主宰・広田淳一が今現在考えていることを、
語り下ろしで記事にしていく、インタビュー企画です。
今回は新作『純愛、不倫、あるいは単一性の
中にあるダイバーシティについて』について。
(収録日:2022年2月20日)
新しい会話劇の空間
─── 広田さんにインタヴューする連続企画の、第十回目です。現在上演中(2022年2月18日~2月27日)のアマヤドリの新作公演、『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』について、ネタバレも辞さずにお話をうかがっていきます。新作の創作過程の振り返りのようなインタヴューになればよいなと思っています。
広田 よろしくお願いします。
─── まず概括して言うと、今回のアマヤドリの新作は、これまでのアマヤドリの作品のイメージからするとかなり異色の作品になっていると思います。一年前の新作『生きてる風』からも断絶していて、飛躍があり、創作において決定的に新しいことにチャレンジしている。前回の12月の二本立て公演から間を置かず、準備期間も長くはなかったのに、これだけ野心的なことを試みていることにまず驚きました。
広田 たしかに、『崩れる』をやっていたときの感覚とは全然ちがってましたね。でも、それは結構自覚的で。関係者にはあらかじめ、ギリギリまで粘る創作になるからしんどい展開になるよ、とは伝えていました。
─── 元々ポリアモリー〔※poliamory=複数恋愛。合意に基づく複数者間での恋愛や性愛の実践〕をテーマにするということは広田さんからうかがっていましたし、戯曲の参考文献にも2021年9月に出た『現代思想』という雑誌の特集「〈恋愛〉の現在」が挙がっていて──もちろんポリアモリーも扱われている──、思索的なテーマを中心に据えた、悪く言うとテーマに引っ張られた作品になるのかなと予想していたのですが、全然ちがいました。それこそ尊厳死がテーマの『天国への登り方』のように、ポリアモリーの賛否に関する議論のシーンがあったりするのかと思ったんですが、今回、そういう場面はほとんどない。
広田 去年の11月、12月の再演つづきの公演で、アマヤドリがこれまでの五年間ぐらいでやってきたことの総括はできたかな、と思っているんです。だから今回、その先に一歩進むような作品を創らなきゃいけないよね? という話は最初から稽古場でしてたんです。再演は楽しいですし、完成度は上げ易いんですが、チャレンジングでない時間にどうしてもなってしまうので。ただ、それも関係者にいろいろ甘えさせてもらって成立したことでした。こちらが停滞したり迷ったりしても、最終的にはなんとかしてくれるだろうという関係性がないと、こういった挑戦はなかなか難しいですね。
─── そもそも今回の新作で挑戦した新しい試みの背景には、どういう意図があったのでしょう。
広田 今回、ずっと以前から自分が抱いていた問題意識に対する、一つの答えが出せたかなと考えています。というのは、たとえばスマホだったり、SNSだったりといったツールを戯曲に登場させることは、今ではもう演劇的にはありふれたことで、演出家としても便利なアイテムとして使えてしまえるものなんだけれど、そういう便利グッズとして扱うのではなく、現代的なコミュニケーションのあり方の本質を反映するかたちでそれらを登場させたい、という思いが自分にはあったんです。演劇は、コミュニケーションの芸術だと思っていますから。スマホやSNSによってわれわれのコミュニケーションのかたちそのものが変わってきていて、そのことは演劇においてかなり大事件なはずなんです。でも、そういった僕らの暮らしっていうのを、実際に演劇で表現することはなかなか上手くいっていない。スクリーンに掲示板でのやり取りを出してみるとか、携帯電話の通話シーンを出すとか、僕らもそういったことをやってきたんですけど、いまひとつ上手くいってない感覚があった。われわれがLINEだったりスマホだったりで行っているコミュニケーションの実感を、「ホラ現代テクノロジーですよ」というかたちではなく、どうやって舞台に乗せればいいのか。それが、今回の舞台でようやく戯曲・演出含め上手くハマったかなと。
─── では今作の形式的な新しさを、具体的に話題にしていこうと思います。第一に、すぐ目につく要素として、時間軸のちがう複数の会話場面の共在ということがありますね。このアイディアは何に由来しているのでしょう?
