主宰・広田淳一が今現在考えていることを 語り下ろしで記事にするインタビュー企画です。 第七回は、新作公演『生きてる風』について。 |
(※上演内容についての若干のネタバレを含みます)
『生きてる風』の舞台設定
───本日、広田さんインタビューの連続企画第七回目のテーマは、来週に上演が迫っている、アマヤドリの新作公演『生きてる風』についてです(同時上演の『ブタに真珠の首飾り』のインタヴューは後日公開予定)。すでに台本は上がっていますので、それを踏まえて広田さんにお話をうかがっていこうと思います。 |
広田 よろしくお願いします。 |
───さて、すでに情報公開の際告知されているとおり、新作『生きてる風』は「ひきこもり」を題材にした戯曲であり、実際そのような作品として完本しました。そもそも、どんなきっかけがあって広田さんが「ひきこもり」のことを戯曲に書こうしたのか、まず元々の着想に遡って、お訊きしたいと思います。 |
広田 それは、それこそ新型コロナが広まったりっていう時期よりも、もっと前からだね。2019年に、40代〜50代のひきこもりの方が加害者、被害者になる陰惨な事件──通り魔殺人や息子殺し──というのが立てつづけにあって、8050問題〔ひきこもりが長期化し、親が高齢になって発生するひきこもりの新たな局面の問題〕ということがクローズアップされた時期があったけれど、そのあたりから考え出した感じです。 |
───ひきこもりの8050問題というのは、同世代の問題として、広田さんご自身に引きつけて共感するところがありましたか。 |
広田 そうだね。当初はそれほどでもなかったけれど、ひきこもりについて深く学んでいくうち、やっぱり自分たちの世代、就職氷河期真っ只中に大学を卒業した世代というのは、非常に不遇な世代だったんだなと痛感するようになった。僕自身、僕一人が単に辛かった、しんどかったというだけのことではなく、それなりに時代の深刻な影響を受けていたところもあったんだろうな、と。ひきこもりというのは、個人的な心理状態や病理の面もありますが、一方では、当然ながら強く経済状況の影響を受けた存在でもある。そうした観点からすると、今回の座組に、松下仁くんや西川康太郎くんが参加してくれたことは──彼らは僕の同世代というには少し若いけれど──戯曲を執筆する上で意義が大きかったですね。 |
───ところで、『生きてる風』は、ひきこもりを題材にした戯曲としては、定型ではない、一風変わったスタイルを取っている作品だと言えると思います。設定がかなり独創的で。ひきこもりを題材にしたフィクションというと、中心にひきこもりが一人いて、その主人公の悲喜こもごもを描くというふうに通常はなると思うんですが、『生きてる風』は設定からして、そうはならないかたちになっています。 |
広田 その設定に関しては、やはり、陰に陽に新型コロナのことは意識にありました。一月に再び緊急事態宣言が出て、マスクをしなければ稽古もできないという状況になって、その上「ひきこもり」という言葉の世間的な文脈も変わってしまった。ならば、この状況を逆手に取る、というか、それをなかったことにはできないな、という意識からプロットを立てたところはある。普通の稽古ができないという状況ですから。稽古場でも、今だからしかできないものを作ろう、ということは俳優たちにも言っています。 |
───とはいえ、新型コロナのことは、戯曲に直接出てくるわけではなく、単なる背景として、それも新型コロナよりは致死率の高い抽象的な「感染症」へと昇華されています。この舞台設定によって、複数のひきこもりを同時に描くことが可能になっているのが面白い点だと思います。 |
広田 その点は、わりと僕がまっとうにひきこもりについて勉強してきたことが寄与していると思う。「ひきこもり」と一言で言っても、本当に千差万別で、いろいろな事例があったので。単独の物語にすれば、分かりやすくはなるんだけれども、かなり早い段階から、一人の主人公を中心にした戯曲にするのは何か違うだろうなという予感はあった。もちろん単にさまざまなひきこもりのタイプを網羅的に紹介しよう、ということではなくてね。ともあれ、ひきこもりの人が何人か出てくるという構想は当初からほとんどブレていない。 |
───「感染症」という舞台設定から、その群像劇の構想に繋がっているのが面白いと思います。 |
