広田淳一インタビュー【新旧二本立て公演『牢獄の森』『うれしい悲鳴』】

2024年8月17日〜26日、
吉祥寺シアターで行なわれる
アマヤドリ・夏の新旧二本立て公演

作・演出の広田淳一が
『うれしい悲鳴』『牢獄の森』
両作品について語ります。

 

※『うれしい悲鳴』の
キャスティングに関する
ネタバレを含みます!

サブテキストとしての震災、──『うれしい悲鳴』

─── アマヤドリは来月8月の17日(土)〜26日(月)に、再々演の『うれしい悲鳴』と、6月に上演したばかりの新作『牢獄の森』と、新旧まじえた二本立て公演を吉祥寺シアターで行ないます。本インタビューでは、作・演出の広田さんに、それぞれの作品についてうかがっていきたいと思います。

広田  よろしくお願いします。

─── まずは『うれしい悲鳴』のことから。初演はアマヤドリの前身ひょっとこ乱舞時代の最終公演で2012年3月、そして再演が2013年の10月。或る意味、その時点でのひょっとこ乱舞=アマヤドリの集大成的な作品でもありました。今回そこから十年以上空いての再々演になりますが、このタイミングで『うれしい悲鳴』をやるということについて、思うところはありますか。

広田  『うれしい悲鳴』は何年か前からやりたい作品ではあったんですよ。その気持ちがあったんで、今回ご縁があって6月からの連続公演、8月の二本立てという流れができたのをいい機会だなと捉えて、やることを決めました。

 そして『牢獄の森』の方は出演者に劇団員が多く、それはもちろん内部の熟成という意味ではとても良かったんですが、やっぱり出会いも大切ですからね。もう一本の『うれしい悲鳴』は外部の客演さんを大勢呼んでやってみようじゃないかというわけで、こういう企画になりました。

─── 『うれしい悲鳴』の座組でアマヤドリに出演されたことがあるのは、西川康太郎さん、ザンヨウコさん、宮本海さん、西本泰輔さん、ですね。

広田  そう。あとはもうはじめましての方々ばかりで。

─── 以前『うれしい悲鳴』をやるかどうかっていう話をうかがったときには、斉木ミミ(ヒロイン的な役)を誰にやってもらうかが悩みどころだ、とおっしゃっていましたが。

広田  そうでしたか。確かにキャステイングはいつでも大問題ではあるんですが、斉木ミミとマキノ久太郎を誰にやってもらうかに関しては、すでに結論を出しました。相葉りこさんと西川康太郎くんにやってもらうのがいいんじゃないかなと。

 僕は特別の意識をしていなかったんですけど、りこさんにとっては、この『うれしい悲鳴』の2013年の再演版を観劇したことが、アマヤドリに入るきっかけになったそうなんですね。それもあって、ものすごく気合いが入ってますね。やったるぞ! みたいな感じで。

─── そう言えば、再演で斉木ミミを演じたのは藤松祥子さんですが、彼女が2014年の『非常の階段』にも出演された際には、たしか末の妹の役をやっておられましたね。そして、その同じ役を2017年の再演版『非常の階段』ではりこさんが演じている。奇しくも二度にわたって藤松さんが演じた役をりこさんがやることになります。

広田  ああ、そうなんですね。あなたよく覚えてますね(笑)

─── 『非常の階段』の末の妹も長台詞のある、難しい役で、随分難しい役をりこさんに任せるんだなとそのとき思ったことを覚えています。

広田  りこさんは、〔相葉〕るかさんと双子なわけですが、年が経つにつれて二人はまったくタイプのちがう人間だし俳優なんだなと、ますます思うようになってきましたね。今回、『牢獄の森』の方ではるかさんもとても彼女らしい大人っぽい役をやっているし、りこさんにとってもミミは「らしい役」だと言えるのかもしれません。

─── その双子のちがいというのは、言語化できますか?

