広田淳一、語る。#11

主宰・広田淳一が今現在考えていることを、
語り下ろしで記事にしていく、インタビュー企画です。
今回は新作二本立て公演『抹消』/『解除』について。

(収録日:2022年7月11日)

暴力とそうでないものとの境界線

─── 広田さんにインタヴューする連続企画の第十一回目です。今回は、来月頭開幕のアマヤドリのみちくさ公演、新作『抹消』/『解除』の二作品について、お話を伺っていこうと思います。

広田 よろしくお願いします。

─── さて、『抹消』/『解除』の公演詳細ページでは、今度の新作は「キャンセル・カルチャーにまつわる連作」であることが示されています。「キャンセル・カルチャー」というのは、主に著名人を対象としてその悪事や不適切な言動を指弾し、ソーシャルメディア上で拡散することで、追放や社会的地位の失墜をもたらそうとする抗議運動につけられた名です。言わば、ネット上での大衆的な現象を指す語です。

 目下、広田さんは戯曲を執筆中ですが、そういった現象を三人という少人数の芝居に落とし込む難しさというのは、感じておられるでしょうか。

広田 いや、そうでもないです。例えば、東京オリンピックにおける辞任・解任騒動でも、「辞める」「辞めない」という決断に至る話し合いは、最終的には、本人を含む少人数の関係者内で行われたんじゃないのかなと。そういう局面を描くのであれば「キャンセル・カルチャー」を少人数芝居に落とし込めないことはないと思うんです。

─── 「キャンセル・カルチャー」という語が広まったのは比較的最近のことですが、広田さんが、それをテーマとしようとした今回の劇作のきっかけは、どんなところにあったのですか。

広田 きっかけは、いろいろです。うーん。たしかに僕は前以て宣伝で「キャンセル・カルチャー」という言葉は出しているんですが、厳密にはこの現象そのものに興味があるというよりは、それを駆動するものが気になっているんです。たとえば、気に入らない誰かを失脚させようとか、追放しようとか、糾弾の攻撃が行われる時、そこで働いている欲望は一体何なのか? ネットに限らず、路上デモとか、署名活動とか、あるいは企業の内部での謀反とか、「キャンセル」に向かう動きはあるわけじゃないですか。そこには共通した人間の道徳感情というか、根っこの部分で通底する動機があるんじゃないかなと。

─── 一般的な「キャンセル・カルチャー」よりはもっと普遍的な現象を扱おうとしている。

広田 そうですね。僕が思っているのは、現在、ポリティカル・コレクトネス〔※政治的正しさ。差別やハラスメントや猥褻表現に抗議するポリシーの総称。昔からあった言葉だが、2010年代から前景化してきた〕に基づく変化が、ある意味では、僕らの理解の速度を越えて生活環境を急速に変えていっている。一部には、そのことに対する潜在的な戸惑いがあると思うんです。確かにポリコレにまつわる一連の変革は、ハラスメントの問題化やコンプライアンスの遵守など明らかに社会をより良いものに、過ごしやすい場所に変えてくれた。その恩恵、功績は非常に大きなものがあります。でもその反面、どこかそういう倫理観に完全にフィットできない感覚も出てきているのではないか。ポスト・フェミニズム的な言説によって、フェミニズムの運動が新自由主義的なるものに取り込まれてしまうことへのジレンマも生じており、いずれにせよ、複雑なねじれの中でなんらかの修正が求められている。ざっくり言えば、そんな状況認識があります。本来、ポリティカル・コレクトネスは配慮されるべき人とか、配慮されるべき物事のためにあるはずです。「こういうことは言わないほうがいいよね」とか「こういう扱いはダメだよね」というルールをお互い踏まえることで、無駄に傷つく人が減っていけるように。ところが、ポリコレを支えていたはずの正義感が、何かの拍子に激しい抗争状態に突入してしまうと一気にエスカレートして、法律の手順すらも無視した、もはや誰にも制御できない状態にまでヒートアップしてしまう……。いわゆる「炎上」というやつですね。その「攻撃性」を支えているものの一部は、紛れもなく「道徳心」や「正義感」であるわけです。僕はそういったエスカレートの瞬間を「キャンセル」の現場に見出しているんです。本来、秩序を維持するためのポリティカル・コレクトネスが、むしろバランスを崩壊させる方向に反転してしまう瞬間を。