広田 それともう一つ、新型コロナのこととはまた別に、ひきこもりについての資料を読んでいるときに、心に留まったエピソードで、3.11の東日本大震災時に津波で被災したのに、それでも家から出なかったというひきこもりの人の話があったんですよ。津波警報が出て、他の家族は避難所に避難したのに、そのひきこもりの人だけは家にずっといたらしくて。結果、下手に動かなかったことが幸いしてその方は無事だったらしいんですが、すごい話だよね。ひきこもりの人は所詮甘えているんだから、いざとなれば家から出ざるをえないだろう、という楽観論がよく語られがちだけれど、これはそんな議論を根底からくつがえすようなエピソードでしょう。津波がくるぞ、って状況で、それでもひきこもりつづける人がいるというのは。何が起きても絶対にひきこもりつづける、という人はやはりいるんだなということを実感して、それが、『生きてる風』の設定のアイディアの素の一つになっているところはあるでしょうね。 |
───たしかに戯曲内の「感染症」は、新型コロナというより、広く天災一般のアレゴリーのように読めますね。そういう意味でも、『生きてる風』はひきこもりを題材にしつつ、いつもの広田さん戯曲らしさを濃厚に持っている作品と言えるだろうと思います。 |
沈黙していることの面白さ
───今作『生きてる風』はまた、劇中の会話の書き方においても新しい試みをしていると自分は感じています。戯曲の冒頭にも「もっとお互いの台詞を聞き流せ」「言葉に反応するな。論理に反応するな」という注意書きがある。一見普通の会話劇のようで、実際の上演はかなり変わったものになるんじゃないかという予感があります。 |
広田 今回は、台本が或る程度上がってから、それを元に稽古場で稽古していくっていうプロセスのなかで、実は結構台詞を削っていってるんですよ。以前或る映画監督が、二人の人物が会話しているシーンの片方の台詞を全部編集でカットしても場面は成立しうる、というようなことを語っているのを読んで、それがヒントになっていたり……色んなことがヒントになっているんだけれど、今回は「このフレーズ要らないな」「このやりとり要らないな」と、戯曲の台詞をどんどん減らすという方向の努力を、かなりやっている。何だろう……ひきこもりをテーマにして書いてみて、黙っている方が面白い、むしろ沈黙の方が雄弁だということを発見したのかもしれない。 |
───台詞以外のところで、役者に要求するものが多い戯曲になっているのでしょうか。自分はまだ稽古を見ていないので、どんなふうになっているのか想像するしかないですが。 |
広田 稽古で見ていても、今までとは全然違う感覚だね。でも、半信半疑ながら楽しんでやっています。 |
───それは挑戦としてはどういう意図なのでしょうか。 |
広田 うーん、例えば、劇中の●●●という登場人物については、あなたは本当は何なの?っていうことが宙吊りになってずっと話が進むことになりますが、今までの自分だったら、彼女が何なのかっていうことを途中ではっきり書いた──語らせたと思うんですが、今回はそれを我慢しているところがあります。当たり前のことだけれど、座組っていうのは、普通稽古をしていくうちにみんな顔見知りになって、仲良くなって、暖かい連帯感みたいなものが生まれてきたりする。でも、「ひきこもり」の人の人間関係には、そんな連帯感なんてあるはずないし、それがあったらそもそも苦労してないよな、ということは戯曲を書きながら思っていた。ひきこもりの人の場合は、他人と接したとしても、あまりお互いに踏み込まないし、踏み込んでいいとも思っていないし、お互いの素性が分からないままという状態が前提としてあって、それが、むしろ重要なんじゃないかと。お互いの気持ちも分からないし、相手がどんな立場の人間かも分からない、得体が知れないまま過ぎていく不穏な時間というのが。そして、稽古をやりはじめてからは、お客さんの側からしても、登場人物の沈黙によって、その人物の素性についてさまざまに考えることができるだろうなということを感じた。だから、余計なことを語らせない方が面白いぞ、という感覚が強くなって、どんどん台詞も削っていったし、明確に分かるように書くことは我慢する、ということに敢えて挑戦してもいる次第です。 |
───なるほど。とくに、今おっしゃった●●●という人物は、俳優の方がその役をどう解釈しているかによって全然見え方が違ってきそうです。 |
広田 それは本当に、演技によって相当左右されるだろうね。 |
───それも含めて実際の上演がどうなるのか、なかなか予想が付かず楽しみです。 |
広田 目下、戯曲の文字数は減っていっているのに、なぜか通し稽古をするたびに時間が長くなっているんだよ(笑) ちょっと未知の体験だね。 |
登場人物の配置の意図
───さて、『生きてる風』は、上述の舞台設定の独創性、会話の書き方の新規性、ということ以外に、登場人物の配置の仕方、という点でも複雑で面白い戯曲だと思います。言わば、物語の起承転結よりも、登場人物の配置がそのままプロットになっているかのような感があります。これも、広田さんのはじめからの構想どおりなのでしょうか? |