広田 きっかけ的なことを言うと、実は12月に再演した『水』から来ています。『水』の或る場面で、楠という登場人物が「殺さなくちゃいけない」みたいなことを言い、ヒソップという主人公が「それは代わりに俺がやってやるよ」と言い、同じシーン・同じ空間で、ヒロインのシトラが「そんなのやめてよ」と反対するんですが、この楠とヒソップの会話、ヒソップとシトラの会話は、ヒソップを介してつながっているだけで、時間も空間も別の会話なんですね。でも、それが一つの肉体の上に重なっている、時間・空間軸のズレをものともせずに同一空間内で会話している──『水』の再演中に、これって結構面白いことをやっているのに、自分はその後これに類したことは何もやってこなかったなという気づきがあって。今回はこの感覚を駆使してみようということから始まっているんです。
─── ということは、かなり偶然的に得たアイディアということでしょうか? なのに、それが広田さんの予てからの問題意識にたまたま合致したのは面白いですね。『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』では、ポリアモリー男性のカヌレが、二人の恋人の弓道、ぴけと同時に会話するシーンがありますが、戯曲上は三人が同じ時空間にいるのではなく、カヌレの一人一人を相手にした会話が重複しているシーンになっている。そこではカヌレのそれぞれの恋人に対する接し方のちがいみたいなものが表われていると言えます。広田さんのおっしゃる「スマホやSNSによるわれわれのコミュニケーションのあり方の変化」とは、そういった瞬時のペルソナの使い分けも含むものなのでしょうか。
広田 必ずしもすべてネットに由来することではないでしょうけどね。転職サイトとか、出会い系アプリなどが典型ですが、時代の趨勢として、僕らは一昔前では考えられなかったほど多くの人間と出会う可能性に開かれていて、人間関係の流動性が高まっている状況にいる。それって逆に言うと、一人一人の価値が低くなっていくことでもあると思うんです。自分自身も他人から、社会から交換可能なものとして扱われてしまう。そうやって自分が相対化されていくなかで、自分を束ねる中心軸というのも見出し難くなっていく。だから僕らは、交換可能な自分というカードを使って、恋人や家族という、交換不可能な関係を作っていかなければならない、という無理ゲーを強いられている。そういう苦しさが全員にあるよな、と思っています。
─── その苦しさが、複数の会話場面が共在するという今作の形式に昇華されているということですね。或いはそれは、ポリアモリー=複数恋愛のテーマを書くのに適した形式だったとも言えるし、さらにまた、散文的な群像劇を書くのに適した形式だったとも言える。
広田 ぴけという登場人物なんかは分かりやすいですよね。場面によって全然別人格になっていますから。相手がちがうから見せる顔も変わっていく。でも、観ていて違和感はないと思うんですよ。今のわれわれのリアルってそういうことなんだと思う。
─── さらに言うと、今おっしゃられた人間関係の流動性というのは、コミュニケーションのあり方においては、フレームの流動性ということでもあると思います。俺も今こうして動画アプリを介して広田さんと話していても、仕事のLINEが来たら、フレームを切り替え、全然別のチャンネルでそちらに返信しなければならない。ネットを介したコミュニケーション・ツールによって、ミクロなレベルでも自己の相対化が起こっている。そういう流動性を演劇的に表現するのに、単にスマホやSNSを登場させたりというのとはちがったかたちで実現したい。それが、今作のチャレンジになっているわけですね。
広田 そうですね。たとえば今回、ラスト近くのカヌレと絶滅の対話のシーン、あれはスマホで連絡を取っているシーンですけれど、小道具のスマホは持たない、電話掛けているマイムもしない、着信音の音響もない、しかも二人は目を合わせるし全身を使って動いている。でも、それにもかかわらずちゃんと通話のシーンとして受け取ってもらえていると思うんです。
そして象徴的に言えば、これって古典には絶対出てこないシーンですよね。ハムレットはスマホ持ってないわけですよ。古典に対する勝算はそこにあると思う。僕らがどういう感覚で生きているかっていうことを無視してもしょうがない。過去の天才たちが多くの傑作を作ってきたなかで、僕らが勝ち目を見出そうとするなら、今の自分たちのリアルを掴みにいかないと。
─── 広田さんが元々持っていた「現代的なコミュニケーションと演劇」という問題意識が、去年の『水』の再演から得た発想や、ポリアモリーへの関心を土台にして、大きく発展し、今作の新しいスタイルに完成度の高いレベルで結実したということだと思います。それゆえにこそ今回の新作は、非常にエレガントな作品になっていると感じます。
