーカーも黒じゃないですか。でも、厳密に言うと絶対ちがう色ですよね。どっちかの方が濃くて、どっちかの方はグレーが入っててとか、あるはずです。だけど「黒」って一言で説明してしまうと、「黒」で確定してしまうんですよ。それは便利なところもある反面、対象そのものの豊かさが失われてしまうところもある。演技の説明についても同じで、何かを捉えておく必要はあるんだけれど、それを完全に説明できる形で捉えてしまうと、色んなことが落ちてしまう気がするんです。だから、敢えてふわっとさせておくことの大事さがあると思う。それで、演技について、自分にだけは分かる言語で、豊かなイメージが損なわれないようにしておこうとする結果、「何言ってるのかよく分からない」っていう、ぼやかした喋り方になっているんですね。 その上で、『ぬれぎぬ』の手応えのあったシーンの話に戻ると、僕はあのシーンに対して、「こういうイメージなのかもしれない」っていう直観が当初からあって、そのイメージを損なわず、ずっと継続してやれたので、自分としても納得のいくシーンになったと思っているわけです。 |
───あのシーンでは、二つの時間が交互に進んでいきますが、向井の科白が終わって焦点が有島と門田の対話に切り替わるときに、ふっとワタナベさんが振り返ったりする動きなどが面白かったな、と記憶しています。 |
ワタナベ あそこは僕のなかでは、言わば、客席と舞台面とのあいだに大きなシャボン玉の膜があるイメージでした。そして僕=向井は、最初シャボン玉の膜の内側にいるんです。だからお客さんからは、まず最初僕はシャボン玉のなかの人であって、同じようにシャボン玉の膜の内側にいる有島と門田の二人を、シャボン玉のなかの人として見守っているんだろうなというふうに受け取られることになります。ところが僕は、僕=向井が喋るタイミングで、一旦このシャボン玉の膜を割らないようにシャボン玉の外に出る。シャボン玉の外側で、お客さんと同じ空間において喋る。それから、またシャボン玉のなかへ入っていく。でも、シャボン玉の膜って脆くて簡単に割れちゃうんで、そのときあまり雑に入ったらいけません。シャボン玉の膜がパーンって割れたらもう劇が台無しですからね! だからヌルっと、シャボン玉を割らないように繊細に入って、そして、シャボン玉の膜は少しだけ揺れて、ポチョンってなってから閉じます。そうすると今度は僕のまわりにもシャボン玉の膜ができるわけですね。だから僕は次にシャボン玉の内側で喋る機会がありますが、そのときには、自分のまわりのシャボン玉を壊さないように喋らなくちゃならない。やはりシャボン玉が割れたら台無しですから。 |
───……そこまではっきりとイメージを受け取ったわけではありませんが、二つの並行する時間を切り替えるときに、パッパッと鋭角的に切り替えるんじゃなくて、かなりふわっと、曲線的に切り替えていたなという印象はありますよ。それは、広田さんの指示ではなく、ワタナベさん自身の戯曲読解から、このシーンはこうなるだろうなっていうイメージが湧いて、それを実践したということなんですか。 |
ワタナベ そうですね。照明とかも、地明かりのままだったらという想定で、どうなるだろうなと考えた結果ですね。とはいえ、イメージができたらすぐ実践できるようになったということはなく、「これだとシャボン玉割れちゃうな」「今のだとシャボン玉の膜に押し返されて入れないな」「膜を引っ張って変形させちゃったな」とか反省しながら、トライ・アンド・エラーで洗練させていった感じです。 |
───それも、初発に「このシーンをどうやったらいいんだろう」っていう大きな疑問があって、それを突き詰めることによって掴んだイメージなのだろうという気がします。『ぬれぎぬ』は再演なので、「どうやったらいいか」参考にできる一つの形はすでにあるわけですが、ワタナベさんは、それは一旦白紙にし、川の流れを眺めるように戯曲を眺めて、時間を掛けて考えたことからシーンを作っていった。そういうことでしょうか。 |
ワタナベ 近年の僕は、戯曲をワンクッション置いて、疑問を媒介に慎重に読むことができるようになったんだと思います。例えば広田さんの戯曲って、登場人物の言葉のやりとりにおいて、良い意味で盛り上がるところがはっきりしているので、俳優もそれに向けてテンションをコントロールしがちなんですよ。自戒も込めて言うんですが。ここでカタルシスがくるな、とか、ここで喧嘩がヒートアップするな、とか。でも、その恣意的なコントロールによって、戯曲読解の発想がすごく縛られてしまうということが起こるので、そこは慎重にならなければならないと思うんです。同様に、初演の形についても、それにあまりに頼りすぎると、戯曲をワンクッション置いて読む契機、戯曲を疑う契機を失ってしまう。だからそれもやはり慎重になるべきところ、粘って踏みとどまるべきところだなと思います。 |