─── エスカレートの瞬間というのは、誰かがカッとなってしまって冷静に話し合うこともできず、非難の投げ合いになるようなイメージでしょうか。

広田 いや、実は「エスカレートの瞬間」を確定するのが結構難しい作業だと思っているんです。例えばですけど、どこかの企業の上司と部下が、不倫関係に突入していくとしますよね? そのとき、もしもお互いが好意を抱いているのだとしても、性愛関係が開始される瞬間の出来事は、セクハラとも呼びうるような何かだったかもしれない。もちろん相互にそれを承認していれば、ルールからの逸脱であっても、当面は問題化しないはずです。ところが、二人の仲が進展して、やがて揉め事に発展して、どちらかが「裏切られた!」と感じるほどに関係性が悪くなってしまったら……。その時、「あなたが過去にしたことはセクハラだった」と事後的に非難されることは、ありうる。つまり、ルールから逸脱する瞬間とその逸脱が暴力化する瞬間には、ズレが生じる可能性もあるんです。そういうルールの裂け目みたいなものについて僕は興味を持っています。

─── 複雑な観点ですね。でも、とくに恋愛関係にある人間のあいだでは、相手の本心を知ろうとする欲望ゆえに、相手の発話をどっちつかずで未決定の、相反する二つの意味で受け取ってしまうことはありますし、過去には肯定的に受け取っていた言動を、事後的に否定的なものへ反転して解釈し直してしまうことも、往々にして起こりますね。

広田 そうですね。暴力とそうではないものとの境界線が揺れ動く瞬間、とでもいえばいいのか……。

─── 当事者間で「私たちは愛し合っているので、これをやりましょう」ということをすべて確認しながら進んでいくわけではないですから。それに、誰しも自分の衝動を完全に意識化できるとはかぎらない。

広田 今の稲富さんの発言と関連して、以前スペインで行なわれたフェミニズムのデモのことを連想しました。同意のない性行為はいかなるものも許されない、女性の「yes」はyes only yesだ、noもmay beも沈黙も「no」なんだ……といった主張をするデモだったらしいのです。もちろん、こういったデモをしなければならないぐらい社会には強引な性的行動、強要、暴力、そして性暴力への沈黙を強いる社会状況が存在しているわけですから、そのことが問題の本質です。だから、このデモの正当性を疑うつもりは全く無いんです。けれど、身体接触に伴うすべての段階ごとに、必ず、疑いようもない確実な「yes」をその都度言明し続ける、してもらい続ける、しかも、ムードを壊さずに──というのは恐らく、それが初めての接触ならまだしも、長年交際しているカップルや、夫婦間にとっては中々レベルの高いことだな、とも思えるんです。

─── おそらくそれは、被害者が抵抗を示したかどうかでレイプの加害が免責されるべきではない、といった主張のデモなのだろうと思います。その主張は正当なものですし、そういった形で暴力が見過ごされている現状があるのは大きな問題でしょう。ただ、──そのような「正しさ」が全般化した世界では、もはや、字義どおりでない「性的なほのめかし」はすべてなくなっていくのでしょうか。

広田 うーん。遠い未来ではそうなっていくのかもしれません。少なくとも、加害者の「勝手な解釈」が野放しにされている状況は変えていかなければいけませんからね。

─── 翻って、広田さんとしては言語で明確化されない、人と人との関係が信頼にも暴力にも振れるような、グレーな状態を描きたいと思っているのでしょうか?

広田 そうですね。演劇における関係性しか僕は興味が持てないみたいなので。でも、以前、稲富さんに教えてもらった社会学者の大澤真幸氏の論文にせよ、フェミニズムの文脈からは驚くほど独創的な思考が提出されていて、それは作家的には「すごいな……」と驚いてしまうようなものも多いんですよね。

─── それはどういったものでしょうか。

広田 大澤さんの議論というのは例の、──他者とのあらゆる性的な接触は不可避的に暴力性を伴うはずだ、なぜなら完全に自分の思惑通り、想定通りの刺激を与えてくれる相手というのはすでに自慰の道具に過ぎないのだから──みたいな論理ですとか〔※「マゾヒズム的転回」『〈自由〉の条件』所収〕。或いは先般、文芸評論家の絓秀実さんが紹介していたラディカル・フェミニストの言説ですごいと思ったのは、「すべての男性との性行為は支配であり暴力であるのだから、男性との性行為は全面的に許されない。女性は女性とのみ性行為を行うべきだ」というもの。ある意味、理屈としては納得してしまったんですけどね。そこまで言い切るか、と……。

