【架空対談・「演技のためのジム」って何ですか?(後編)】
◆もっと深い話、その1 日本の、演技を取り巻く環境について
雨天:まあ、ジムの大枠のことは理解できました。インタヴューはこんなものですかね…。
広田:いや、もう少しいいですか?
雨天:あ、まだ何か?
広田:企画の概要は話せたのですが、何を目指しているのか、という部分について、割りとつっこんだ話もしていきたいのです。
雨天:じゃあ、まあ、お話したいのであれば……?
広田:思えば僕がこういうことをいい出したきっかけとしては、ナショナル・シアター・ライヴの『ヘッダ・ガーブレル』(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出)を観た、ということが大きく影響しているんです。
雨天:ほうほう?
広田:もう、すごいな。イギリスの俳優、スタッフワークのレベルはとんでもないな、と思いまして。これはそんなに小手先の工夫とかでなんとかなる差ではないぞ、と痛感したんです。で、そこから結構な勢いで映画を観てみたんです。海外の俳優たちの演技というものを改めて観てみようと思って。
雨天:いかがでした?
広田:すごい人達がゴロゴロいますね…。どうも現代の日本の俳優たちのレベルというのは世界のトップ俳優たちと比べると、あるいは、過去の日本の俳優たちと比べても、これは割りとまずい状況なんじゃないか、ということを思ったんです。
雨天:ずいぶんと上からものをいいますね。
広田:いや、もちろん、自分もその状況の当事者の一人だと思って言っています。だけど実際、レベルの差を感じてしまったことは素直に受け止めよう、と。もちろん、無批判にイギリス演劇界やハリウッド映画界を肯定しようなんて気持ちはありませんが、本当にすばらしい俳優たちが多くいる。そして、層が厚い。で、何がその差を生んでいるのかといったらやっぱり究極は演技を取り巻く環境なんだろうな、と。
雨天:環境?
広田:観客の質や、文化の差。教育の問題も大きいですし、正直にいってしまえば、お金の話も大きい。
雨天:お金ですか……。
広田:別に誰かを恨むつもりはないんですが、日本では大きな構造として、必ずしも良い演技をする人が経済的成功を得られるとは限らない環境があると思うんです。そもそも市場が小さい、ということが根本問題としてあるでしょうが、それを除いたとしても本当に演技ができる人間がちゃんと舞台や映画の中心に出ていけるようになっていないんじゃないか、と感じるんです。ほとんど演技経験の無い、いわゆる「アイドル」の方たちや、タレントの方たちが「ちょっとやってみました」みたいな形で演技メディアの中心に出てきてしまっている。まあ、悔しいわけですよ、普通に。で、もっとうまい俳優は日本にだって沢山いるぞ、と。だから、いざ注目してもらえた時に圧倒的な演技力の差を見せつけられるようになっておきたいんです。そういう状況を作っていかないと、コンテンツの質でとてもじゃないけど海外に対抗できないぞ、ヤバイぞ、という危機感がすごくあるんです。
雨天:まあ、わかるような気もするんですが、どの立場から言っているんだという気もしますね……。
広田:ね、誰なんでしょうね(笑)
雨天:いや、でも今だって優れた俳優はやっぱり評価されていると思いますけどね。そんなにアンフェアな状況でもないでしょう?
広田:アンフェアだとはいいません。これはこれで日本の現状でバランスを取った結果なんでしょう。けれど、僕はそれに大いに不満がありますし、逆に言えば、今後に対して大きな期待を抱いているんです。とにかく、日本の演劇・映像を取り巻く環境は、良くも悪くも芸能事務所やスポンサー、製作委員会の力が強すぎてしまって、キャスティングという作品の質に直結するような部分にまで、そういった方々の意向がかなり大きく影響してきてしまっている。それで質の高い作品が生まれるならいいんですが、どうもそうっているとは思えない。
雨天:作品創作に間接的に関わっている人たちが、創作そのものによくない影響を与えていると?