広田 それはありがたい感想ですね。
登場人物本位の群像劇
─── 第二に、今回の新作がアマヤドリの作品として異色だと感じる要因として、登場人物本位の群像劇になっている点を挙げられると思います。
広田 それはありますねー。
─── 過去のアマヤドリの作品において、群像劇という形式自体は珍しくありません。でも、それらは起承転結のある物語を中心にした上での群像劇であったり、或いは中心的なテーマの掘り下げがあった上での群像劇であったりした。他方、今作はそうではない。今回の新作は、登場人物一人一人の描写を深めていくための会話場面が、終始少しずつズレながら繋がっていくという展開になっています。たとえば今までのアマヤドリの作風だったら、カヌレの恋人である弓道とぴけの対決、しかもポリアモリーに親和的な弓道と、それと相反する立場のぴけが直接口論したり、或いは和解したりというシーンがあってもおかしくないと思うんですが、今回は、あえてそういうシーンを外している。ぴけ-カヌレ-弓道、そしてカヌレ-弓道-絶滅という二つの三者関係が柱としてあり、ハイカットとやまぶきのカップルが離れたところにいて、周辺人物として微炭酸とさわやかがいる、という登場人物の配置が絶妙で、あからさまな議論は起こらず、直線的な発展はなく、すべてが曲線的に登場人物本位でゆるやかに繋がっていく。広田さんが書く戯曲としてはかなり新鮮な印象を受けました。
広田 まずポリアモリーというテーマについて言えば、僕自身、本を読んだりディスカッションしていくなかで、他の人と比べると、意外と結構ポリアモリー的な素質があって生きてきたんだなって自覚はしました。自覚はしたんですが、それで、べつにポリアモリーについて是非書きたいという気持ちにはならなかったんです。むしろ、ポリアモリーであることはさほど自分にとって大きな事実ではなかった。なので、戯曲のなかでは、なるべくポリアモリーを普通のこととして書きたいと意図していたかもしれません。最初の方で、ハイカットとやまぶきが付き合うことになった、ということを受けて、絶滅と弓道が「結婚したかったのに女の人同士でよかったの?」「二人がよければいいんじゃない」「そりゃそうか」と議論にもならず流すくだりがありますが、あれも、もうそんなことを議論する段階は超えているよ、という空気感で書いているんです。実際にはあんな簡単に理解を得られるものではないし、世の中そんな理解ある人ばかりではないでしょうから、設定として、若干時代を近未来に置いている感はあります。ポリアモリーに理解を示さない微炭酸という登場人物でさえ、「俺は古い人間なのかもしれない」と自ら言ってしまうわけですから。現実はまだそこまで行っていないんじゃないですかね。
─── なるほど。意図的にポリアモリーを中心化せずに書いているんですね。
広田 ですね。それと、テーマでなく登場人物本位の群像劇になっているのは、単純に、登場人物が少ないからできたことでもあります。二十人出てくるような芝居で、一人一人掘り下げていったら何時間あっても終わらないんですけど、まあ、八人しかいないから(笑) ならば、一人ずつよく考えながら書けるよね、って。色んな参考文献を読んで、こういう人がいたら面白いだろうなって発想が膨らんだのも活かすことができました。
─── 複数の会話場面が共在するという戯曲の形式上の新しさも、掘り下げられた一人一人の登場人物を群像劇として繋げるための、ハイパーリンクのような役割を果たしていますね。
広田 そう。たとえば最初は、ハイカットとやまぶきの二人は、他の登場人物とは完全に関係性が切れていたんです。でも、カヌレに対し弓道が自分の両親のことを語る場面を書いているとき、急にハイカットが口を挟んでくるという一行を書いて、それはもう、ここにハイカットがいるはずだ、っていう直感だけで書いたんです。そこから、弓道とハイカットの姉妹設定が後づけで生まれた。だからもう今回はあらかじめ立てたプロットとか、まったく役に立たなかったですね。僕の真骨頂というか、あまり良くない癖なんですが、完全なるモザイク書きです。順不同でどこがどう繋がるか分からないままシーンを書いていくという。
─── 広田さんの今までの戯曲においても、大きな物語の流れがあるなかで、登場人物を一瞬だけ掘り下げるような、物語の進行には関わらない興味深い会話が出てくるパートというのはあったんですが、今回の新作では、全体をそういう会話だけで構築したという印象です。だから部分部分で見返したいと思うシーンはたくさんあります。本当に、こういう登場人物本位の群像劇は過去のアマヤドリにはなかったなと思いますし、いきなり新作がそういう作品になったことに驚きました。