───でもそれは、遠回りして、粘って悩んだ方が結果として良くなることを、経験として分かっていないと、なかなか踏みとどまれないかもしれません。ワタナベさんはそれで「良くなる」確信を持っているのだと思います。 |
ワタナベ まあ、以前にも、或る演出家の方に、「君は自分が時間の掛かる俳優だってことを自覚した方がいいよ」って言われたことがありますけれども。「台本を渡されてすぐパッとできるというような俳優じゃないのなら、どうせ時間は掛かると思って、時間を掛けた方がいい。『時間がかかる』ということは、あなたが思っている程悪いことではないよ。だから器用に何でもできますみたいな顔はしない方がいいよ」と。実際、そうだなと思うし、そういう自覚がないと、稽古期間の時間配分を間違えるということだって起こる。だからあんまり周りに左右されることなく、俺は時間を掛けよう、自分はそれでいいや、っていうのは、諦念まじりに思っています。 |
自分の手からパワーが出る
───ついでながら、演技と空間というテーマでも、ワタナベさんに話を伺っておこうかなと思います。ワタナベさんは演技について考えるにあたって、空間性ということをどのようにお考えでしょうか。というのも、かなり昔、広田さんとお話していたときに、「空間とやりとりできる役者もいる」っていう言葉が出てきて、それが印象に残っているんですよ。「普通、役者は相手役とやりとりするんだけれど、相手役とよりも、空間との情報の入出力を優先させる役者もいる」と。そして『ぬれぎぬ』のワタナベさんのパフォーマンスを観て、再度その言葉を想い出したりもしたんです。 |
ワタナベ 空間について……それはもちろん意識していることはあるんですけど。これはちょっと、そのときどきによって言うことが変わってしまうかもしれません。 |
───一観客の観点から言うと、単に声量が大きいとか身振りが大きいとかではなくて、空間に対して与える影響が大きい役者とそうでない役者がいるな、という認識を持っています。当然場面場面によって変化するファクターではありますが、相手役との空間に閉じている役者と、そうでない役者とのちがいはある気がしています。 |
ワタナベ うーん。えーっと、例えばですけど……、こう、自分の手からパワーが出せるとするじゃないですか。 |
─── はい。 |
ワタナベ で、相手役も、手からパワーが出せるとして、その二人のパワーを掛け合わせて光線がぶつかり合って何かもやもやっとしたものができるのが、会話だとするじゃないですか。主としてお客さんにはそれを観てもらうんですけど、でも、舞台のお客さんのなかには、ときには僕だけを観ている人とかもいるわけですよ。この人は何をやっているのかな、何色の光線出しているのかな、という興味で。そういう視線のために、パワー光線は前に出しつつ、その光線のパワーが自分のまわりに放電するかのように、自分のまわりにパワーを広げるということもしたりする。空間についての意識というのは、そういうイメージです。 |
───面白いですね。それは舞台俳優ならではの意識だと感じます。画面の焦点が大体決まっている映画と比べると、演劇ではお客さんは、あらゆるタイミングで舞台のどこを観てもよいという自由がありますから。 |
ワタナベ その、自分のまわりで放電させるパワーの広がりは、或る程度まではパワーが届く距離をコントロールすることもできます。上手前列に届く程度にとフォーカスを絞ったり。 |
───『ぬれぎぬ』では、冒頭のただ携帯電話に向かって喋っているシーンでも、ワタナベさんの演技は空間性を感じさせるところがあったと思うんですね。その印象からすると、今のお話はすごくしっくりきます。 |
ワタナベ でも、この意識って、広田さんがかなり昔に言っていた「縦の磁場と横の磁場」っていう話を、自分なりにイメージ化した結果でもあります。要は、相手役との会話っていうのが、舞台面に対する「横の磁場」で、その真ん中や役者を含めたところと客席のあいだにあるのが「縦の磁場」で、作品によって必要な強度が変わってくるとはいえ、僕たちの舞台はその両方の磁場がないといけないよねっていうのが、広田さんのおっしゃっていたことでした。一時期ずっと言われていたんですけど。俺が劇団に入ったときはちょくちょく言われてました。そして、縦の磁場っていうのは、やはり劇場空間と相関するものだと思います。劇場が広くなると縦の磁場が弱いままでは成立しなくなるとか、挟み舞台や囲み舞台になるととたんに縦の軸が増えるとか──十字になったり全方位になったりする──そういう厄介なことが起こる。だから『HUNTER×HUNTER』を読めって広田さんは言うんですよ。 |