広田:そういった部分があるのかもしれない、と思うんです。もちろん、どの事務所の方々だって、製作委員会の方々だって、志を持って、映画や演劇を愛して、一生懸命やっていると思うんです。ただ、構造的にちゃんと自由競争が起きていないんじゃないかな、と。少なくとも演技の質で自由競争ができる場所が圧倒的に少ないと感じているんです。それよりも今は、集客できるかどうか? 話題性があるかどうか? どの事務所がプッシュしている俳優なのか? といったような、およそ芸術とは何の関係もない理由でキャスティングが動いていってしまう部分があるように感じます。もちろん、人気があって、話題性があって、観客を動員できる。それも俳優の力です。でも僕は、もっとちゃんと演技の質が高い俳優が人気を得て、実力をつけて活躍できる環境を作りたい。
雨天:うーん。しかし、その大きな構造的な問題を具体的にはどうやって乗り越えていくつもりなんですか?
広田:自分にも明確な解決策があるわけじゃないんです。ただ、乗り越えていかないとヤバいな、と。で、今の自分にできると思ったことは、ちゃんと権限をもった人たちが「いい俳優を使いたい!」「本当に演技の訓練を積んでいる俳優が欲しい!」と思った時に、そういった人材を準備しておくことだ、と思ったんです。
雨天:今後、そういった権限を持った人たちのニーズも変化していくだろうということですか?
広田:ええ。むしろ、今だって「すごい俳優がいるならぜひとも使いたい!」というプロデューサーは沢山いると思うんです。でも、平均的なレベルが高くない。コネクションを作って、顔を売り込むことも大切でしょうが、やはりその根本には演技の訓練を積んでいる、という大前提があるべきだと思うんです。そして、これからはwebでドラマを発信していける時代です。映画だってネット動画で鑑賞できる時代です。コンテンツ業界においても地殻変動が起きていると思うんですよ。どんな形になるのかはわかりませんが、既存の枠組みの内側からの変化とは別に、とにかく良質のコンテンツを作れるやつが勝ち、という時代になっていくんじゃないかな、と思うんです。
雨天:でもそれって…逆にますます人気主義になっていく、大衆迎合的になっていく、ということだともいえるんじゃないですか? 人気者が数字を稼げるなら、それが良質のコンテンツじゃないですか?
広田:そういう側面もあるでしょう。ですが、たとえば現在、国内のドラマと海外のドラマが同じ様な手軽さで観られるようになってきているわけです。なかなかこんな時代は無かったんじゃないでしょうか。で、そのことによって、誰が出ているのか、よりも、シンプルに質の高いドラマを、映画を、俳優たちを観たいと感じる層も増えていくんじゃないかな、と。
雨天:そういった時にこそ、演技の質が問われる、と?
広田:僕はそう考えています。コンテンツの質が問われる。たとえば日本人がインド映画を見る時に、出演者の誰がインド内での有名人か、なんてほとんどわからないじゃないですか? でも、『きっと、うまくいく』みたいな映画を観れば、ああ、この俳優さんはすてきだなあ、とか、この人いい芝居するなあ、とか、そういったコンテンツの質は直接伝わるんです。知名度があるかどうかを越えて、コンテンツの質が直接届く世の中になってきている。だからこそ、そこで戦えるような演技の質を持った俳優を作っていきたい。
雨天:それは劇団活動とは別の野望、ということですか?
広田:一見、そうも見えるんでしょうが、僕の中では不可分のことです。このジムは、ある意味では劇団活動のために作るんです。
雨天:どういうことですか?
広田:すばらしい舞台、すばらしい作品というのは継続性の中でしか構築できないと僕は考えているからです。先日SPACの舞台を観て宮城聰さんに久しぶりにお会いしたんですが、「これは劇団でしかできないですねえ」と言ったら、「そりゃそうだよ。劇団じゃなきゃこんなことできるわけない(笑)」と言われまして、まあ、そうだよな、と。
雨天:継続性。
広田:はい。継続してやっていくためにはとにかく場所が必要です。今の東京で継続的に、芸術的価値観を共有していける集団を作ろうと思ったら、必ずしもそれは「劇団」という形式を取らないんじゃないかと思うんです。
雨天:んん? どういうことですか? ジムに参加しているメンバーが劇団員になっていく、ということですか?
