説明会参加者。[主宰・広田淳一/マスコット・雨天くん/参加希望者、新人花子さん]
―――劇団員募集! だそうですが……。
雨天くん(以下、雨天) というわけで、劇団員募集! っちゅうことになったわけですね。
広田 そうです、そうです。
雨天くん まあ、劇団員募集のページに書かれていることを踏まえて、ここでいろいろと聞いていきたいと思います。参加希望者の方もいるし。
参加希望者・新人花子(以下、花子) あ、よろしゅうたのんます。
広田 おや、関西弁?
花子 まあ、はい。そういう設定っちゅうことで。
雨天 えーと、なんでも劇団の体制が大きく変わるということですので、まずはそのあたり聞かせてもらえますか?
広田 基本的には今とそんなに変わるわけじゃないんです。一番大きな変更は俳優が出演したいからと言って必ず出演できるわけじゃない、ということですかね。演出家に出演者を選別する権利が与えられたわけです。
雨天 今まではそれが無かった?
広田 まあ、実際上、少人数芝居をする際にはそういう権限を僕が持っていた、と考えられますが、基本的には出たいと言った劇団員俳優はすべて出演させてきました。例外は無いんじゃないかな……。
花子 はー、そうやったんかあ。
広田 ええ。今現在、実際にこのようなルールで運営しているな、といっていいことを明文化したに過ぎないですね。
花子 ほな、劇団員募集のページにあったようなルール? 文章はは今までも内部には存在してはったんですか?
広田 文言としては、ありませんでした。もっと形式的な約款は一応、あったんですけど、そっちは見たこと無い人もいるんじしゃないかな……。
雨天 じゃあ、実際上は何も成文法みたいなものは無かったわけですね。
広田 そうです。だからこそ、今回、明文化してみたのです。
花子 え、なんでですの?
広田 いや、劇団員募集とかってこういう風な、入ったあとのルールを明確にしていないことが多いじゃないですか? そういうのは不親切だと思ったんです。で、あらぬ誤解を生んでいるな、と。だから、それをあえて明文化した、っていうことが一番の体制の変化だろうな、と思います。
―――現在のアマヤドリについて
雨天 今のアマヤドリ劇団員はああいったルールの下でやっているんですか? 意外としばりがゆるいという印象を受けたんですが……。
広田 いやいや、ゆるそうに見えて厳しい部分では厳しいですよ。だって、「出ると言ったからには出ろ」まあ、これは鉄則ですからね。
花子 でも、逆に言うたら、それさえ守っとったらええ、と?
広田 そうです。あとは継続的なセクハラ行為とか、強盗傷害とか、そういうのは国内法に著しく違反しているのでダメですけど、まあ、それは劇団員として、じゃなくて、日本人としてダメなので……。
花子 そらそうか。
雨天 経験の中で、ああいったルールが明確になっていった、ということなんですかね?
広田 そうですね。それにまあ、約束をはっきり最初に提示しておけば誰が約束を破ったのか、何が約束違反なのかは明確になりますから。心理的にはとてもすっきりしますよね。
雨天 花子さんは、どうですか、この待遇?
新人花子(以下、花子) いやあ、なんか劇団員っちゅうなんとなくのイメージよりは大分フリーダムな感じはしますね。固定給はでないんかい、とかはしんどいですけど……。
広田 そうですね。固定給はありません。だからこそ、自由はすごく大事にしていきたいと思っています。
花子 「この公演は絶対に出なあかんで!」みたいな縛りがあると思ってました。
広田 まあ、劇団結成当初は「本公演は休むな」というルールでしたけど、近頃はめっきりそんなルールはなし崩しになりました(笑)
雨天くん そんなんでやっていけるんですか?
広田 まあ、実際、やっていけているので。やっていけるんじゃないですかね?
―――今後の劇団員について
雨天 制度改革ってものは、なにか目指すことがあって改革していくわけですよね? どんな劇団を目指していくんですか?
広田 よりフリーダムでゆるやかな集団です。スタッフを含めて、創作を中心に据えた活動ができる団体。出たい時には出ることができて、しばらく出ていなくても戻ってこられる場所になれるような団体。そんな感じですかね。
雨天 というと、個人の主体性が結構、求められるわけですか?