広田  うーん。これは偏見なんでしょうが、まあ、生まれてきた時間が10分しか変わらないとしても、やっぱりりこさんはしっかり妹してるんですよね。りこさんの方が断然負けず嫌いです。るかさんの方は実は争いごとになったら最後はまあいいやって引いてしまう人という気がするんですけど、りこさんは最後まで戦って決着をつけるタイプというか(笑) とにかくやり遂げなくちゃ、って執念も強いですし、うーん、りこさんはやっぱり他人に対してというより、自分のなかで「負けないぞ!」という気持ちを強くもってるんじゃないかな。

─── なるほど。それはたしかに斉木ミミという役の気質に通ずるかもしれないですね。「これって勝負じゃん」「あたしは絶対ゆずらない」という科白があって、それこそ命懸けで自分の意志を通そうとするキャラクターですから。

広田  そうですねえ。

─── マキノ久太郎という役を西川康太郎さんがおやりになることについてはいかがでしょう?

広田  マキノは物語の中心の一人ではあるんですが、「泳ぐ魚」という組織の中では決してステータスの高い人物ではなく、彼よりも上役っていうのが何人かいなくちゃいけないんですね。康太郎くんにやってもらおうと思った際に、彼は座組のなかでもキャリア的にはどうしたって上の方だから、最初はバランス的に難しいかな? と考えていた部分があったんです。だけど、やってみたら想像以上にすんなり馴染んで、ああ、もう彼で行こうと。マキノという役を考える上でもうひとつ肝になるのが、中盤にあるとんでもない長科白のシーンをどうやるかってことだと思うんですけど、それも含めて彼が適任かなと。

─── 今回、過去の上演と比べると俳優陣の女性の比率が上がっていて、戯曲の書き換えも必要になるので、キャスティングにあたってはその難しさもあるのでしょうか。

広田  それもありますね。加えて、今回の書き換えで、一番手を付けなきゃと思っているのは、やけにヤンキー映画みたいな口調の科白が多いので、ちょっとだけ和らげようかなと(笑) 今の俳優さんがやるとあの口調が馴染まないというか、うまく雰囲気が出ないんですよね。そこは直さなきゃな、と思っています。

─── 「泳ぐ魚」という組織は、過去の上演では男性だけの組織でしたから、ホモソーシャルな空気を感じさせるところもありましたね。下ネタのあり方とか。そこに今回は女性が混じることになる……。

広田  その空気感はちゃんと残したいとは思っているんです。初演の際には、──当時はセジウィックなんて読んで無かったし、ホモソーシャルという概念で捉えていたわけではないんですが──概念は知らずとも、そういった空気感を強く意識して書いていたんでしょうね。執筆当時は、劇全体の構造として、男の論理と女の論理がぶつかっていく、というのがテーマとしてあったんです。黒川に代表されるような、「私」というものを捨てて「公」のことに就く、個人の事情よりも仕事第一、任務遂行を何よりも優先するという論理があり、他方で、ミミに代表されるような、純粋に「私」、個の感情の世界、「私のお母さんと約束したからゆずれない」みたいなまったく「公」の論理では測れない行動原理があり、その両者がぶつかり合う。そういう構造を意識していたんです。

 でも、初演からこれだけ時間が経って、単純に男性的なるもの/女性的なるもの、という形の二元論で考えるのではなく、男性にも当然、個人的な感情にしたがう部分があるのと同時に、女性にも公的な任務に忠実であろうとする部分もあって、だからもっと性別としてはシャッフルした上で、二つの論理が対立しているという構図で考えられるんじゃないか、ということを今は思っています。それはパブリックな論理とプライヴェートな論理の対立軸と言えるかもしれないし、或いは、全体主義的なるものとアナーキズムとの対立と言えるのかもしれない。

─── ところで、『うれしい悲鳴』という作品は、広田さんの戯曲のなかでも最も構成が複雑なものだと思います。新郎新婦二人の軌跡を本人不在で振り返る、という架空の「欠席結婚式」の場面を中心に、時間軸がかなり操作されている。初演時この戯曲はどのような書かれ方をしたのでしょう?