広田:なっていってもいいですし、全然ならなくてもいいんです。劇団員とは何か? という定義自体を刷新していくような、かつて無かったようなゆるやかな繋がりと、創作に直結するパワーを合わせ持った「場」になるんじゃないかな、と目論んでいます。
雨天:なるほど…。それはまあ、やっているうちに形が決まっていくものかもしれませんね。
広田:だと思います。どうなるのか自分でもわかりません笑 コンテンツの質を直接届けられるようになることで、経済的な問題も少しは解決していけるのかもしれない、という期待もありますしね。もちろん、SPACやSCOT、あるいはNOIZMのような、地域とカンパニーとが密接に結びついて経済的な問題を解決する方法は今後も発展していって欲しいと思います。ただ、この時代に東京で小さな劇団をやっている自分が何をするのが一番おもしろいのか、と考えた時にこのジムのことを思いつきました。正解はわかりませんが、とにかく信じることをやってみて、誰かが注目してくれた時に、ちゃんとそこに本物を用意しておきたいと思うんです。いいと分かれば一気に加熱する時代だとも思いますからね。今の僕にできるのは、本物とは何かを問うて、ひたすら高い質の演技を生み出す、あるいは俳優たちとともにそういった創作のための準備をすることだと思うんです。
◆もっと深い話 その2 リアリズム演技の現在形
広田:どうせですからもうひとつだけ聞いてほしいことがあるんです。といっても、これは全然ゴールの無い話になっちゃうんですが……。
雨天:ええ、どうぞ。どうせ止めても話すんでしょうから……。
広田:完全に私見になるんですが、僕はどうも、リアリズム演技もまた新しい理論的な枠組みを必要としている時期なんじゃないかと思うんです。さっき言っていたような、ストラスバーグ、マイズナー、ステラ・アドラーといった人たちは、1900年代の中盤に活躍した人たちですからね。
雨天:たしかに、少し前の時代の人たちですね。
広田:今、その当時に抱えた限界をどう乗り越えていくかが問われていると感じます。もちろん、そんなことはすでにいろんな方々がいろんな形で取り組んでいると思うんですがね……。えーと、ここからはかなり僕の大雑把な理解になってしまうのかもしれませんが、浅学を恐れず話していきます。
雨天:どうぞどうぞ、話半分に聞いておきますので。
広田:おそらく、スタニスラフキー、というよりは、モスクワ芸術座、あるいは、チェーホフなども含めた当時のロシア演劇界の方々が、イプセン以来のリアリズム劇を演じるために、既存の演技スタイルを越えていく必要があると感じ、努力を重ねたのだろうと思うんです。その際には、シェイクスピア劇、いや、ギリシア劇からの伝統や、イタリア仮面劇の伝統も踏まえつつ、ヨーロッパ演劇の発展形としてリアリズム演技が模索されていったように思うんです。
雨天:はあ、まあ、そうなんですかね……。
広田:ヨーロッパ的にはマイケル・チェーホフが出て、その後の俳優の演技というものをアメリカとは違う形で発展していくよう導いていったのではないでしょうか。あるいは、ジャック・ルコックが大きな役割を果たしたのかもしれませんが、まあ、そのことはいったん置いておいて……。一方、アメリカに渡ったリアリズム劇は、ヨーロッパ的な伝統と、ある意味では切り離される過程を経て、独自の発展を遂げていったように思うんです。おそらく、そこでキーワードになってくるのは「感情の開放」というようなことだったと思うんです。
雨天:感情の開放。演劇部なんかでもよく聞く単語ですね。
広田:スタニスラフキーにおいては、そこまで強調されているとは感じられない、この「感情の開放」という目的に向かって、アメリカのリアリズム演劇、ことにアクターズ・スタジオなどは集中的に取り組んだようなんです。で、その際に当時注目されていたフロイト流の精神分析の手法が彼らの意識の中にあったんじゃないかと思うんですよ。マイズナーの著作にはフロイトの言葉が肯定的に引用されていますし、そもそも「感情の開放」という言葉も、フロイト的なトラウマ概念と発想が近いように感じるんです。
雨天:まあ、そのあたりは学問的な話というよりは、広田の個人的な解釈、ということですかね?
広田:そうですそうです。間違いがあるのかもしれませんが、僕はそう見たよ、と。ただ、「感情の開放」というキーワードがアメリカのリアリズム演技において強調されたことは確かです。そして、その目的意識を共有しつつ、ストラスバーグと、マイズナー/アドラーは立場が別れていった。
雨天:あ、仲が悪かったんですか?
広田:僕も個人史的なことはわかりません。ただ、ステラ・アドラーの著作や、マイズナーの著作などを読んでいるとはっきりとストラスバーグへの批判が書かれている。マイズナーはステラ・アドラーに対してはとても親愛の情を抱いていたようなんですが、ストラスバーグには手厳しい。その対立の争点になっているのが「感情の記憶」というやつだと思うんです。
雨天:「感情の記憶」?