─── 今作では広田さんは、具体的な出来事を参考にするというよりは、思弁的な発想に拠りながら執筆を進めているようですね。

広田 ええ。それと今回は、挨拶文で「つぶし合いを描く」と書いたように、エスカレートしていく攻撃性を描きたいという考えもあります。関係性が反転して暴力化したという瞬間がゴールではなくて、そこからいわば「例外状態」に突入して、おまえがそういうことをやるなら、もう配慮無用だ、こちらもこういうことをしてやる……それをやるなら、こっちもこうしてやる……と攻撃性が相互にエスカレートしていく、そのエスカレーションは何によって駆動され、何によってコントロール可能な状態に戻せるのか。それを描いていこうとも思っています。

*   *   *

広田 ポリティカル・コレクトネスに対する潜在的な戸惑い、という話に戻りたいと思いますが、人と人とが関わるあらゆる側面にハラスメントのリスクを見出そうとする傾向が進んでいくと、今後、生身の人間関係から全面的に撤退することを選ぶ人も出てくるんじゃないか、と思うんです。コロナ禍という状況で、テクノロジーがそれを後押ししている側面もありますし。

─── われわれもこうしてWEB会議アプリを介して通話しているわけですしね。

広田 このままだと、僕らはそのうち性的関係を欲望しなくなるんじゃないか、セックスというのは、一般人には手の届かない、行為として存在することは知っているけれどみんなが参加するものではない、みたいなものになっていくんじゃないか、という予測も可能だろうと思います。もはや、傷つく、傷つけるリスクを避けるためにはそもそも他人に深く関与しない方がいい、という……。

─── 今回、広田さんは執筆の参考文献の筆頭に、綿野恵太氏の 『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)を挙げています。これは昨今のポリティカル・コレクトネスの風潮を分析的に論じた本ですが、このなかでも、ポリコレの過度な追求が、「責任のインフレ」を招くことを懸念する論点が出てきますね。ちなみに、著者の綿野氏は政治的立場としてはリベラルですが、ソーシャルメディア上の炎上、近視眼的な加害者への糾弾には疑義を呈しています。

 綿野氏が指摘しているのは、一部の悪質なレイシズムやセクシズムのケースを除くと、差別は、差別しようという意図なしに人を傷つけてしまうケースの方が一般的だということです。ハラスメントもそうですが、差別された側、ハラスメントを受けた側が、自分の被害を訴えたのちに、初めて「差別したつもりはなかった」加害者が自分の加害に気づくというケースが多い。つまり、差別者の加害責任は、本人の意図や予見可能性によって測られるのでなく、被差別者の感じる痛みという他律的な帰結によって測られる。言い換えれば、行為者のルールを逸脱しようという意図によって裁かれるのではなく、ルールを逸脱したと他から解釈されることによって裁かれるということです。それで、非難された差別者が「わざとやったのではない」みたいに弁明するのが、また悪質な言い逃れとして解釈され、さらなる非難を招く、という不毛な悪循環が生まれる。

 この悪循環を断つ一つの方向は、差別やハラスメントに関する啓蒙活動を徹底することで、責任のインフレに耐えられる主体に、すべての市民を育成することです。プライベートな場面でも他人との関係を契約関係のように見なし、権利や義務の範囲を明晰に意識してそれをつねに遵守するするような、そして、無自覚な差別を指摘されても、積極的にその責任を引き受けられるような、強い責任主体に。おそらく、リベラルな政治的立場の人の多くがこの発想に立っていると思われますが、綿野氏は、潜在的バイアスに関する認知科学の知見などを引きつつ、「このような強い主体に人間はそもそもなりえるのだろうか」と留保を付けています。

広田 高度すぎると感じますよね。それを難しいと感じる人が、人間関係から退却することを選ぶのもしょうがないだろう、とも思う。

─── 今現在「強い主体」と見えている人も、実際には、過去に人を傷つけたり傷つけられたりという慚愧の経験をした上で、そのように成熟したのだろうと思いますしね。だから、上記の悪循環に対するもう一つの処方箋は、短絡的な責任追求と、それに対する反射的な弁明とを抑制し、とりあえず、差別された/差別した覚えはない、というズレを維持したまま対話を試みることだと思います。差別者の弁明がひどく悪質でありうるのと同時に、被差別者の告発もときに正当性を欠くことがありうる。一方なぜ自分はその発言をしたのか、他方なぜ自分はその発言で傷ついたのか、内省してそれをできるかぎり率直に説明することが、短絡的な非難と攻撃の応酬がエスカレートすることへの歯止めにもなると思います。……まあこれは私の見解というか、綿野氏が『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の結論部(第六章)で言っていることの、言い換えでもあるのですが。