広田  謎ですよ(笑) シーン単発の書き方みたいなことで言ったら、後半にミミ、亜梨沙、母親のシーンという長い一つながりの場面があるじゃないですか? あれをほとんど一番最初の時期に書いてるんです。そこから短編の『まだ、わかんないの。』のモチーフを絡めて他を付け足していったというふうに、かなり奇妙な書き方をしたんですよね。自分でもなんでそうなったのかよく覚えてないんですけど、『銀髪』とか含めて元々そういう順不同な書き方しか出来なかったんですよね。とにかくミミと亜梨沙、そして母のあの長いシーンは或る日突然書いて、その後、あんまり手を付けてないんです。それと、執筆当時は震災(東日本大震災)からの影響というのが心理的にはすごく大きかったですね。

─── その話も、以前うかがったことがあります。ヒロインのミミの身体が丈夫でないがゆえの傷つきやすさ、過敏さという設定を、こんなにも地震が多い国である日本の存在そのものと重ね合わせていた、と。

広田  はい。そうですね。あとは、「欠席結婚式」という場面設定そのものが震災の経験から出ています。2011年の震災によって多くの方が亡くなってしまったわけですが、それについて自分にすごく記憶に残っていることとして、演劇界隈での震災復興のイベント(フェニックス・プロジェクト)のことがあるんです。当時のそれは東北の演劇人の方を東京にお招きして、実際にどのような被害があったのかをお聞きする、シンポジウムのようなイベントで、自分もちょっとお手伝いさせていただいたんですが、そのなかで、壊れた劇場のスライドを見せていただいたり、めちゃくちゃになってしまった稽古場の写真などを見せていただいて、それが、どの報道よりも、自分にとっては実感の湧くことだったんです。ああ、人が築き上げてきたものが一瞬で破壊されてしまったんだな……という感慨があって。

 さらに、そこでプレゼンテーターをしていた東北の方が、終始、明るく朗らかにプレゼンをされていた方だったんですけれど、不意に、「これがうちの劇団のメンバーです」と言って一枚のスライドを出されたんですね。それはそのメンバーの方が少しお道化ているというか、ふざけてじゃれているような写真で。見ている観客からも笑いが起こった。でも、続けてその方が、「このメンバーは今回の震災で亡くなりました。一緒にいつか東京に行って劇をやろうって言っていたので、今日、こんなかたちではありますが、一緒にこの劇場に来てみなさんにお見せできてよかったです」ということをおっしゃって。もう、会場がシーンって静まりかえって……。

 そのとき、もう発言する機会がなくなってしまった方の言葉を引き受ける、ということに強い思いが湧いたんです。そもそも、演劇という芸術の基本的な前提としてシェイクスピアにしてもチェーホフにしてもイプセンにしても、すでに亡くなった人たちの、その言葉をわれわれが引き受けて成り立っているという面があるわけですが、それを改めて強烈に意識したんです。今僕らが生きてしゃべっていること、活動していることは、もう今ここにはいない、誰かの代わりに発言しているんだ、そういう要素が含まれざるをえないんだ、っていう実感。本当にいてほしい人はもうここにいない、「欠席」になってしまっているという感覚。それを、震災のときに強く感じて、たぶんそれは僕の心のなかだけではなく多くの人のなかにあった感覚だと思うんです。

 東日本大震災では大体二万人前後の方が亡くなられたじゃないですか。これはとんでもない数字だなと思います。それで、奇妙な話かもしれないですが、その二万人が亡くなるということへの実感が少しだけ持てたということを通じて、それまでは本当にピンと来ないというか、見当もつかない数字だった先の大戦で亡くなった日本人が約二百万人だという、このとてつもない数字に対しても、「この百倍か……」というかたちで、初めて少しだけ実感が持てて、先の大戦というのは、日本人にとって本当にすさまじい経験だったんだなと震撼したんですよね。そうしたことを意識しつつ、織り交ぜつつ、『うれしい悲鳴』という戯曲を書いていたし、また、次の作品である『月の剥がれる』という戯曲の執筆の動機になったりもしましたね。『うれしい悲鳴』でも皇室の話が少し出てきますが、この日本という国の問題のことが、当時の僕の頭のなかにはあったんだと思います。

