【ぬれぎぬ】広田淳一ロング・インタヴュー 4/4 戯曲『ぬれぎぬ』の固有性

(※記事内容に『ぬれぎぬ』の致命的なネタバレを含みます。また、インタヴューの前提になっているのはプレヴュー時の『ぬれぎぬ』です。)

 

 

◆◆◆セミパブリックに代わる劇空間◆◆◆

 

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───広田さんは、今作ではとくにダイアローグに力を入れているように思えますが。

 

 

広田:そうだね。『月の剥がれる』の時に、自分でも自覚したことだしお客さんの感想でも言われたことだけど、あれはポエムとモノローグの要素が強くて、ダイアローグが弱い戯曲だった。もとより自分でもダイアローグを書くのが得意だとは思っていなかったから今回頑張ってみようかなと、そんなところはあります。

 

 

───そこでお訊きしたいのは……これは上演台本を購入した方にしか分からないことですが、台本の冒頭に、『ぬれぎぬ』の執筆方針として「セミパブリック、に代わる新しい劇空間をテキスト、演出の両面から構築すること」という文言が掲げられていますよね。その言葉と、今作ダイアローグに力を入れたということはどう関係するのでしょうか。

 

 

広田:まず言えるのは、そもそも日本人ってパブリックな場でもとくに発言しない人が多いなって認識が僕にはある。だからセミパブリックな場だったら言葉が交されるということも実際は少ないよなって思っていて。自分が演出家としてやってても、どういうメンバーであっても大抵みんな発言しない。本当に発言する人が少ない。それは僕自身も色々ぶつかりながら勉強してきましたけど、その経験から思うのは、結局、もうちょっと狭い人間関係の中でないと言葉を発する切迫感は生まれないんじゃないか、そしてプライヴェートな状況でこそ重みのある言葉も出て来るんじゃないか、ってことです。あと、僕自身がそういう狭さの中での対話の方に興味を持っている、ということもあると思う。

 

 

───なるほど。本当の「対話」の怖さは個人と個人が容赦なく顔を付き合わせる瞬間にこそある、と。……それと、上演台本には丸山眞男の言葉もエピグラムとして引かれていますが、そちらについてもお話し願えますか。引用すると──「伝統的個人主義をいわゆる原子的個人主義として見れば、全ての人間に備わっている理性というようなものによってくくられてしまう。ですから、啓蒙の個人主義をつきつめていくと類的人間になるんですよ。そういう普遍的理性によってくくられない個、ギリギリの、世界に同じ人間は二人といないという個性の自由は、むしろ、啓蒙的個人主義に抵抗したロマン主義が依拠した「個」です。この西欧的な個人主義に内在する矛盾の問題はぼく自身も解決がつかない」──という言葉で、丸山眞男の1979年の対談からのものですけれど。

 

 

広田:僕はそんなに丸山眞男の熱心な読者ではないんだけれど、本を色々読んでいると何かと出くわす名前だから意識はしていて、流石に無視できない思想家だと以前から思っていたところに、とある支援者の方から苅部直さんの本を読むことを勧められまして……。それで今回『ぬれぎぬ』の構想中に「出会った」というわけです。

 

 

───このエピグラムとして引いている言葉は、戦後民主主義のイデオローグという丸山眞男の一般的なイメージからすると、特異な言葉ですよね。健全な民主主義ないし市民社会の最小単位である自主的で自由な「個人」そのものに矛盾が内在する、それは解決不能だ、って話ですから。

 

 

広田:そうそう、その言葉には本当に感心したんだ。あれほどの知識人で、あれほど日本の近代化ということにこだわった人が、それでも直面せざるを得ない解決不能な闇があるということに凄く興味を惹かれた。彼は西欧的・市民的民主主義ということについても是々非々で考えていたんじゃないかと思う。彼の規準からすれば、僕らが安易に民主主義っていうのを理解したつもりになっているのは大間違いなんだろうと思う。