広田:まあ、僕なりの解釈ですが、「感情の記憶」というのは、個人的な体験に基づいた記憶、感覚を呼び起こすような形で演技にパワーを与えようとする手法です。
雨天:具体的にはどういうことですか?
広田:たとえば、失恋の劇を演じる時に、俳優の個人的な失恋の記憶、その時の気持ちを積極的に利用する、というようなアプローチです。ストラスバーグは「感情の記憶」を重視して体系的に取り組んでいったわけで、それは、語弊を恐れずに言えば、積極的にトラウマ体験を演技に実用する方法について考えていった、とも言えるんじゃないかと。近年、注目されているイヴァナ・チャバックにもこの傾向が強いように僕は感じているんですが、しかし、マイズナー、そしてステラ・アドラーは「感情の記憶」に対しては一貫して否定的な態度を取っている。
雨天:どうしてなんですか?
広田:それは本人に聞いてください、としか言えないんですが、あくまで僕個人の解釈としては、どうも「感情の記憶」を重視するスタンスは、演技に不必要なものを持ち込んでしまう、とマイズナーは考えたようなのです。ステラ・アドラーはもっとはっきりとそこに違和感を覚え、スタニスラフスキイに直接会って問いただしている。
雨天:ああ、そうなんですねえ。
広田:で、あくまでステラ・アドラーによれば、ですが、スタニスラフスキイにとっても「感情の記憶」は、一時期、大きな課題として取り組まれた。が、しかし、スタニスラフスキイはのちにそのことを重要視しなくなっていったと言うのです。まあ、そのことを聞いたステラは、我が意を得たり、という感じでのちのちまで彼に直接の指導を受けたことを誇りに思っていたようですが…。
雨天:「感情の記憶」は、一部の演技指導者にとっては不要なものとして排除されていったわけですね。でも、それじゃあ、感情についてステラ/マイズナーたちはどう取り組んでいったんです?
広田:戯曲に書かれている状況の中にちゃんと自分の身をおくこと、しっかりと想像力を働かせることが重視されます。想像力=イマジネーションこそが演技にパワーを与えるのだと、少なくともステラ・アドラーは明確にそういったスタンスです。マイズナーもそれにかなり近いのですが、彼は「感情準備」ということも重視しますので、少なくともステラや、あとで言うピーター・ブルックなどよりは感情というものに直接的にアプローチしている印象です。
雨天:うーん。ややこしくなってきましたね……。
広田:結局のところ、僕としては「感情の記憶」、あるいは「感情準備」というものも、アプローチ次第によってプラスにもマイナスにもなると思うんです。僕もまた「感情の開放」ということにはかなり肯定的な印象を持っている。特に現代日本の、ある意味で慎み深く、大人しい俳優たちが荒々しい場面の多いテキストを演じる際には、暴力性や、感情が「開放」されていくことは必須のようにも思えるんです。ただ、自分のトラウマなどを振り返って感情を呼び起こした時に、それは戯曲や脚本の世界を単に個人的な問題に矮小化することにならないのか? 問題点はそこです。その点の懸念は僕も共有しているので、個人の感情の記憶にあまり深入りしないほうがいい、という立場です。もっとも、個人の体験を頼りにしなければ、想像力を発揮する出発点にすら立てないような役柄・状況というのも演劇や映画には数多くあると思いますがね。
雨天:ん? それはどういったシチュエーションのことですか?
広田:たとえばシェイクスピア劇、まあ、『リア王』でも『オセロー』でもいいですが、ちょっと日常生活では考えられないような殺人が横行するわけです。『タイタス・アンドロニカス』なんて、現象だけみればほとんど皆殺しのような様相を呈してきますしね。あるいは、テネシー・ウィリアムズの戯曲にはしょっちゅう精神疾患を抱えた登場人物が出てきますし、イプセンにせよ、チェーホフにせよ、発狂、自殺なんてことが劇中で頻繁に起こる。
雨天:そう聞くと凄いですが、んー、たしかにそうですね……。
広田:そういったことが日常で頻繁に起こっていたら、ほとんどの人は個人的に精神が壊れてしまう、病んでしまうと思うんです。だから僕は、感情を開放するからには、しっかりとそれを閉じるセッションが必要なんじゃないか、と考えています。
雨天:感情を閉じる?