─── 興味深い話ですね。「欠席結婚式」にそういう背景があったとは、知りませんでした。

広田  でも、震災ということの捉え方、受け止め方も今は随分変わってきたとも感じます。東北以外の地域に住んでいた若い方たちにとっては、あの震災は小学校低学年とかのときに経験したことだったりするから、悲劇の記憶を強く持っている方は比較的少なくなっている気がするんです。もちろん、関東も結構揺れたし、帰宅困難者も出たりしたから、対岸の火事ということではなかったでしょうけれど。とまれ、震災から十三年が経ち、今回の上演は、過去二回とは違った空気でやることになるのかなと思っています。

─── その吉祥寺シアターでの今回の再々演、演出の方向性はどのようなものになりそうですか?

広田  もちろん初演、再演と比べて舞台美術は変わるから、その部分で変わらざるを得ない部分はあります。だけど、逆に言えばそれ以外で特に演出を大きく変えようという気は無いんです。自分でも初演の演出が結構気に入っているんでしょうね。今回の再々演でも、初演、再演のバージョンへのリスペクトを持って演出をすることになりそうです。

─── 広田さんの戯曲の書き方も演出の方向性もこの十一年で変わってきたところがありますが、今回の『うれしい悲鳴』の再々演は、以前のアマヤドリらしさ、ひょっとこ乱舞らしさを再現するような舞台になるでしょうか。

広田  そうでしょうね。とくに『うれしい悲鳴』のようにたくさん場面転換がある戯曲は、最近は書いてないですから。『牢獄の森』も三つしか場面がない。しかも一つ目と三つ目は同じ空間なので、実質二つの場所しかない。物語の時間も回想をはさまず直線的に進んでいきます。なんでそうなって来ているのかと言ったら、多分、場面転換の多さや時間軸の操作が、脚本としての不備のように思えてきた部分があるんでしょうね、僕個人として。

 映画やドラマといった映像のジャンルでいうと、タイムトラベルものや、マルチバースものというのが増えているじゃないですか。以前、アカデミー作品賞を獲った『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とか。とんでもない場面転換の数の作品でした。或いは近年で言うと、『ブラッシュアップライフ』っていう何度も何度も生まれ変わるという設定のドラマや、『不適切にもほどがある!』というタイムスリップしつつ並行世界を生きるドラマもありましたね。僕としては、ドラマや映画といったメディアの方が、時系列をズタズタに切り刻んで時空間を操作することに関しては得意だと思っていて、それが半端じゃないレベルで進化しているから、演劇でそれをやっても分が悪いなって考えるようになったんです。『エブ・エブ』なんて平行世界の話だったから、場面転換と同時に一瞬ですべての装置と衣装とが全部ガラリと変わるんです。もちろんメイクや小道具、照明などもすべて……。観ていて楽しいんですけど、ああいうことはできないから、むしろ僕は一つの時間軸で見せる方向に最近はなっていますね。

アマヤドリ独自の「会議もの」、──『牢獄の森』

─── では、そのお話からつづけて『牢獄の森』のことをうかがいたいと思います。こちらの方は本当に、『うれしい悲鳴』以降というか、2016年の再演シリーズが終わって以降の、『崩れる』のようなスタティックな空間での会話劇や、イプセンの『野がも』に取り組んで以降の会話をしつつ俳優がダイナミックに動くことへの挑戦、また、『抹消/解除』のような加害者・被害者の関係における加害者の葛藤といったテーマからの連続性があって、近年のアマヤドリの活動の一つの集大成のような作品になっていますね。

広田  たしかにそうですね。ただ、今回の劇は、僕の書いた戯曲のなかでは最も「会議もの」に近い作品だと思うんです、『十二人の怒れる男』のような。これだけの人数がずっと出つづけてずっと議論しつづけるという作品はこれまで無かったと思います。

─── とはいえ、「会議もの」という括りのなかでも、アマヤドリ独自の議論の劇になっていると感じます。

広田  じつは『牢獄の森』のモチーフというか、こういう作品を書きたいなという想いは結構前から抱いていたんです。『ぬれぎぬ』(2014年)を創ったときにすでに構想自体はあったんです。なので、あのときから考えていたことがようやく書けたな、という思いもありますね。