広田 あと、白状すると、あれの影響が大きいかもしれない。今回、稽古始めに一文字も台本がなくて、それでもみんなが台詞をしゃべっているところを見たいと思ったから、自分の過去の戯曲ではなく、山田太一さんの戯曲を少しやってもらったんです。それであらためて思ったのが、山田太一さんの台詞の巧みさ。僕の戯曲って台詞量が多すぎて、お客さんがお腹一杯になってしまうところも多々あると思うんですが、太一さんの台詞って、本当に短くて、たった一ページ、二ページのシーンでニコニコしていたところから大喧嘩に発展するまで行ったりするんです。なのに、無理がない。極限まで絞られた台詞で最大限にジャンプする会話、そういうことをやれたらいいなという意識は心のどこかに持っていました。
─── 面白いですね。自分が感じている、『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』の新しさというのは、文体レベルでの質感の変化も含めてのことでした。たとえば今作では長台詞がない。ヒートアップする口論や喧嘩のシーンがない。短い台詞で普通のトーンを会話をしているのに、それが面白い。広田さんの過去の戯曲からすると明らかに今までの延長線上にない書かれ方をしていると感じます。
広田 役者のみなさんは、今作の戯曲の台詞をなかなか覚えにくいと言っているんです。それはたぶん、一つ一つの台詞が繋がっていないから。話し合いの中で進展していくのではなくて、飛躍がある。そしてその飛躍は、お客さんの想像力で補ってもらう余白として書いている。ちょっと間を取って、言葉の無い時間にお客さんに考えてもらって、つねに一歩先を行くぐらいの台詞を置いていく。言うべきことをあえて言わないで、その次のターンに言うことを先手で言っているような台詞だから、俳優からするとスッと出てこないところがあるみたいです。でもその方が結局は余白が生まれて、演技の可能性も広がるからやり甲斐はあったんじゃないかと思います。
─── べつに長台詞があってもいいし口論があってもいいと思いますが、今回の戯曲の質感は、俺はかなり好きですね。登場人物本位の群像劇というスタイルにも適した文体だと思います。
広田 まあ口論とか、ケンカのシーンとか、書くのは大好きなんですよ。ケンカのシーンって好きだし、いくらでも書ける。でもその一方で僕が悩んでいたこととして……そもそもケンカしないんですよ、若い人たちは! いや、日本人は、っていってもいいのかもしれないけど、とにかくケンカしない。だからWSオーディションで僕の台本をやってもらうと、「こんな喧嘩をしたことはありません」「こんなふうに言ったことがないです」といったことを言われることが多くて。それを「まあ、お芝居やし」ということであえてやってもらうことで今までは乗り切ってきたわけですが、でも、やはり彼らは本質的にそういうコミュニケーションで生きてはいないんだな、ってこともひしひしと感じていて。それに、ケンカをしないから今の若い人たちが貧しい人生を生きているとは決して思わないですからね。ぎゃあぎゃあ喚くやり取り以外の何かがきっとそこにあるのだろうと。
今作では、ぴけという登場人物の初登場時に、「揉めたくない揉めたくない……」って呪文みたいにつぶやく台詞がありますけど、あれは登場人物全員に対して僕が掛けた呪いなんです(笑) 揉めてはならない、ということが人生にずっと重しとして効いている。だから同じ言葉をカヌレも言うし、似たようなことを、絶滅もさわやかに言うんです。唯一、弓道がカヌレにバーンって食って掛かる瞬間がありはするものの、すぐ「その言い方はやめよう」「ごめん」で収まってしまう。「揉めたくない」という意識が登場人物全員にあるのが、結構今作のチャレンジの一つの肝だったかもしれません。もちろん、それゆえに盛り上がらない、という怖さはあった。烈しい言い合いをしていると、書いている方も演じている役者さんも、盛り上がっているような気になれますからね。テンション上がるし。でもそういう場面が全然なくてもドラマは作れるんじゃないかと。
─── さっきも言いましたが、ポリアモリーというテーマを前景化するなら、ポリアモリーに関する肯定派と否定派で、対決させたり議論させたりで盛り上がりを作ることもできるでしょうけど、今回はその可能性を最初から外しているんですよね。でも、その裏に広田さんの若い人たちの観察があるというのは興味深いですね。
広田 もしかしたら、世代によって受け取り方のちがう芝居になっているのかもしれません。若い人受けの方が良いんじゃないかな? とおじさんとしては勝手に思ってるんですが(笑)
福田恆存と新しい家族
─── ではつづいて、『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』の内容について、ストレートにうかがっていこうと思います。広田さんもツイッターでおっしゃっていましたが、今作では、執筆の前提に「核家族以降のソロ化する社会についての問題意識」があるんですよね。