広田:ええ、セッションを終わらせる。非日常の終わりをしっかり作る、ということですね。「感情の開放」をうたう演技メソッドにおいては、劇の上とはいえ、俳優たちに極めて強いストレスがかかる状況を強いていく側面があります。状況を想像するだけでも大変なのに、そこに自分の個人的な「トラウマ」を、つまり「感情の記憶」を利用しつつ、できるだけリアルに演じさせていくわけですからね。そのことは、普通に考えれば心身の健康を損なう行為とも思えるんです。
雨天:でも逆に、そういった命のギリギリを演じてくれるところにこそ人は感動するんじゃないですか? スリリングじゃないですか、危ない演技の方が?
広田:確かにそうです。それは否定しがたい。ですが、たとえばヒース・レジャーのような名優が、ああいった形で命を落とさなければならなかった理由をもっと真剣に考えてもいいと思うんです。彼個人の不幸な事故としてだけでなく、リアリズム演技における必然的な事故として捉える必要があるんじゃないか、と。アイルトン・セナの死をF1界は痛烈に反省して、ああいった不幸な事故が繰り返されないよう、それまで以上に安全面に気を配るようになっていったわけじゃないですか。リアリズム演技は俳優に対して、言ってみれば精神のチキン・ゲームのようなことを強いてきた側面があるわけです。それを単に「スリリングで面白い」ということではなく、なんとかもっと安全に、けれどすばらしい演技、ということに高めていかなきゃいけないと思うんです。
雨天:しかしそれは、安全で退屈な演技を目指す、ということになってしまいませんか?
広田:その危険はあるでしょう。でもですよ、絶対切れないと信じられるゴムバンドがあれば、より高い位置からバンジー・ジャンプができるようになる、ってこともあるじゃないですか? 勇気をもって演技に挑むためにこそ、安全が確保されていることがプラスに作用するはずです。
雨天:感情の開放、ということに挑みつつ、危険を回避する方法をも模索したい、と。
広田:そういうことです。もちろん、その際にはアメリカ的な精神のチキン・ゲームを批判的に捉えていたと思われるジャック・ルコックや、ピーター・ブルック的な観点も大切になってくるだろうと思います。
雨天:ちょっと待ってください。えーと、確かに、演技の迫真性を求めることは、俳優に対して自己破壊を求めることと似てくる側面があるのかもしれません。安全の確保も大切なのでしょう。ですが、そういった方法が迫力のある演技、魅力的な演技を生み出してきたことも事実です。具体的にはどうやって、安全かつスリリング、なんてことを実現できると考えているんですか?
広田:僕はそこに関しては、すごくシンプルなことを、しかしはっきりと強調する必要があると思うんです。これはドラマ・セラピーの著作を読んだ時に感じたことですが、やはり、演者に対して、劇の内部と、劇の外部を、しっかりと区別させること、これが重要なのではないかな、と思うんです。
雨天:ドラマ・セラピー?
広田:はい。ドラマ・セラピーという分野では、まあ、またしても僕はそれについての専門家ではありませんので個人的解釈になりますが、「芸術としての演劇に精神的トラウマを利用する」というのとはまったく逆の発想、つまり、「ドラマという手法を通じてトラウマを克服していく」ということをやっているんじゃないかと思います。
雨天:つまり、治療のツール、方法論としてのドラマ、ということですか?