 

 

───その話との関連で言うと、戯曲の空間設定の問題で「セミパブリック」という切り口を提示した平田オリザさんが「(他者との)対話」について考えていることと、丸山眞男が「西欧的な個人主義に内在する矛盾」ということで考えていることとの間に、やはりレベルの相違があるんじゃないかという気がします。たとえば平田オリザさんは『演劇入門』〔※講談社現代新書〕の中で次のように書いています──「民主政治、市民社会とは、コンテクストの共有を急がず緩やかに行っていく社会である。そこでは、対話が不可欠の要素となる。ギリシャで生まれた「演劇」あるいは「哲学」は、この「対話」の訓練であり、シミュレーションに他ならない」──これは、先のエピグラムの言葉で言えば「普遍的理性」によって他者と主体的に対話をしていく啓蒙的個人主義の範囲内での話ですよね。平田オリザさんが「西欧近代劇は対話を基盤としている」と言う時も、意味されているのはその意味での主体的な対話で、「セミパブリック」という名称も、文化や出身階層が違う人間が「類的人間」として出会い得る、対話し得る時空間形式に名付けられたものだと言える。そして、そこで対話の困難として想定されているのも、異文化を背負った者同士が、確執を孕みつつ、暴力によらず言葉によって互いのコンテクストをすり合わせていく際の困難にすぎない。そこには、西欧的・市民的民主主義からはみ出てしまう過剰なものへの眼差しは、ないんじゃないか。

 

 

広田:ふんふん。

 

 

───しかし丸山眞男にはそういう過剰なものへの眼差しがあった。たとえば、先のエピグラムにもある、「普遍的理性によってくくられない個」「世界に同じ人間は二人いないという個性」という意味での「個人」に関して、対話可能性を考えるならば、お互いを市民として、個人として尊重し合いましょうという相互性ではまったく収まりがつかない断絶が露呈するはずです。「世界に同じ人間は二人いない」というレベルで見出される「個」は、もはや市民集団を分割した最小単位としての個人とは言えないからです。その断絶は、平田オリザさんの言うような、文化間・言語間でのコンテクストのずれを丹念に調整していくという意味での「対話」では見えて来ない。しかし、丸山眞男がたとえば「知性の機能とは、つまるところ、他者をあくまで他者としながらしかも他者をその他在において理解することをおいてはあり得ない」〔※『現代政治の思想と行動』「増補版への後記」〕と書く時には、彼は啓蒙的な対話可能性では解決つかない他者性まで見据えていたと思う。

 

 

広田:いや、オリザさんだって、民主政治・市民社会というものに対して、そんなに楽観的な視点を持っているわけではないと思うけれどね。

 

 

───ただ、『ぬれぎぬ』が平田オリザ的な対話とは別のレベルの「対話」を描こうとした作品だとは、言えると思います。端的に、「門田」という登場人物の存在からそういうことが言えると思う。彼は、愛する女性以外のことを完全に度外視している点でもそうですが、「宇宙なんて僕の頭の中だけのことです」「自分の外に世界はない」と口にして、自分が共同体の倫理で裁かれることにまったく関心を持っていない。彼こそまさに「普遍的理性によってくくられない個」「世界に同じ人間は二人いないという個性」という意味での主体性を生きている人物です。そして、そもそも健全な市民社会というのは、門田のような過剰な存在を「非民主的」「反市民的」なものとして排除することによって成り立っている側面があるわけですが、その過剰な存在との対話可能性を探るためにこそ、「リバタリアン行政特区」の「民営化された刑務所」という空間設定は要請されたんじゃないかと考えられる。

 

 

