会話劇におけるダイナミックな動き
(つづき)
倉田大輔 『崩れる』は、読解が難しいということはそんなになかったですけれど、初演時はとくに、芝居を成立させるのが難しかったですね。観ているとそんなふうには感じないでしょうが、本当に会話が複雑で、役者の方では、喋っていないところでの他の役とのライン、登場人物と登場人物のあいだの細かいラインを決めながらやらないと、全然芝居を進められなかった。
─── 戯曲を丁寧に読み込んで、あとはその場での反応のライブ感でやっていく、というだけでは成立しそうにないですからね。その反応自体もあらかじめ細かく決めておかなければならなかったのでしょうか。
倉田 そうですね。ここに書かれているこのやりとりを成立させるためには、その前段階からこれをしておかないと……っていうようなことが結構ありました。
─── 聞くだけで大変そうです。
倉田 とくに初演は。再演のときには、初演に出たことのある人間が数人いたので、「ここはこうすると通りやすい」って知ってる部分がある程度あって、多少やりやすかったですけれど。
あと、初演のときは、全然褒められることじゃないですが、僕は一緒にやっている座組の連中を笑かしてやろうという邪心も混じりながらやってたんで。稽古段階から、芝居で笑かしてやろうと思っていました。言わば、悪ふざけしていた。
─── そうなんですか? だとすると、『崩れる』で倉田さんがやった江田という役と、『人形の家』激論版でのトルヴァル・ヘルメルの造形というのは、つながっているかもしれないとちょっと思いますね。
倉田 (笑) あの一番情けないところが。
─── 情けないというか、なんか色々怯えながら保身に走っているところとか。人間臭いと言えば人間臭い部分が丸出しになっていて笑えるところとか。江田という人物も、台本からだけでは単純にああいう造形にはならなそうです。
倉田 台本書いた広田さんも、あんなふうな「江田」になるなんて微塵も思わなかった、って言ってました。僕自身台本読んでいるときにはああなるとは想像していなかった。でも気づいたらああなっちゃってたんですよね。そういう役作りの過程も含め、初演は色々と大変でした。作品としてはトータル的に再演の方が良かった、再演で良くすることができたなと思っています。
─── 加えて、再演版の『崩れる』では、初演時は椅子に座って芝居していたのを、畳と座布団に変えたのも功を奏していたと思います。動ける余地が広がったというか。2021年の再演版の『崩れる』は、2024年の『人形の家』につながる舞台空間をダイナミックに使う会話劇の試みの一つでもあったのではないか。再演版の『崩れる』の会話の最中のあの多彩な動き、どこで立つとか、どこで近寄るとか、どこで腰を浮かせるとか、ああいった動きは、どうやって生まれていったのでしょう。ある程度役者の方々でつくっていったのですか?
倉田 あれはどう決まったんだったかな……。畳になってやりやすくなったのは覚えているんですが。
─── なぜこれを訊ねるかというと、やはり、「リアリズムの会話劇なのにダイナミックに動く」というのが近年のアマヤドリの舞台の特異性であり、『人形の家』は、その一つの達成だったと思うからです。その創作過程に対する好奇心があります。私は稽古場には行かないので、素朴に台本を読む段階から何を経たらあのような舞台になるのか、ほとんど見当すらつかないのですが。
倉田 それについてはでも、さかのぼると、僕としての出発点は『崩れる』の再演より前の、『野がも』(イプセン作、2018年)になります。『野がも』のときの広田さんの企図もアマヤドリでイプセンの古典をダイナミックにやりたい、っていうことでしたが、あのときはもう一歩、上手くできませんでした。
広田さんの意図自体は明確でした。古典のリアリズムの会話劇を、ダイナミックに動いて成立させる。そういうはっきりしたミッションのもとに取り組んだんですが、当時は、僕らにとまどいっていうか、そういうものがありました。動きたいと思っても、なかなか動けないんですよ。本来会話しているだけでも成立するんですから。
─── そうですよね。
倉田 過剰に動くと変になったり、気持ちが悪くなったりもしますし。しかも、そういう動きに関しては、自分が演じているときよりも、他の人がやっているのを見るときの方が色々考察しやすいんですが、僕が『野がも』でやったヤルマールという役はほとんど出ずっぱりで、他の役者さんがやっているのを見る機会があまりなかった。その点でも苦戦しました。逆に、『人形の家』のヘルメルは、途中途中ちょこちょこいなくなるので、他の役者さんがやっているのを見られる機会がたくさんあって、そうやって外からサブ演出みたいな立場で見ることができたのは、経験上大きかったと思いますね。『人形の家』では「ここでこう動くともっと効果的に見えそうだな」とか考察しながら稽古ができた。『野がも』のときはそこまでの余裕はありませんでした。
─── 2018年の『野がも』の時点では、稽古場で、どのような試行錯誤が行われていたのでしょう。普段とはちがうような稽古だったのでしょうか?
