広田淳一、語る。#04

 

主宰・広田淳一が今現在考えていることを
語り下ろしで記事にするインタビュー企画です。
第四回は、5月のアマヤドリ本公演について。

(収録日:2020年1月某日)

 

 

 

「ひきこもり」問題の深層

 

  ───広田さんにインタビューする連続企画の、第四回目です。今回は、今春5月15日〜24日に吉祥寺シアターにて上演予定のアマヤドリの新作本公演について、広田さんにざっくり語っていただければと思います。

 

広田 よろしくお願いします。

 

  ───早速ですが5月の新作戯曲、その概要を語るとしたらどのようなものになるでしょうか。

 

広田 まだタイトルは(仮)ですが、「ひきこもり」をテーマに書こうということは前々から決めています。いわゆる社会的ひきこもり〔※精神保健分野の定義では、二十代後半までに問題化する、精神障害といった原因抜きに六ヶ月以上社会参加しないことが続いている状態〕の問題をテーマにして。ただ、本当に単なるひきこもりの話にしてしまうと、関わってくる登場人物が限られてしまうので、それとは別枠で動いている群像劇のパートもあり、それにひきこもりの問題も絡んでくる……そんなふうにやれないかという構想はぼんやりあったんですけれど。

 

  ───すでに発表された情報でも、十名の劇団員が出演予定ですから、少人数芝居という感じではないですね。

 

広田 でも、率直に言うと、僕が最初にこの作品の企画を考えていた頃から比べると、様々な本を読んで「ひきこもり」について学んでいくにつれ、僕が持っていた知識、世間の「ひきこもり」関連のニュースから得た予備知識からこんな物語になりそうだなと当初予想していたことと、実際に「ひきこもり」の問題として転がっていることとのあいだにズレを感じるようになって、「ひきこもり」について知れば知るほど、行き詰まるということが起こっています。有り体に言えば、自分はひきこもりの問題を甘く考えていた。やりようによってはポジティヴにも扱うことができるだろうと考えていたんだけれど、もっと、努力でなんとかなるようなことではない、全然身動きが取れないような問題で、結末として社会に復帰できましたというような甘い構図で乗り切れるような何かではないんだなと思った。「ひきこもり」について学べば学ぶほど、そんな安易な話ではなく、少なくとも当事者の人たちからすれば、そんな構図を見せられても何の感動も持てないんじゃないかという気がしてきて、ならば「ひきこもり」をどう扱えばいいのか、というところで暗礁に乗り上げている感はあるんです。

 

 

───ところで、広田さんが想定しているひきこもりの主人公というのは男性でしょうか、それとも女性でしょうか。

 

広田 それはやっぱり、男として、中年男性として考えていた。例えば、ひきこもり関連の資料のなかでは、当事者からも医療関係者からも別格扱いされている斎藤環さん〔※精神科医。ひきこもり診療の第一人者〕の本を読んでも、臨床現場に基づく地に足のついた議論が展開されているんですが、やはり、扱われている臨床例は男性が多いんですね。統計上でも男性の方がひきこもりは断然多いことになっている。とはいえ、一方で、いろいろ読んだなかでは、男性のひきこもりの問題よりもさらに地下に潜ってしまっているけれど、実は、女性のひきこもりの問題も深刻なのではないかと主張している本もあった。ほら、男性の場合は働かなきゃいけないっていう社会的な圧力があるから、当人がひきこもっていることが目に付きやすいんだけれど、女性の場合はどこか、家事手伝いみたいな枠組みに収まって、「ひきこもり」としてカウントされないまま、実態としては男性と同じくらい増えているということがあり得るわけです。そう警鐘を鳴らしている本もありました。

 

  ───なぜこの質問したかというと、「ひきこもり」という存在が一体何なのか、プリミティヴに考える上で、もしかしたらひきこもりの「女性」を想定する方がより本質に迫れるのではないか、という気がしたからです。まず、男性の方が、ひきこもりの当事者としてその「社会問題」を語られすぎているきらいがある。広田さんが仰ったように、社会に出て働かなければならないという圧力が強い情況では、ドロップアウトしたところから社会復帰をゴールとして目指すという構図でひきこもりの問題が語られがちで、とくに、男性のひきこもりについての語りはそれが顕著になる。でも、社会からほぼ完全に切り離された状態で、四〇歳、五〇歳になっても生き続けている人が少なからずいるということ、それは一体どういうことなのか?を本気で考えようとするとき、男性のひきこもりの「社会問題」としての語られやすさは、むしろノイズになるような気がするんです。女性のひきこもりの方が、「ひきこもり」とは何なのか、という問いを問う上で物語の主人公には相応しいかもしれない。

 

広田 なるほどね。たしかに今あなたが仰った「語られすぎている」ということには、若干僕も懸念はあった。それこそ演劇界で言ったら、ハイバイの岩井秀人さんのように、元ひきこもりという過去を背負って出てきた人もいる。あの方の一連の作品は、多分にそういう要素を含むものでもあるし。

 