広田 正論だと思いますし、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』で言われていることは、大体賛成できるんですよ。最後の皇室の話題以外は。違いを違いとして維持したまま、それを埋めずに対話をするということは非常に重要で。さらに言えば、それが結局埋まらないという諦めも重要だと思う。埋まることが必ずしも善いわけではないだろうから。

─── 他者はあくまで他者だし、異性はあくまで異性ですから。

広田 でもその重要さの訴えが、だんだん通用しなくなっていくんじゃないかという想いもあるんです。「なぜそんなコストを掛けてまで他者との関係を維持しなきゃならないんですか」ってひっくり返されたら、どう答えたらいいんだろう。……そういった問題も含めて、どういう語り口でこの劇をやるべきかについて悩んでいます。

─── 語り口?

広田 実際そうなるかどうかはまだ迷っているんですが、前作の『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』でやっていた、時間軸に捉われないで場所や話題を共有する複数の会話の共存、という形式に、お客さんに対しての科白を加えてみたらどうなるだろうか、ということを考えています。『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』に、これも過去作の『ぬれぎぬ』の感覚を交えるようなバランスで。

─── 人間関係が暴力化する瞬間を描くにしても、その瞬間のやりとりをベタに描くのではなく、形式上の工夫を踏まえて描くということですか。

広田 そうですかね。人間関係が暴力化していく瞬間、を描くとして、それをリアリズム的な緊張感のなかで劇的に示したとき、なんというか、演じている方のリアリティも、観ている方のリアリティも、その激しさに適合しないような気がするんです。僕自身はすごいテンションの高い人間だし、家庭環境がアレだったので激しい言い合いにも慣れているんですけど(笑) 、大多数の人、演じる俳優にも、お客さんにも、「なんでこの登場人物たちはぎゃーぎゃー騒いで、人を傷つけることに熱心になっているのか、全然分からない」「激しすぎて、内容が全然入ってこない」というふうになってしまうんじゃないか、と。だから、途中途中で緊張感を逃す形で進んでいかないと通用しないんじゃないかな、と。そういう懸念があるんです。

─── だから形式的工夫が必要になる、と。

広田 うまいことクールダウンする瞬間を作っていきたいな、という気持ちがあります。そう、プロットを練っている段階ですでに思ったことなんですけれど、この題材って、いくらでも深刻に、暗く嫌な話に書けてしまうんですよ。でも、分かりやすい悪人がいるわけではないのに、人と人が攻撃し合って、誰も幸せにならなくて……というのは、しんどいですよね。だからそれをいかに可笑しみを含めて、滑稽さを含めてエキサイティングに見せられるか。

─── 広田さんが元々持っているユーモアのセンスも、一つの有効な要素かもしれないですね。

広田 かもしれません。起こっていることを突き放して「なにやってんだこいつら」と思える目線が、演者含めお客さん含め、必要なんだろうなと思います。特に今回は、自分自身がのめり込んでしまったことに関するテーマでもあるから、本当に気を付けて距離を取らないと。でも、それはお客さんも日常で感じていることだと思うんですよ。ポリコレの問題は、薄く広く誰しもに関わっていて、いつの間にか「自分は間違っているんじゃないか?」という緊張感の水準を上げてしまっている問題でもあると思うので、そういう自分を含めて、ブレイクしてもらいたい。だから、どういう語り口でバランスを取っていくか。悩みどころになっています。

─── 初期の稽古場ではいろいろな設定でのエチュードもやっていましたね。

広田 三人が醸し出しているケミストリーを活かさないと良い芝居にならないだろうという考えがあるので、バランスの配置をいろいろと試してみました。ただ、これは上手く行くパターンを探していたというより──どちらかというと、上手く行かない組み合わせを探していた時間だったのかもしれない。新人の堤和悠樹くんもいるし、〔ワタナベ〕ケイスケと〔徳倉〕マドカは完全に初共演だし、バランスが読めない部分があったので。エチュードの内容を執筆に反映させようという意図ではなかったです。とにかく、あとは完成に向けて全力を尽くすだけですね。

─── 広田さんの健筆を祈ります。

(聞き手:稲富裕介)

アマヤドリ みちくさ公演

『抹消』/『解除』

作・演出 広田淳一

2022年 8月2日(火)~4日(木)
    8月23日(火)〜24日(水)
    9月6日(火)〜7日(水)
    @スタジオ空洞

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