倉田 『野がも』のときは……なんて言ったらいいのかな、稽古場的に一回大きく変わったタイミングっていうのがありました。
アマヤドリとしては上演時間が三時間にも及ぶバリバリの古典、それをあの人数でやるっていうのは初めての試みだったわけですが、稽古を始めてからしばらくは、みんなあの科白に持っていかれて、古典的になりすぎたというか、大仰な、古めかしい科白回しになってしまっていて全然面白味もないしリアリティも感じない、という雰囲気でした。
それで、一回それまでの稽古でやってきたことを全部捨てることになったんです。「一回大きく変えてみよう」って広田さんが言ったタイミングがあって。とりあえず観客に聞こえるかどうかとか気にしなくていいから、日常的なぼそぼそしたしゃべり方になってもいいから、本当に自分のなかからその科白が出てくる、というリアリティを徹底しようというやり方に変えて。そのチャレンジがすごくいい結果をもたらしたんです。その状態をつくれるようになってから、ダイナミックな動きというのも、自然とちょっとずつできるようになってきた記憶があります。
最初は、科白にとらわれすぎていたんでしょうね。『野がも』の稽古が始まったときから古典だけれどダイナミックに動きたいという意図は共有されていた。でも、科白のやりとりは成立していても、言っていることも聞こえるし分かっていても、観てる側としてはなんとも面白く感じられない、という状態がつづいていました。だから今言ったチャレンジによって、科白がポロッと自分のなかから出てくる状態、というものに役者が一歩近づくことによって、言い回しも含め、科白にとらわれなくなったのだと思う。そこから、科白の上では大仰にならず、自然とダイナミックに動けるということが始まったと記憶しています。
『人形の家』のときは、すでにその視点やアイディアがある段階から始められて、広田さんも「こうしたい」っていう意図を明確にして臨んでくれていたので、その意図をもっと消化できる状態で取り組めました。同じくイプセンですし。
─── 『野がも』あってこその『人形の家』だったわけですね。では、『牢獄の森』についてはどうでしょう? 「リアリズムの会話劇なのにダイナミックに動く舞台」としては、2024年3月の『人形の家』からの流れで、2024年6月・8月の『牢獄の森』も、舞台上のダイナミックな動きが印象に残っています。
倉田 そうですか? 『牢獄の森』にもそんな動いている印象ありました?
─── まずミザンスで、一人ひとりの距離がすごく離れていたりしましたし。「議論劇」なので、分かりやすくするなら映画版『十二人の怒れる男』のようにテーブルを囲んで座ってるみたいな配置が一番分かりやすいわけですが、もっとランダムな配置で、端から端まで横切るような動きもたまにあったり。っていうこともあって、みなさん自由に動かれていたし、そもそも距離が離れているから科白を出すエネルギーも鋭いものがあった印象です。
倉田 なるほど。それはやはり、広田さんの指針があったからこそなんでしょうね。前々から、移動によるダイナミズムを見せたいというのは明確にあるひとですから。自分たちが稽古を進めるときにも、そういう意識が前もよりもあるようになっています。
─── そこで一つ訊きたいのは、アマヤドリが稽古で昔からやっている「全員で動く」というメソッドのことです。昨今のアマヤドリの「リアリズムの会話劇なのにダイナミックに動く」という舞台の特徴と、あの「全員で動く」という稽古は、関係があったりするのでしょうか?
倉田 ぶっちゃけ、とくに関係はない気がしてますけれど。……でも、これ僕そんなに身体が利く方じゃないんで偉そうなことは言えないんですが、「全員で動く」は、長年やっているひととあまりやったことないひととでは、やっぱり何かがちがうんですよね。今回の稽古でも、「全員で動く」やウォーキングの稽古を始まりにやっているんですが、単純に動きがどう見えるかということ、たとえば手の振り、足の歩幅、背筋をどの程度伸ばすかというレベルで、「全員」そろっていた方が見栄えがいいし、全員の動きが際立つんです。ただ歩くにしても、手の振りが小さいひともいれば大きいひともいる状態だったり、背筋を伸ばしているひともいれば前屈みになっているひともいる状態だと、「全員で動く」にならない。そこを合わせる意識がどれだけあるかっていうのは、やっぱり、昔からやっていて経験があるひとほど持っている。
だから、舞台上でダイナミックに動くということに関して言えば、舞台上のある場所からある場所へ動くとき、そこへどのくらいのスピードで、手の振りで、歩幅で、どんな姿勢で行くのかを考えようとすれば、「全員で動く」みたいな経験を積んでいる方が、引き出しは多いことにはなると思います。そういう意味では、「全員で動く」がまったく関係ないわけではない。
舞台上では、「全員」で動くわけではないにせよ、瞬間瞬間に起こる動き──その登場人物の生理に合わせてただ座る、ただ立つということであっても、より良いものを目指すなら、そういう日々のちょっとしたトレーニングも響いてはくるだろうな、と思います。
─── そもそも舞台上のダイナミックな動きというのが、等身大の、自然な日常ではありえない動きですから、やはりある程度ベースで身体的な積み上げがあった方が、動きに乗りやすいのだろうな……と、お話をうかがっていて思いました。
倉田 ついでに言うと、今回の新作『取り戻せ、カラー』ですが、ここ最近やっていた作品とはまたちがった作風になりそうで。この数年の新作では、多人数がわちゃわちゃと会話することがつづいて、場転があまりないというシーン構成の作品が多かったと思うんですけど、今回は場転が多めで、少人数のシーンから少人数のシーンに移行したり、あるいは登場人物間だけでなく観客に向けた語り方があったり、少し昔の広田さんの作風と、最近の広田さんの作風が掛け合わさったものになるのかな?と思っていて。
─── 今のところ上がっている台本を読むと、そういう印象ですね。時間軸の移動もあったり。
倉田 今回稽古で「全員で動く」やウォーキングをやっているのは、そこで意味が出てくると思います。たとえば場転のとき、わっと動いて場を変えるという瞬間、踊らないまでも動きとしてはビシッと合っている方が決まるので。
─── なるほど。やはり私は「リアリズムの会話劇なのにダイナミックに動く」ことに関して、アマヤドリに『人形の家』で一種のブレイクスルーがあったと感じています。その経験を経て、あらためて今回の『取り戻せ、カラー』、場転多めの作風になるであろう舞台を、倉田さんを含む座組のみなさんがどのように仕上げるのか。刮目して待ちたいと思います。
本日はいろいろとお話を聞かせていただきありがとうございました。
倉田 ありがとうございました。
(聞き手・構成:稲富裕介)