─── なるほど。『ぬれぎぬ』は民営化された刑務所という設定を持っていましたし、また、『牢獄の森』には一つ大きなテーマとして、「産まれてこなかった方がよかった(かもしれない)命」という、反出生主義的なテーマがありますが、それも『ぬれぎぬ』と通底しますね。「なんでこの素晴らしい世界に素晴らしくない僕を産んだんですか」みたいな台詞があったりしたので。

広田  はい。ですから、長いスパンで考えていたテーマが乗っている作品ではあります。まあ、近年自分のプライヴェートで起こった出来事も着想に関わっていたりして、生々しい面を持っている作品でもあるんですが。あと、方法論的には、『崩れる』の創り方を意識的に再現したところもありますね。

─── エチュードから書き起こした部分などですね。でも、それでもなおわれわれの等身大のリアルということとは別の水準でリアリティのある会話劇だなと、自分は『牢獄の森』について思っていて、それは、設定が近未来だからということではなく、単純に、人と議論するにしても、ここまで喧嘩っぽくなりながらもずっと議論を継続できる人っていうのがほとんどいないと思うからです。自分と意見も価値観も性格も合わない人間と延々対話しつづけるストレスに耐えられる人というのが、まずいない。現代の日本人の日常においては。

広田  それは僕という人間が日本人の基準とズレている部分なのかもしれません(笑) よく僕は「なんでこんなにさっさと議論を終わらせるんだろう? 気持ち悪くないのかな?」なんてことを思うんですが、つづけることのストレスの方が大きい人は多いみたいです。だから確かに(『牢獄の森』の登場人物のように)ここまで自分の考えを言語化しつづけることができるっていうのは、通常のリアルからは外れているでしょうね。

─── でも、それはアマヤドリとしては必然だと思うんです。作中人物の言語化能力もそうですが、登場人物に日常そのままの衣装を着せることはしなかったり、テーパのように、具体的な背景が語られないまま奇妙に位置付けられている人物を出したり、リアリズムの会話劇であっても、われわれの等身大のリアルを追求する方向にはいかないというのは、かねてからアマヤドリ独自の作風を特徴づけている。

広田  確かにそうですね。それで言うと、今回も、カジュアルなどこにでもある衣装というふうにはしてないですが、敢えて登場人物を「ヒッピー」っぽいファッションにしています。ヒッピーはちょっと意識しているんですよ。60年代、70年代の。

─── それはどういう意図なのでしょうか?

広田  勘でしかないんだけれど、『牢獄の森』は、リベラル的な考えとどう向き合うかという劇でもあると思うんです。つまり、登場人物たちもかなりの部分リベラル的な考えを演じながら劇中の時間を過ごしているわけですが、そのことを僕なりの知識で敷衍していくと、ヒッピー的なものにたどり着くんじゃないか、という気がしたんです。いわゆる近代的な家族や家父長制的な社会というものを脱却して、現代的な家族共同体を作ったり、それこそフリーセックスや男女平等という理念を追求し、世界をリベラル化した上で社会を再構築していこうという流れの震源に、ヒッピー的なるものがあるんじゃないかと思っているんです。それが現代のポリティカル・コレクトネスとも通底しているんじゃないか、という直感があったんです。

─── 日本でも、ヒッピー文化はパリの五月革命(1968年)を介して、旧来の左翼から区別される新左翼のムーブメントと並行性があり、現代に通ずる左派のマイノリティの権利擁護運動などもそこから派生しているので、広田さんの直感は正しいと思いますね。

広田  そういう意図はありつつ、やはり登場人物は、役者さんへの当て書きで書いています。そもそも冒頭のシーンは細かな設定を定めてのエチュードがベースになっていますから。