広田 まあ、最初からすべてを見通していた、なんてことは全然ないんだけれど……それに近い考えは僕のなかにあったかもしれない。最初期の自分の創作メモを見返してみると、最後の方に出てくる或る長科白を、一番最初に思いついたりしているんだよね。例によって、今まで僕が執筆した戯曲と同様、『生きてる風』も頭から書いていないんですよ。で、なんだかよく分からないけれど、誰なのかすら分からないけれど、どこかでこの長科白を喋る登場人物が出てくるんだろうなということは無意識に念頭にあって、それと並行して設定も組み立てていったところがあります。 |
───一読すると●●●●●という人物が主人公に見えますが、そうではないですよね。それも『生きてる風』のいくつかパラレルになっている構造の一つに過ぎなくて。 |
広田 あなたがおっしゃった、登場人物の配置=プロット、というような図式で僕自身が構想していたわけではないんですが、そんなふうに『生きてる風』を書こうという考えは、たぶん最初からあったと思う。例えば、大塚〔由祈子〕さんがやってくれている●●という役、あれもかなり初期から考えていた役です。さっきも言いましたけれど、『生きてる風』の執筆に着手する以前、まだあれこれと構想を練っている段階から、一人のひきこもりの主人公が、いろんな出来事を経験して、葛藤した上で「もう僕はひきこもりを止めよう」と決意してその主人公が一歩踏み出す──そういうふうな「解決策」をうっかり書いてしまわないよう注意しなければならない、と思っていました。もちろん、ひきこもり当事者たちが何かしら希望を抱く結末を迎えられるように書きたい、という気持ちも僕になかったわけではないですが、やはりそんな安易に解決しうることではないし、むしろずっと変化せず、ずっとつづいていってしまうことが、ひきこもり問題の本質なんだ、という意識があったので。「ひきこもり」のことを描いて、前向きに解決する、変化が起こるというドラマにしても意味がないだろうと強く思ったんです。それを、●●という登場人物に託しているところはある。そんなふうに書かなければならないんだ、とは早い段階から思っていた。 |
───『生きてる風』は、中心になっている物語があるようで、そこからズレている、ないしは別の仕方で関わっているような人物によって舞台が収束していく、その成立のさせ方が面白いと思いましたし、主人公がポジティヴに一歩踏み出したというようなドラマを虚構しても意味がない、と広田さんが考えていたことは、実際戯曲を読んでみても感じます。 |
広田 本当にどういう舞台になるのか、やってる側としてもとても楽しみです(笑) |
───ただ、登場人物の配置とは別に、登場人物の造形そのものは、当て書きの部分も結構あるのでしょうか? 西川康太郎さんとかビザールで楽しい役を振られているなあと思いましたが。 |
広田 いやあ、かなりの部分が当て書きだと言っていいかもしれない。人によっては、こんなにモロに当て書きするのは珍しいっていうくらい、当て書きしている。エチュードから書き起こしたシーンとか、稽古場で作り上げていったところもかなりあります。 |
───例えば●●●●という登場人物は、今までの広田さんの戯曲には出てきたことがないような人物だと思うんですが、彼を演じられる俳優の方も、実際あんなふうな方なんでしょうか。 |
広田 あそこまであんな感じじゃないですけれど(笑)、何だろう、彼──河原翔太くん──は、内面では本当に熱い人なんですけれど、表面上はものすごい冷たさが出る、何にも興味を持っていないかのように達観する瞬間がある人なんですよ。●●●●はその彼の一番クールな部分にインスパイアされて書いたというところはありますね。すごく頭も良いし、いい雰囲気を持っている俳優です。 |
───●●●●は構造上も重要な人物だと思いますが、そのような、ひきこもりを描くにあたって広田さんが周到に戯曲に人物を配置しているという面がある一方、稽古場で登場人物をライブ感で作り上げていっているという現場性があり、その双方がハイブリッドになっているのが、『生きてる風』の面白さになるのかな、と思います。 |
広田 そういう目論見が上手くいってくれるといいですねー。 |
───ちなみに、最後に訊きたいんですが、●●って、やっぱり●●●●●●●●●●なのでしょうか? |
広田 (笑) 答えは観てくださった方に委ねます。 |
(聞き手:稲富裕介) |
アマヤドリ 東京初演&新作本公演
『生きてる風』/『ブタに真珠の首飾り』
作・演出 広田淳一
2021年3月18日(木)〜3月28日(日)@シアター風姿花伝
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