  ───そう。男性のひきこもりのことを描いた演劇作品はすでにある。しかし本当に「ひきこもり」について考えるべきことはその先にあるかもしれません。……広田さんのなかには、女性のキャラクターを出す場合、その女性がひきこもりだというイメージはなかったですか。

 

広田 どちらかというと当初イメージしていたのは、なんというか、シングル盤の両A面じゃないですけれど、「ひきこもり」と「不登校」の問題を両輪でイメージしていました。なぜか僕は、女性、とくに若い女性にとっては社会性にまつわる問題──例えばグループのなかで浮いてしまうとか、友達と仲良くなれないとか──といった問題系の方が大きいんじゃないかと考えていて、今度の新作では、一方で、「不登校」の問題を女子学生たちのあいだの友情物語のようなものとして描いていく、他方で、それとは全然別個に、社会に参加しない「ひきこもり」のおっさんの物語を描いて、どこかで双方がつながっているというふうになればいいんじゃないかな、と思っていた。それは単純に二つのパートが交わるということではなくて、例えば女子学生パートの物語がおっさんの妄想であるというような構造があり、それと同時に、女子学生パートの物語の内部にもおっさんの物語がはめ込まれているというような、ウロボロスじゃないですけれど互いに互いの尻尾を食い合ってどちらが内部でどちらが外部か分からなくなっていく、……そんなイメージがあったんですよね。だからどちらかというと、女の子の方がもっと外向的で、社会性の問題に関わっていくのかなという想定でいました。

 でも、ひきこもりの女性という主人公像も、捨てがたいですね。たしかにそれは、「ひきこもり」について調べていくなかで興味を持ちはじめたトピックの一つではあったんです。女性のひきこもりというのは、本当に表面からは見えない、地下に深く潜っている問題だという気がする。

 

  ───そこで想い出したんですが、先ほど広田さんも名前を挙げた、精神科医の斎藤環さんの著作に、ひきこもり男性/女性の相違ということを理解する上でかなり啓発的な考察を含むものがあるんですよ。それは、精神医学の本ではなくて、斎藤環さんが医業の副業としてやっているサブカル評論や文芸評論に属する著作〔※『文学の徴候』『関係の化学としての文学』〕で、臨床の現場を離れて男性と女性の性差について思弁的な論を展開している内容のものなんですが、要約すると、「男性に対する抑圧は男性性そのものの否定にまで至ることはないが、女性に対する抑圧は女性性そのものの否定に至る可能性がある」みたいな話だったんです。

 

広田 ほう。

 

  ───これをひきこもりの問題に応用して言うと、次のようになります。ひきこもりの男性はひきこもってしまっても、自分の男性性を捨ててしまうことはない、つまり、ひきこもりの男性はひきこもってもまだ社会から影響されるジェンダーバイアスを捨て切れず、広田さんがさっき仰ったような、「男だったら働かなければならない」「稼いで女性を養わなければならない」「家族を養えるほどの社会的地位を得なければならない」といった強迫から逃れられずに、男性に特有の劣等感や恥を抱えることになる。ひきこもりの男性は、孤立していながらも、まだ自分が「(ダメな)男」だという意識は他の数多の男たちと共有できている。さらに言うなら、ひきこもり男性の「男だったらこうしなければ…」という自意識こそ、ひきこもりへの治療的介入の、そして当人の社会復帰の重要な糸口になっている面もあるわけです。だからひきこもりの男性の問題というのは十分可視化されているし、その援助方法も或る程度定式化されている。

 ところが、女性の場合は、ひきこもると同時に、社会のなかで自分が女性であることそれ自体を捨ててしまって、つまり、誰かに対して女性を演じることから降りてしまって、徹底的に背を向けてひきこもることがあり得る。「女性だったらこうしなさい」という社会からの抑圧を完全に無視して、もはや男性でも女性でもない得体の知れない存在になり、もちろん他のひきこもり女性たちとも「女」として連帯することなどなく、ただ純粋に社会から脱落してしまうことがある。数としては稀だとしても。統計上の数としては男性のひきこもりの方が多いのだとしても、真の意味で「ひきこもる」ことができるのは女性の方ではないか、と斎藤環さんの考察を敷衍して言うことができます。現にそのような女性がいるとしたら、それは本当に社会的には不可視の問題になってしまっているはずです。

 

広田 女性のひきこもりの方が深刻になり得るということですか。

 

  ───ええ。といっても、これは斎藤環さんも臨床的な知見に基づいて言っているのではなく、思弁における理念型としての男性と女性について言っているのだと思いますが。斎藤環さんが前提にしている仮説の一つは、セクシュアル・ファンタジーにおける性差です。一方に男性向けの通俗的なポルノグラフィがあり、他方に女性向けのやおい・ボーイズラブという比較対照すら成り立たない独自の領域がある。なぜ、こういう相違が生じるのか。細かい論証はここでは引用しませんが、別のところでは斎藤環さんはもっと露骨な言い方もしていて、曰く、男性は、どこまで社会を否定しても、たとえひきこもりの状態にあっても「(異性との)セックス」を諦めることができない、つまり異性関係という社会性だけは手放せないのに対し、女性は、必ずしも性関係を必要とせず、おのれの性的欲望を、女性の存在を消し去った「やおい・ボーイズラブ」という閉域で消尽することもできる。だから、男性と女性の欲望のあり方の違いからして、より深く社会から撤退してひきこもることができるのは女性の方なのだ、と。大雑把な要約ですが、斎藤環さんのこの議論は、いろいろと示唆に富むものだと思います。