広田 そう。やっぱりそれが一番大きい。もちろん恋愛の多様性について描いているので、恋愛物として受け取っていただいてもかまわないんですが、自分としては、家族の作り方が分からない、それでみんな困っている、という芝居のつもりなんです。最後のあたりのシーンが難しいんでしょうね。僕の言葉が問題意識に追いついていないところがあるでしょうし、演じる上でも難しい。なっちゃん〔榊菜津美:弓道役〕にも言ったんですよ。どういうお家が理想かという話を弓道が絶滅にするシーンがあるじゃないですか。「いいチームってなんだろう?」みたいな。あそこはノスタルジックな、何かの追憶をしている感じではなくて、まだ見ぬ世界を展望する船中八策みたいな感じで演じてほしい、明治維新を起こすつもりでやってくれ、と(笑)
─── 広田さんのなかには、現状の世間の通念となっている一夫一婦制、核家族といったものに対する違和感があるのですか。
広田 違和感、もあるし、そうはいかないよね、って感覚ですかね。そもそも家族というかたちのスタンダードがよく分かっていないんじゃないか自分は、という劣等感もあるんですがね。いわゆる普通の家族のイメージにどこか欠損がある。その由来は、プライヴェートなことになりますが、やはり自分の両親からなんです。うちの両親は、母親の方は、四歳ぐらいで自分の母(僕の祖母)を亡くして、父(僕の祖父)は自分を捨てて別の女の人とどこかへ行ってしまって、幼い頃から両親がいない。で、親父は親父で、両親が離婚して、その後来た後妻さんとは反りが合わず、父親(僕の祖父)とも仲が悪くて、中学生の頃には住み込みでバイトして一人暮らしをしていたという人で。だからうちの両親が作っていた僕の家族っていうのは、家族というものがよく分からないふたりが無理に作った家族だったんじゃないかなあ、って思うんです。その確信の無さみたいなものはところどころに漏れていて、たまに母親の方は「私だってよく分からないよ、お母さんがどうすればいいのかなんて!」みたいな不安を口にしていました。
カヌレの「欲しいと思いすぎて要らなくなった」「どうしても欲しいと思っているものが手に入らなくたって人生は続いていくわけだし」「そんなもの最初から俺の人生には要らなかったんだ、ってそう思うしかない」っていう台詞がありますが、あれもやはり家族のことなんです。最初は意味が分からないまま書いて、あとからこういうことだったのかと思い当たった台詞なんですが。
─── どういうことですか。
広田 スタンダードな家庭に生まれなかった人でも、そう簡単に割り切ることはできず、スタンダードな家族に対する一筋縄ではいかない想いを抱くと思うんですよ。根深い不満というか、劣等感というか。でも、普通のお父さんやお母さんが欲しいと思っても、どうしたって手に入らない。だったら、最初からいなかった事が正しかったんだ、と思うしかないじゃないか、って。
─── スタンダードな恋愛や家族からの疎外感を彼は感じているということですか。そういう背景があるとは意外でした。難しい役ですね。
広田 カヌレ、絶滅、弓道という役は自分でもすごく難しい役だなと思いながら書いていた。僕の本音に近いところにいるので、自分でもまだ見えていないんだと思う。ぴけみたいな登場人物だと、僕自身と遠いから、僕はああいう少女じゃないからね(笑) 突き放して全体像として捉えることができるんだけれど、カヌレや絶滅はもっと僕に近いところにいるから、部分しか見えなくなってしまうところがあります。これはもうちょっと時間が経たないと、何を書こうとしていたのか自分でも分かってこないんでしょうね。
─── 次に、今作の戯曲の参考文献についてうかがいます。参考文献リスト、かなりヴァリエーションがあって面白いですね。上野千鶴子さんのようなフェミニストの著作もあり、杉田俊介さんらの非モテや男性学についての論考もあり、なぜか福田恆存に関する評論もあります。
広田 いや、なぜかとおっしゃいましたけど、今回地味にすげえ影響を受けたのが、浜崎洋介さんの評論『福田恒存──思想の〈かたち〉』(新曜社)なんですよ。すごい力作だった。福田恆存という人について、もちろん演劇の先輩だし興味はあったけれど僕は全然分かっていなかったから、浜崎さんのこの本において、その思想がものすごく綿密に体系化されていて、圧倒されました。福田恆存の言う「保守」ということから、社会的包摂について非常に重要な示唆を得た気がします。
─── 俺は福田恆存について詳しく語れるほどの素養はないですが、D.H.ロレンスが好きなので、とりあえず『黙示録論』の訳者という印象が強いですね。
広田 僕も『黙示録論』を読んで、元々訳者の福田恆存への関心が深まっていたというところはあったんです。それにしても、僕とほぼ同世代ですけど、浜崎洋介さんという論客はすごい人だなと思いましたよ。
─── 福田恆存に関する評論が、今作の内容にも影響しているんですか?