 『牢獄の森』は何と言ってもさんなぎさんですよね。一人だけの客演という難しい立場だったと思いますが、非常に頑張ってくれました。いやあ、なかなかああいう俳優さんはいないですよ。仮に『牢獄の森』を再演するとしても、あのプレジャという役をさんなぎさん以上にやれる人を見つけるのは至難の業でしょうね。というか、不可能なんじゃないか。

─── 頭の回転が速い、弁が立つ人という印象ですが、そこも当て書きですか。

広田  ものすごく頭の回転速いですね。でもね、たしかに回転も速いし、語彙力もあるし、論理的に話すのも上手だし、声も大きいし、だから気の強い方なのかと思いきや、案外そんなこともなくて。実際はものすごく相手を気遣う人でもある。だから当て書きとはいえ、実際には劇のなかの役のような方では全然ないんです。ああいう側面も多少ありはするのでしょうけれど。

─── 当て書きということで言えば、星野李奈さんも意外な魅力が出ましたね。

広田  星野さんはようやく根っこの部分が出てきたというかね。僕はもう、彼女をオーディションで採ったときから、ものすごくエネルギッシュな情念を内部に抱えている女優さんだと思っていたし、人に対してリクエストの力を強く出せる方だと思っていたんです。だから今回のフランという役でようやく彼女の魅力が出た、という思いがしています。彼女もおそらく、自分にこんな一面があるなんて! とは感じていないでしょう。むしろ、ようやく本性を出せたかな、というくらいで。大きい役ということもあって稽古の序盤こそ苦しんでいましたけど、いろいろと揉まれて、よくやってくれたなと思います。

 あと、星野さんにはカズ〔堤和悠樹〕くんからの良い影響もあったでしょうね。役柄としてカズくんとカップルのような役でしたが、カズくんは、今回すごく準備万端というか、科白を完璧に入れた上でご自身のなかでこうやってみようああやってみようといういろんなアイディアを持って稽古場にきてくれて、本当にいろんなことを試して、大暴れだったんですね。彼がいろんなことにチャレンジするのを、みんなも面白がって「もっとやれ」みたいな空気ができたので、星野さんとしても、もっとやっていいんだ、私も負けてらんないな、といい刺激になったんじゃないかな。

 あと、〔徳倉〕マドカさんは、出しろの多い役ではないけれども、最後の方で大事な科白を託していて、あれはマドカさんという俳優の持っている説得力というものを借りたところが大きいです。結構大きなひっくり返しになる科白なので。これは、当て書きということとはまた別ですが。

─── 宮川飛鳥さんや徳倉マドカさんの役は、少しシリアスな、作品の世界観自体に直接かかわってくる役ですね。それとの対比で、前半の浮気のごたごたでわちゃわちゃしているシーンもコミカルで面白いですけれども。高力ののらりくらりした感じとか。

広田  あの高力という役は、〔稲垣〕干城さんの佇まいを僕が極限まで曲解して書いた役ですね(笑)。干城さん自身はもちろんあんな人じゃないから、自分で自分の科白を口にしてて「こいつ何なんだよ」って思うっておっしゃってましたけど。干城さんは、本当はいろいろと巻き込まれてしまう側の人だし、いろんなことを真摯に受け止めてしまう人なんですけど、パッと見ると、飄々としていて、「俺には関係ないよ」みたいな態度を取っているように見える時があるんです。そういう瞬間が面白いなって思ってそこを拡張したらああいう役になりました。

 やっぱり当て書きで書かせていただいた分、みんな生き生きしてますね。

─── 深海哲哉さんの六角という役なんかも。

広田  あれも良かったですね。実は深海さんへの当て書きっていうのは初めだったので、どうなるかなって予測できない部分が多かったんですが、エチュードベースだったこともあって、彼にしかできない役になりました。あの人すごいですよね。本当にお茶目というか。僕より歳上だし、なんだったら座組で一番年長なんですけれど、それこそ星野さんにしてもさんなぎさんにしても、一番気安く話しているんじゃないかな。どう扱われても深海さんの方でなんでも許容してくださる度量の広さがあって、ご本人もいじられたりすることをおいしいと思ってやってるんじゃないですかね。頭でっかちではなく、生活実感で生きていてちゃんと存在感があって、僕には足りない部分を深海さんのパーソナリィで補完して出来た役だと思います。