広田:設定が活かされていない、みたいなことは劇を観た多くの人に言われたことなんだけど、僕自身はそれらの批判の中に全く正当性を感じなかったんだよね。だって「派遣社員」と「殺人犯」が出会う場面をこの劇はどうしても必要としているわけで、それが現行の日本の制度の中でも可能なんじゃないか、という意見には説得力を感じなかったんですよ。専門的な職能を持ったプロフェッショナルが出会うのではなく、「派遣社員」が出会う、ということはとりもなおさず、今、この劇を観ているあなたが出会うかもしれない、出会ったらどうする? という問いかけを孕んでいるわけで、そういった「場」を構築するためにはあの状況設定はどうしても必要だったと思うんです。官民一体となった刑務所はすでに日本に存在している、なんてことを指摘していた方もいたんですけど、僕はそれとは別の設定を導入しているわけですから、自ずから別の意図がそこには存在しているわけですよ。あ、話を遮ってごめんなさい、どうぞ続きを(笑)

 

 

───はい(笑) あの設定によって、市民/反市民という区分を超えて、有島と門田という他者同士が異質なまま交錯することが可能となっている。そこではもう、互いのコンテクストをすり合わせた果てに普遍性として見出されるような「市民道徳」など、対話の基盤としては、まったくアテにできない。現に、有島の「世界はあなたの外にあるんです!」という言葉に対し、門田は「ありません! あったとしても知りません!」と烈しく抗言して後、一旦は何も喋らなくなってしまう。二人のダイアローグには、相手を理解してあげようという善意では絶対に乗り越え不可能な断絶がつきまとう。だが、それでも門田は、社会の中で存在している以上は、他者との関係を強いられざるを得ない。「世界に同じ人間は二人いないという個性」を生きながらも、相対的な他者=有島との対話に巻き込まれざるを得ない。そこでどういうドラマが生じるか、ということを、『ぬれぎぬ』は書こうとしたんじゃないかと思っているのですが……。丸山眞男のあの言葉をエピグラムに持ってきたのも、そういう志向ゆえだろうと。

 

 

広田:そうですね。執筆している途中から、有島と門田が最後ああいうふうに決裂するんだろうなということは、予感していたんです。全然上手くいかないコミュニケーションが二人の間に交されるということを。

 

 

───リバタリアニズムとの関連で言うと、リバタリアニズムの思想の中核には「自己所有権」がありますが、この「自己所有」ということを具体的に考えていくと、まさに「世界に同じ人間は二人いないという個性」を見出すことにもつながっていく。というのも「自己を所有する」ことには所有を強いられるという側面もあるから。たとえば門田のように「醜い」「素敵じゃない」「彼女に愛されない」、そのほか無能力だったり障害があったりってネガティヴな要素が重なった「自己」でも、とにかく替わりの利かないものとして「所有」しなきゃならないとなると、却って、優劣とか美醜といった他者との非対称性・不平等性が痛烈に自覚されることになる。自分の限界というものが痛切に意識される。その「個性」の自覚は、ロマン主義的な「個」と言うよりは、ウィトゲンシュタイン的な「個」と言った方がいいかもしれない〔※「五・六 私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」「五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である」──『論理哲学論考』〕。そのような非対称な「個」が、一体どのような対話を他者と交わせるのか。つまり自分の限界が世界の限界と一致していて、他者はその向こう側にしか触知できないと感じている「自己」が、究極的には他人が何を考えているかは分からないし他人とは何も共有できないと思っている「自己」が、それでも、他者と関わっていかざるを得ないとしたら、どのようなコミュニケーションが、可能なのか。……そういう問題意識から見ると、最後の有島と門田の対話は物凄い良く出来ていると思うんです、最終的に決裂することも含めて。

 

 

広田:はいはい。まあ、その辺は意図どおりでもあるかもしれない。

 

 

───やっぱり『ぬれぎぬ』は「個人」や「主体」の概念では零れおちてしまうものを、書こうとしているように思うんですよね。ただ、丸山眞男の影響なんかを消化しつつ、その思弁性が思弁性に終わらずに、ちゃんと高度な物語性と両立しているという点が、戯曲『ぬれぎぬ』の素晴らしいところだと思います。言うまでもなく。