広田:その通り。たとえば、「絶対にお母さんには逆らえない」という強迫的な思考から抜け出せない患者がいたとしますよね? その人は生涯で一度もお母さんに反抗することができなかったわけですが、不幸なことにそのままお母さんが亡くなってしまった……。そんな時、ドラマ・セラピーを通じて、患者が母親役の人に反抗してみる。その場面を演じてみるわけです。「大嫌いだ! バカ!」みたいなことをドラマの上で母親に向かって言ってみる。そういうセッションを通じて、「絶対に逆らえない」と感じていた母の呪縛から患者を開放していくことができる……。とか、たとえばそういったことがドラマ・セラピーにおいては行われるようなのです。
雨天:フィクションを通じて現実を克服していく、と。
広田:その通りです。そして、そういった現場においては、セッションの始まりと終わりが明確になっていることがとても重要らしいんですね。わかりやすく言えば、ボクシングの選手が人を殴っていいのは試合の間だけ、というようなことです。区切りを明確にしておかないと「事故」が起こってしまいますから。
雨天:それと同じことが演技においても言えるんじゃないか、と? それは稽古場の運営方法の話ですかね? その、ちゃんと演技の内部と外部を分けるという方法は。
広田:そうですね。演技の最中とそれ以外の時間、さらに、稽古の時間とそれ以外の時間、ということにしっかりとけじめをつけたいと思います。それはジムの運営上、大切にしていきたいことです。「武装解除」をしっかりしていかないと「感情の開放」というのは非常に危険だと感じていますので。そしてそれ以前の方針として、「感情の記憶」よりも状況を想像する力、イマジネーションを信じて演技を探っていきたいんです。
雨天:そのことでさらなる飛躍が期待される、ということですかね。
◆もっと自由に演じたい
広田:舞台の演技と、映像の演技の違い、について考えてみる時、観客が目の前にいるかどうか? というのはとても大きな要素だと思うんですね。
雨天:確かに、映像メディアにおいては観客が目の前に居ない状況で撮影されることがほとんどですよね。
広田:それとは逆に、舞台俳優は観客との関係性の中でこそ自由になっていくと思うんです。言い換えれば、舞台表現においては物語の外部すら上演の時間に入り込んでくる、といってもいいでしょう。演劇界では「ポスト・ドラマの時代」なんて言われて久しいわけですが、その中で、僕が従来のリアリズム演技とポスト・ドラマをつなぐ重要な演出家と考えているのがピーター・ブルックです。
雨天:イギリスの巨匠ですよね。『なにもない空間』とか。
広田:そうですそうです。まあ、あの本より僕は『秘密は何もない』をおすすめしますが、まあ、それはともかく……。えーと、僕はピーター・ブクックの舞台をいくつか実際に観る機会に恵まれたのですが、彼の作品には物語の内部と外部の時間が共存しているように感じるんです。物語と俳優との距離感が自然に含まれているとでもいいますか、俳優が俳優のまま舞台上に立っている時間があるといいますか……。
雨天:どういうことですか?
広田:単純な話、ピーターの作品では、舞台上に絨毯が敷いてあって、そこが物語の進んでいく場所、と設定されていることがあるんです。当然、単に絨毯が敷いてあるだけなので、絨毯の外側に出ても、俳優は依然として舞台上に、つまり、観客から見える位置にいる。
雨天:舞台上にもうひとつ小さな舞台がある、といった構造なわけですか?
広田:そんな風に見えますね。ピーターの舞台はまったくリアルな装置が無いんです。けれど、演技のアプローチには明らかにリアリズム演技からの影響がある、もっと言えばステラ・アドラーと言っていることがかなり近い。ふたりとも「クオリティ」という言葉を大事なところで使いますし…。
雨天:なにか共通点があるわけですか?
広田:リアリティ、そしてクオリティにこだわるところです。ピーターの舞台は、緻密なセットなんてものは全然ないのですが、結果として俳優のリアルな演技、力、というものが作品の肝になっているんです。ピーターの言う「何もない空間」というのは、最初から何もないわけではなくて、極限まで不要なものを排除していった姿なんです。最後に、俳優と観客だけが残っているのが「何もない空間」というわけなんです。そのことからもわかるように、ピーターは俳優同士、あるいは俳優と観客との関係性の中にこそ演劇の核心を見出しているように、僕には思えます。
雨天:ピーター・ブルックの演技論、というものもジムでは参照していく、ということですか?
広田:そうですね。まあ、僕には参照するほどの知識も経験も能力もないのかもしれませんが、それでも僕なりのリスペクトの仕方で彼の考えも含めて、自分の理想とする演技について考えていきたいと思っています。もちろん何かの方法論をパッチワークのように張り合わせて新しいものができあがるとは考えていません。今、話が二十世紀のことに集中していますけど、そういった観点を越えて、日本には歌舞伎や能、狂言や落語という、とんでもない蓄積をもった舞台芸術があるわけですから、そういった観点も踏まえて世界水準の日本人の演技、ということを考えていきたいんです。絨毯一枚を持ってアフリカを旅して公演を行ったピーター・ブルックたちは、ハリウッド的なカメラの前の極度の集中と没入とはまったく違う形で、よりオープンな形で演技を、フィクションとして楽しむ観点を持って洗練させていったように思います。ピーターの作品、たとえば『ザ・スーツ』を観た時に僕が感じたのは俳優たちのオープンさ、フレンドリーさ、自由自在な感覚です。だって、劇の内部に入っていき、また、劇から出て来るところをまで彼らは舞台上でさらけだしてくれて、観客を見事に物語の内部にまで巻き込んでくれたのですからね。
◆結局のところ、何を俳優に求めているのか?