 こう考えてみると、自分は当て書きが好きなんだなァと思いますね。

─── あと、6月のレジデンス制作のこともお聞きしてよいですか。滞在制作という珍しい創作過程だったと思いますが。

広田  シェアハウスのグループとビジネスホテルのグループに別れたんですが、僕はビジネスホテルの側でした。僕は住環境にあんまりこだわらない人間なんですが、やっぱり、僕と一緒だと俳優さんたちがくつろげないだろうと思ってね(笑) でも、それで正解でした。ビジネスホテルって、機能性しかない場所だから、まあ集中しますよね。家にいると、本とかたくさんあったりして、それはそれで良い面もあるんですが、寄り道して帰ってこれなくなっちゃうみたいなこともあるんで。稽古が終わったらバタンと寝て、朝起きたらパソコンに向かってまた舞台のことを考えて……というだけの生活でした。

 言うまでもなく、劇場さんがやってくださったこととしては贅の極みでした。本番でやる劇場でずっと稽古ができて、しかも同サイズの稽古場が、徒歩30メートルの距離にもう一つあって。毎日13時〜22時でずっとねちねちと稽古しつづけることができた。あと、舞台美術として後ろにスロープと階段があったじゃないですか? あの通路の角度自体も現場で実物を使って3パターンぐらい試して決めたんですよ。そういう、普段だったら模型レベルでしか試せないことを現実にやれたっていうことがすごく良かったです。あの環境以上の制作環境なんてありうるんだろうか。自分は蜷川幸雄にでもなったのかってぐらいの贅沢さでした。

─── レジデンス制作だからこその稽古の進め方というのはありましたか。

広田  ありましたね。事前に、6月は通常では考えられないくらい濃密な稽古ができるってことが分かっていたので、5月のあいだは、ちょっとだけ出した台本を稽古するなんてことはまったくしなかったです。とにかく、台本をさっさと完成させて、お芝居はほぼすべて豊橋でつくったようなものですね。そこは割り切りました。実際、豊橋滞在中は本当に充実した時間でした。最後の方ではもう余裕まで出てましたから。「そろそろ本番でいいよ」みたいな。

─── 照明や音響も稽古段階からいろいろ試せたんですか。

広田  そうですね。と言っても、照明は劇中そんなに変化しないですけれども。音響はその場その場で試していただいたことがたくさんありました。

 あと、ちょっと言語化が難しいですが、レジデンス制作の環境のおかげで、人と人との距離がちぢまった。強度のある付き合いができましたね。二十四時間一緒にいたらお互い良いところ悪いところが見えるじゃないですか。それで結果としてみんな仲良くなって、唯一の客演だったさんなぎさんも、劇団で共有している空気感と合わない瞬間も出てくるかなと懸念していたんですが、見事に適応してくださったと思います。

 また機会があればやりたいですが、またやりたいと望んでいいような贅沢じゃなかったこともたしかですね。できればああいった企画が継続して別の団体さんにもその現場を味わってほしいと思います。

─── 最後に、『牢獄の森』を吉祥寺シアターでやるに当たってのお話を、お願いします。

広田  まず、吉祥寺シアターでやることは僕らにとってもとても意義深いことなんです。というのも、コロナ禍の際に我々は一度、吉祥寺シアターでの公演が潰れてしまっていて、それ以来の公演なんです。また、吉祥寺シアターの空間というのはとても個性的なんです。サイズ感と比べて高さと奥行きがかなり大きい劇場なので、それを活かして、豊橋とはまた別の可能性を模索できたらなと考えています。豊橋版から少しだけ台本も変わってますが、大部分は変わらないので、あとは役者さんの仕上がり次第だろうなと思います。

─── ありがとうございました。

アマヤドリ 夏の新旧二本立て本公演

『牢獄の森』

『うれしい悲鳴』

作・演出 広田淳一

2024年 8月17日(土)~8月26日(月)
@吉祥寺シアター

チケット予約はこちらから!