 

 

広田:それはありがとう。『ぬれぎぬ』も、ちゃんとエンタメしようと思って書いているからね。

 

 

◆◆◆複数回観るとさらに面白い『ぬれぎぬ』◆◆◆

 

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───ところで今回、フリーパスというのは良いアイディアでしたね。

 

 

広田:そうだね。あれは直前で、それこそチラシに載せる情報の文字を打っている途中で値段を変えたんだけれど。二回以上観れるんだからっていうんで最初は五千円くらいだったのを、下げた。あの判断は正解だったね。

 

 

───三回以上観る人がそんなにいないだろうと考えると、リピーター半券で割引きするシステムに近いですし。

 

 

広田:通常のチケットから切り替えてくださる方もたくさんいたし、こちらとしても終演後、観終わった直後に「フリーパスに切り替えたいんですけど」と言われるのは非常に嬉しいです。そして、こちらが想像している以上にフリーパス、プレミアム・フリーパスを購入してくださる方が多く居た。それは本当に大きな驚きでしたね。いくら二回目以降は無料だと言っても時間や交通費などは投資しなければいけないわけで、そういったものを費やしてあれだけ複数回観てくれる観客を獲得できたのは本当に大きな自信になりました。

 

 

───そもそも今作『ぬれぎぬ』は複数回観ることによって解釈が変わったり、深まったりするので、フリーパスというシステムの導入はほぼ必然かなと思います。

 

 

広田:あなたはそう思うの? 複数回観たら解釈が変わると?

 

 

───まず単純に、『ぬれぎぬ』はこれまでの広田さんの作品と比べても伏線の張り方が丁寧なので、二回目以降の観劇で「あの科白も伏線だったのか」「あの演出も伏線だったのか」と気づく要素が多い。たとえばあの……前半、有島が遠藤に叱られるシーンで、遠藤が持っている録音機を有島がそっと手を伸ばして取ろうとするのを遠藤が避けたり、遠藤が「じゃあ、ちょっと肝心なこと一個教えといてあげるけどね……」の科白を言うのに上手前の椅子で有島と凄い接近したりっていうのは、一回目の観劇では普通のシーンだと思って観るから、べつに引っ掛からないじゃないですか。でも、有島と遠藤が関係あると知った上で観ると、俄然含みを帯びた演出として受け取られる。そういう細部が結構ある。その後のシーンで有島が向井との電話で「レナちゃんに代わって」って言うのもそうですね。一回目だと大抵の人があの会話をスルーすると思いますが、二回目だと有島が何を思って「レナちゃんに代わって」と言ったのか、観客としては想像力を刺激されざるを得ない。

 

 

広田:うんうん。そうなんだろうね。

 

 

───そういう作りを意図したんじゃないんですか? ロングラン公演だから、二度目でもさらに興味深く観れるようにと。初回の観劇では絶対に気付かないような暗示的な伏線を入れて、二度目ではさらにそこから作品世界を想像で膨らませられるようにと。そういう伏線の仕込み方は、『うれしい悲鳴』や『月の剥がれる』、『太陽とサヨナラ』という作品にはなかったと思うんです。

 

 

広田:特に意識していたわけじゃない。戯曲を書く時にはもっと普遍的なものを目指して書いているつもりだから。ここではない場所で僕らではない誰かが上演する可能性も十分にあるわけで、そういった様々な状況に耐え得る戯曲を書きたいと思っているから。

 

 

───あとは、以前メールで戯曲のテキストに関する感想でもお伝えしたことなんですけど、『ぬれぎぬ』の物語自体に一義的な解釈が不可能な、観客の想像に委ねている部分があると思います。暗示的な伏線が多いこともそうですが、それに気付くタイミングが観客に委ねられている、人によって受け取りようが違うということが、この戯曲の一つの面白さになっているのではないでしょうか。観客の想像力を俟ってはじめて完成するというか。多様な可能性が開けていて、役者の演じよう、演出しようによって幾らでも変化し得る。

 

 

広田:作っている僕らも迷いながら、微妙な変更を加えていったロングランでしたね。あとはねー、ラストが意外と物議をかもしていたんですよ。

 

 

───ラスト?