───??? |
ワタナベ 「円」っていう能力の話です(解説:https://bit.ly/37bvJIA)。あれだと超イメージし易いんですよ、縦の磁場のことを。 |
───なるほど。その縦の磁場のことは、言われないと意識できないという人はいるかもしれないですね。 |
ワタナベ とはいえ、当然ながら横の磁場のことだってめちゃくちゃ難しいんですけれどね。いわゆる、相手のことを見る、聞く、言葉を当てるっていうことですが。どうやったらより見られるのか、どうやったらより聞けるのか。そのことを考えつづけたこの五年間と言っても過言ではないです。そして答えは見つからず……。 以前中嶋しゅうさんに言われたことがあるんですよ。那須佐代子さんのワークショップで、那須さんが、僕がしゅうさんをすごく好きなのを知っていて、「しゅうさん、彼にも何か言ってあげて」って気を利かせてくださったんですけど、そしたら──「君のやろうとしていることは分かるし、間違っていないと思うけど、それは、見ているふうなんじゃない? 聞いているふうなんじゃない? 本当には見えてないんじゃない、本当には聞けてないんじゃない?」と、しゅうさんから言われて。そのときの僕は、見ること、聞くことについては少し、何か掴めたような感覚があって、それを実践していたところだったので、もう、土台からひっくり返されたような思いでした。だって、僕より見えていて、僕より聞けている人から、そういうふうに指摘されたわけですから。膝から崩れ落ちるような気持ちでした。それで、後日しゅうさんの劇を観ても、やっぱりしゅうさんはすごく見えているし、すごく聞けているんです。だから「どうやって見てるんですか、聞いてるんですか」って訊ねてみもしたんですが、しゅうさんは「めっちゃ見るし、めっちゃ聞くんだよ!」とだけおっしゃって、それは理屈のある答えではなかったものの、つまりは、演技において、見ることも聞くことも、上限がないっていうことなんだろうなと思います。見ることも、聞くことも、これができたら本当に見えるようになった、本当に聞けるようになったなんてことはなく、ただその上限が更新されていくだけなんだ、と。 だから僕は、「素敵だな」って思った俳優の方には、訊けるときには訊くようにしています。「見るって何ですか、聞くって何ですか」って。もちろんその都度ちがう答えが返ってきます。『泣くロミオと怒るジュリエット』のときにも、八嶋〔智人〕さんに訊きましたよ、「八嶋さんって、言葉めちゃくちゃ当たってるじゃないですか。それに八嶋さんって超見えてる気がするんですけど……見るってどういうことですか?」って。そのとき八嶋さんはかなり具体的に答えてくださったんですが、当然、それを全部は僕も理解できたわけではないです。理解できたわけではないですが、でも今後、何かやっているときに、いつか「あ、八嶋さんが見るって言っていた感覚ってこれか!」って思い当たる瞬間がくるはずだと思うんですよ。だからそれはまったくの無駄ではないし、八嶋さんの言葉は自分の抽出しのなかにちゃんとしまっておいています。 本当、これまでも、色んな人と話したおかげで自分の演技が進むことがあったな、って思いますよ。周りに恵まれました。既存の自分の価値観では99%無駄に感じることでも、1%は大事だったりする可能性もあるって認識しましたし。それで、「共有できる場があれば良いな」という自分のツイートのことに戻ると、目下、誰とでも、演技の話とか、演劇と全然関係ない話でもいいので、したいなっていう気持ちはあります。 |
───インタビュー記事の最後に書いておきますか? 「興味ある方は、ワタナベケイスケに是非声を掛けてください」って。 |
ワタナベ お願いします。本当友達少ないし誰も声掛けてくんないんで(笑) |
───(笑) それでは、本日は長時間どうもありがとうございました。 |
ワタナベ お疲れさまでしたー。 |
(聞き手:稲富裕介) |
興味ある方は
ワタナベケイスケに
是非声を掛けてください──
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