雨天:えーと、大分話があちこちに飛びましたので、まとめの意味を込めてもう一度単純な質問に立ち返ってみたいと思います。演技のためのジムで理想とする演技というのはどういったものなんでしょう?
広田:それを固定せずに探っていく場にしたい、ということです。が、まあ、その答えだとちょっと逃げたような感じもしますので現時点での考えを言いますと、
雨天:はい。お願いします。
広田:僕が俳優たちに対して求めたいことは、まあ、それこそ本当にたくさんあるわけですが、特に重視したいのは、集中力と勇気です。
雨天:集中力と勇気。
広田:マイズナーが著作の中で何度も言っていることとして、「何かが起きるまでは何もするな」という言葉があります。それは、感覚を鋭敏にしてしっかりと何かが起きたこと、起きつつあることを受け取れ、という意味だと僕は思うんです。同じ様なことをピーター・ブルックはもっとシンプルに、その場で想像し、身体を通じてリアリティを獲得しろ。焦るな、待て、という言葉で言っている。「時間感覚」という言葉をピーターは使っていましたが、時間の経過にともなってすべてを書き換える感覚を持て、と。それは世界の変化に耳を澄ませ、目を凝らすことです。ピーターは、そういったことからリアリティを掴め、ということを言っているんだと思います。今僕が挙げた「集中力」というのも、そういった意味で使っている言葉です。感覚を遮断して閉じていく集中力ではなく、すべての起きつつある変化を見逃さないような、鋭敏な感覚器官としての集中力。身体全体の感覚を活かして、非現実の想像にリアリティを与えるような集中力をもってほしいんです。逆に言えば、日本の俳優たちに今、それが欠けていると思う。余談ですが、松田優作はその点で本当に世界最高峰の集中力を持っていたと思います。
雨天:えー、では、もうひとつの「勇気」ということに関しては?
広田:これは特に日本人が文化的習慣として苦手とするところだと思うんです。ここで言う勇気というのは、攻撃力とか、踏み込む力とか、他人を変更していく度胸、と言い換えてもいい。もうね、攻撃力、なんて言葉を使うとそれだけで敬遠されそうですが、考えてみてほしいんです。イプセン、チェーホフの劇にせよ、ミラー、ピンターの劇にせよ、あるいはマーティン・マクドナーの劇なんてもっとそうですが、とんでもない攻撃がたくさん描かれているわけじゃないですか? 三好十郎だって、岩松了だって、松尾スズキだってそうです。それはもちろん、劇作家がヘンなやつらばっかりだった、ということではなくて、彼らが偉大な目を通じて見つめた世界の現実、人間の現実、というものがそういうものだということです。どうも近頃の日本の俳優たちの多くは、不必要に「優しい」。だから迫力に欠ける部分がある。その「優しさ」は本当に誰かのために、芸術のためになっているんですか? ということを僕は問いたい。自分自身にも、また、俳優たちに対してもね。だって、日常において無傷であろうとする態度、あるいは決して他人を傷つけまいとする「優しさ」なんてものは、極端にいってしまえば、自分を安全地帯においておくための保身だともいえるじゃないですか? 僕はそういった表面的な「優しさ」、とにかくなめらかに、ストレスを感じないように人間関係を築こうとする傾向に疑問を抱いているんです。ストレスが最小化された環境というのは、変化が最小化された環境ということで、その様な場所では成長も発見もありません。もっといえば、そこには喜びが無い、とすら僕は思うんです。だから僕は俳優たちに求めます。迫力のある演技を。他人に強く作用していく覚悟を。他人の人生を変えていく度胸を。それがここで言う「勇気」という言葉の意味です。他者とぶつかればお互いに傷つくでしょう。「揉めるぐらいなら最初から関わりなんて持たないほうがマシだ」と思う人もいるでしょう。でも、なんらかの形で「演技」なんていうことに取り組もうとしている人たちは、意識的であれ、無意識であれ、なにか人とちゃんと関わりたい、という欲を持っていると思うんです。「演技のためのジム」は、そういったものを出せる場所、試せる場所にしていきたいですね。(終)