 

 

広田:「よく分からないラストでしたね」という感想をいただいたりするんだよ。俺はこんな分かり易いラストはないと思ってるんだけど。

 

 

───俺も分かり難いとは思いませんが。なんだろう? 観てる人の期待としては最後に向井が電話を取った方がすっきりするってことですかね。

 

 

広田:電話に出る/出ないで全然意味が変わる部分だし、「ごめんなさい」と有島が謝っている科白にしても何を謝っているのかすっきり理解できないのが、もやもやしてしまった人もいたみたい。

 

 

───でも、やはり今作『ぬれぎぬ』の特徴として、明確に書かれていないから一義的な解釈におさまらず、観客に多く想像の余地が残されている作品になっていると言えるのではないか。それはわざと詩的に曖昧にしているのではなくて、現実の不透明さ・複雑さをそのまま物語に置き換えているからこその、想像の余地ですが。だから人によっては、ラストで爽快感を得られず、もやっとした印象を抱くことになる。

 

 

広田:はいはい。

 

 

───たとえば……非常に穿った見方になりますが、これ、最終的に有島が堕胎しなかったという解釈も可能だと思うんです。少なくとも戯曲のテキストのレベルでは有島が堕胎したことは明示されていない。有島の「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」の科白をどう受け取るかも観客次第で、最後の向井の科白においても二つの可能性が言及される(「それはもしかするとりえぴょんからの電話だったかもしれない。……『向井くーん、かわいい女の子だったよー」っていう電話だったのかもしれない。『向井くーん、今おろしてきたよー』っていう電話だったのかもしれない。わからないよ」)。有島の堕胎について一義的に答えを出すための手掛かりというのは、実はない。

 

 

広田:うん、そうなんですよ。

 

 

───もちろん有島は門田との最後の対話で「私も子供を堕ろしまして……」と言うのですが、それも最後の最後で「うそだよバーカ! するわけないでしょ」と引っくり返される。これも、本当に嘘だったのか、「嘘だ」と言っているのが嘘なのか、テキストのレベルでは決定不能だと思うんです。つまり、──あそこで有島が、対話の始めからある程度門田を翻弄する意図もありつつ、「あなたも一人、あたしも一人、人の命を奪ったってことになるんですかね」あたりの科白を、あらかじめ自分が子供を堕したらそんなふうに感じるだろうっていうのを想像した上で演技として言っていたと取るか、──それとも、彼女が堕胎したというのは言葉どおりの事実で、最後の「うそだよバーカ」は門田の売り言葉に買い言葉で咄嗟に前言撤回しただけだと取るか。テキストのレベルでは決定できない。台本上は、有島の「うそだよバーカ」がどんなニュアンスで発語されるか、その後の門田の「嘘ですよね?」がどんなリアクションを引き起こすか、何も書いてないわけですから。

 

 

広田:ふんふん。

 

 

───実際観客としても、その前のシーンで占部の「殺すな」があるから、あそこで有島の「私も子供を堕ろしまして……」の話をわりと半信半疑で聞くっていう体勢になるんじゃないですかね。でも、以前にも言及した「悪の相対性」のテーマがそれまでにさまざまに変奏されて来たことを踏まえると、有島が「だからこれって、門田さんの方が特別残酷な殺し方をしたから、ってことになるのかもしれませんね……」みたいなことを言うのも、いかにもテーマに調和しているから、門田と同様に観客も段々と有島が言ってるのはやっぱ本当のことなんだろうな……って信じ掛けてきたところに、不意に、あの「うそだよバーカ」が来るんで、観客も門田以上にヤバいくらいの決定不能性に落とし込まれる。「え、今までの科白全部演技だったの?」みたいな。

 

 

広田:じゃあ、あなたは、「うそだよバーカ」の時点では有島が堕胎してないと解釈するの?