 

広田 面白い話ですね。でも、本当にそれは不可知なことだから、どうやってそれを理解して描けばいいのか、難しいですけれども。男性はつまり、ひきこもっていてもなお、頭のなかには「こういう男性が勝者であるんだ」という、一般の通念と共通する成功した男性像みたいなものを持っていて、その幻想を社会と共有したままひきこもっているけれど、女性の場合、それが無効化された場所に行ってしまえるということなのかな。……それで言うと、これは完全な予感なんですけれども、女性のひきこもりの方が、自殺までいかないで済むのかもしれないですね。ひきこもりが生きるか死ぬかの問題になってしまうのって、要は、或る種の社会のフィクションに乗っかっているからだこそだと思うんですよ。最終的に社会的な勝利者になりたいとか、年収が多い方が上だとか、そういう競争に参加しているからこそ、その競争の最下位でありつづけることに価値が見出せないからしんどい、死にたい、ということになると思うんですけれど、そもそもそのゲームのルールを突破してしまえば死ぬほどのことでもないわけだから。

 

  ───とまれ、「ひきこもり」についての広田さんの問題意識を突き詰めることが、今は最優先だと思います。私が斎藤環さんの考察を口伝えしたことが、広田さんが行き詰まったタイミングと上手く交わったのであれば、幸いです。

 

広田 ひきこもりの女性、という切り口は、一つ手かもしれないね。僕は究極的には女性のことは分からないと感じているところがあるから、女性を主体にして描くには、自分のなかで何か越境しなければならないんだけれど、そういう操作があるゆえに、書けることもあるかもしれない。もちろん最終的にはどうなるか分かりませんけれども。……くり返せば、自分のなかでもたしかに行き詰まり感はあったんです。それこそ「ひきこもり」についての本を大量に買って、一時期ずっと濫読していたんですが、大抵いつもは資料を読み込むときに、あらかじめ自分のなかに或る程度方向性はあって、読書によってそれが補強されたり微調整されたりすることがあるからこそ本を読むのにモチベーションを保てるのに、今回は、立ち止まってしまう瞬間があって、しばらく本を読むのも苦痛という状態になってしまったんです。もっと深くこの問題に踏み込まないとこれ以上は進めないな、という感覚があった。それを、この時点で自覚できたのは大きいかもしれない。

 

  ───先ほど広田さんが仰った、女性のひきこもりの方が自殺までいかないで済むのかもしれない、という着眼点は面白いです。

 

広田 ただ、男性と女性というのも一つのポイントとして大きいものなんですけれど、いわゆる、同世代の問題──8050問題であったりとか、就職氷河期世代であったりとか──個人としての自分だけでなく大きな流れのなかでの僕自身というのを考えたときに、自分たちは社会的には不遇とされていた世代で、それで若い頃ひきこもってしまった人たちが、今僕と同じく中年に差し掛かっているという問題は、本当に身につまされることで、やはり無視できないことだと思っています。僕なんか、今はたまたままともな社会人の顔をして生きているけれど、一歩間違ったらまさに僕も「ひきこもり」になっていただろうなという、そういう確信があるんですよ。ひきこもりについて学べば学ぶほど、自分がひきこもりだったかもしれない可能性を痛感します。新作について、当初自分が考えていたのは、「ひきこもり」のことを題材にしつついかにポジティヴに語り得るか、ということで、中年の「ひきこもり」というとまず実際耳につくのが、去年川崎市の路上であった殺傷事件だとか、父親がひきこもりの息子を殺した事件だとか……すごく展望の暗い話になりがちなのを、少しでもポジティヴに語れないだろうかという考えがあったんですが、そのポジティヴに語る、という自分の発想の安易さに、自分で躓いてしまったところがあって、結局その方向では進めないな、知れば知るほどそうはいかないな、と思っている。作品のことでは、まだまだ悩んでいますね。

 

  ───広田さんが「尊厳死」の問題を扱った最近作『天国への登り方』でも、観光特区の設定や人語を話す狐など非現実的な要素を入れて、ストレートに社会問題を戯曲化したものにならなかったのと同じく、今作も、広田さんがストレートに「ひきこもり」の問題を単なる社会派戯曲に仕立てることはないのだろう、と予想しますが。

 

広田 ストレートに扱ってしまうと演劇としての醍醐味がなくなってしまうんだろうな、という直感はあります。でも、この点もまだ最終的にどうなるかは分からないですね。

 

(聞き手:稲富裕介)

 


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