広田 福田恆存の言葉で「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤独に陷れる」というものがあるんですが──僕は浜崎さんの本の引用で知りましたが──、これを僕は、消費者にとどまっていては家族を作ることはできない、という意味で受け取ったんですね。単に世の中にある色んなコンテンツを味わいたい、人生を楽しみたい、消費者としての利便性や自由を追求したい、というスタンスでは、それこそ子作りをしたり家族を作ったりすることはできない。子育てなんて、ある意味、親からすれば自分の自由どころか、人生そのものを暴力的に奪われていくような経験でしょう。でもそういうところでしか人間が育たないのであれば、子育てのためにはどこかで消費者の快適さを乗り越えなければならない。逆に、消費者にいつづける限りは、決して家族を作ることができない。これはロレンスの『黙示録論』の「現代人は愛しうるか」という問いと通底する問題だと思います。
─── 広田さんの文脈で言い換えると、「消費者は愛しうるか──愛しえない」という結論になるわけですね。
広田 自分の自由が何も侵されることがないとしたら、そこに相互関係があると言えるのか、ということです。自分の独立性や自己決定権を最大限尊重されるとき、それは消費者として快適な状態ではありますが、同時に、他者との共同作業によって、他者との奪い奪われる関係性のなかで何かを生産することがまったくできない状態でもある。だからこそ、絶滅の不倫相手のさわやかは、絶滅と一緒につくる何かを探そうとするんです。ただ一緒に味わったり受け取ったりする消費者のままでは、二人の関係が駄目になるという予感が彼女にはあったんじゃないか。
─── 生産者でないと人と繋がれないという話は、弓道の新しいお家をつくるという話とも関係してくるのでしょうね。
広田 そうですね。あと、恥ずかしながらなんですが、生産によって繋がるということで、僕は劇団というものの擬似家族性について考えてもいたんです。なぜ劇団が擬似家族的になるかといったら、全員で創作してるからなんです。これ、みんなで演劇を鑑賞する会だったら絶対こういうかたちで二十年もつづいてないですよ。少なくとも僕は、一緒に演劇を観に行くっていうだけでは関係をつづけられない。必然性が弱すぎて。一人で観に行けばいいと思うから。
─── 絶滅みたいなことを言っている(笑)
広田 演劇は一人では作れないから。共演者いなきゃしょうがないし。スタッフさんいなきゃしょうがないし。作家が書いてくれなきゃしょうがないし。演じてくれるやつがいなきゃしょうがないし。創作という一点において、みんながめちゃくちゃ掛け替えのない存在になる。もちろんわれわれの業界は忙しい交換可能性のなかでやっている面もあるけれど、それでも、客演さんのように一期一会の人でも、一緒に創るということのなかでは、掛け替えのない存在になる。自分はそんなふうに「家族」を作ってきたんだなと顧みますし、それが今回の作中で予感される未来の家族のイメージの、何らかのヒントになったんじゃないかと。そんなことを考えています。まあ、恥ずかしすぎてそれを劇団のことに繋げるという戯曲にはしなかったですけれど……。
─── 本日は大変興味深いお話をありがとうございました。
(聞き手・稲富裕介)
アマヤドリ 20周年記念公演 第三弾
『純愛、不倫、あるいは単一性の中にあるダイバーシティについて』
作・演出 広田淳一
2022年 2月18日(金)~27日(日)
@シアター風姿花伝(東京)
チケット予約はこちらへ!