 

 

───それは、どっちか分からないということで演出も俳優も決めていないっていうのが面白いと思います。有島がいつ堕胎したのか、そもそも堕胎したのかどうか、一つの解釈が通るように演出でも演技でも意図しない方が面白いだろう、と。というのも──先程の丸山眞男とか平田オリザさんの話とつながりますが──、絶対的な他者=愛する女性との関係に閉じこもって他の人間との関係を拒絶しようとしている門田が、それでも、社会の中で生きている以上は相対的な他者との関係を強いられ、それに翻弄されるというような危機的かつ例外的な「対話」を描くことが、『ぬれぎぬ』という作品の一つの固有性だと思うからです。これは『ぬれぎぬ』の公演案内に書かれている言葉──「絶対の悪は他人とつるまない。いつも一人で、他人の幸福なんてものを一切考慮しないで生きている。だけど、絶対の悪人は、絶対の孤独ではないはずだ。(略)/悪ってのは関係のことなのかもしれない。少なくとも、そいつのことを「悪い」と感じる相手が居なけりゃ悪にすらなれない。したがってこの作品の主人公はとんでもなく孤独で、だけど、しっかり誰かとの関係は続いている、そんなヤツだ。」──からの連想でもありますが。現実に、我々はついに他人が何を考えているかは分からないわけですから、相対的な他者との関係性の中で「対話」の危機に陥る可能性は、つねにある。しかし、日常において我々はそういう危機を自然に意識から排除しているので、コミュニケーションはおおむね円滑に回っていく。でも、あえてその危機を露呈させるような対話劇を書こうとしたのが、『ぬれぎぬ』という作品の固有な点ではないか、と。自分は初読時からそう思ってるんですけれど……。

 

 

広田:へー。

 

 

───プレヴューの上演を観ると、有島の「うそだよバーカ」は、門田に突っ込まれて苦し紛れに、強がりで咄嗟に前言を翻したという感じではなくて、言う前に高笑いが入って、本当に見事に門田を引っ掛けたみたいな演技になっていたので、それまでの有島の科白が全部嘘だったということで、観客も認識を引っくり返されたような気分になる。門田と同じく観客も騙された、と。そういう演技・演出になっていた。まあ、その後の門田の「嘘ですよね?」に対する有島のリアクションで、印象としてはやっぱり堕胎したのかなという蓋然性は高くなるんですが。……いずれにせよ真/偽の一義的な解釈ができず、観客にとっても有島という「他者」の不透明性に直面させられるような、そういう「対話」を書き得たという点で、俺は、『ぬれぎぬ』は傑作だと前から言っていたんです。『ぬれぎぬ』における「嘘」は、それが本当に嘘なのか、嘘と言っているのが嘘なのか、という我々のコミュニケーションにまとわりつく不可測性、最終的な決定不能性が露呈すること自体が物語の面白さにつながっている。どっちつかずだから、二通り解釈できるから、どんでん返しがあるから面白いということではなくて、門田にとっての、観客にとっての有島=他者の不透明性がこの作品の本質にあるのだということ。おそらく、有島の内部に入らないようにして彼女を描いたというところですでに不透明性があった。そこから、相手が本当に何を考えているかが読めない決定不能性に直面させられるようなダイアローグを書くことが、可能になった。

 

 

広田:……いやー、そこまで褒められると、こちらとしても立つ瀬がないけれども。

 

 

───まあそういうことも含めて、複数回観ないと味わい尽くせない作品だと思います、『ぬれぎぬ』は。

 

 

広田:ええ、だからまたどっかで機会を見つけて上演したい作品ですね、これは。なんだったら人だけ現場に向かえば装置は現地で調達できるんじゃないかってぐらい簡素な舞台で作りましたから(笑)

 

〈了〉