広田 そうですね。今までの劇団のイメージがひとつの「会社」みたいなもので、ある種の運命共同体的なものだとしたら、もう少しゆるやかなつながり。会計士みたいな個人事業主が集まって作る「協会」みたいな。まあ、約束したことはちゃんとやる、ていう独立した社会人たるメンバーが、芸術家として活動できる集団ですかね。
花子 え、あんまイメージわかへんのやけど……。
雨天 というより、ここまで自由だと、まあ、ヘンな話、全然出演しないでも所属できてしまうわけですよね? 好きな時に辞められるし。集団として機能するんですかね?
広田 まあ、作ってる作品が面白けばやりたがってくれる人はいるだろう、と。それだけですね。そもそもやりたい人しか入ってくれないでしょうし……。
雨天くん いや、そもそもの話として、だったらプロデュース団体でもいいんじゃないですか? なんのための劇団なんですか?
広田 お、それは議論の核心という感じがしますね。ちょっと本腰入れて話しましょう。
―――なんのための劇団?
広田 なんのために劇団が必要か。ふたつの点で僕は劇団というものの価値を信じているのでやっているんです。
花子 ふたつ?
広田 ひとつは、社会的な存在意義。もうひとつは、参加者個人にとっての参加意義です。
花子 ほうほう?
雨天 まずは、社会的な方から聞いていきましょうか。
広田 はい。要するに、おもしろい作品を作るためには、劇団ていうシステムはまだまだ利用価値があるだろう、という話なんです。継続的に活動していることで、芸術文化振興基金さんとかに助成してもらえたりとか、劇場さんと交渉するにせよ集団としての実績、蓄積というものが信用を生むわけです。実績がプールされる場所としての集団。これにはひとつ価値があるだろうと。
雨天 実際上の問題ですね。それが社会的な意義にもなる、と?
広田 そうです。たとえば公共の劇場との関係性の中で高齢者や未成年と関わるという事業があったとして、集団としての信頼関係が無いと危なっかしくて誰も仕事を依頼できないでしょう? 公共劇場が信頼するに値するような劇団がある、ていうことが日本の社会にとっても有益だと思うんです。だって、日本の劇場はたいていは自前の劇団をもっているわけじゃないですからね。実演家は劇場の外部の人を呼ぶしか無い。実績のある個人、でもいいんですが、集団として、団体としてそういう窓口があることは社会にとっても有益だといっていいと思うんです。
―――おもしろい作品のために
花子 おもしろい作品のために劇団が必要、ってお話をもう少し聞きたいんやけど、どうですかね?
広田 「芸術原理で動ける集団としての劇団の価値」って話ですね。
雨天 ああ、以前にそんなような事をtwitterで書いてましたね。
広田 そうです、そうです。これからの劇団というものはある程度、社会的なインフラになりうると思うんですよ。なってかなきゃいけないというか……。少なくとも演技にまつわる芸術を作る上で劇団の果たしてきた役割、果たしていける役割は大きいんじゃないかと。
雨天 劇団、という形にこだわるのはなぜですか?
広田 まあ、極論、劇団じゃなくてもいいんですけどね。
花子 え、そうなん?
広田 でも、今は劇団にしか果たせない機能があると感じているんです。劇場が劇団を抱えるようなシステムがあったらもっといいのかもしれないですけど、現実的には日本にはそういうカンパニーはごくわずかしかない。じゃあ、あとは芸能事務所と制作会社でいいのか、というと、そうじゃないだろう、と。確かに舞台芸術も映画も「人気商売」に違いないんですけど、人気だけで芸術性をはかるっていうんじゃ、あんまりいい結果にはならないよ、と。それはみんなわかってきているんじゃないですかね。
雨天 いわゆる商業作品の中にも芸術性が高いものは十分あると思いますけどね。
広田 僕もそう思います。商業的な成功と芸術性を両立している公演はたくさんある。ただ、舞台芸術は集団で作るものだ、という原則に僕はこだわっているんですよ。集団の中に蓄積されていく情報が無ければ、やっぱり強い文化とか、芸術ってものは生まれていかないんじゃないかな、と。
雨天 どうして劇団という形式が高い芸術性を担保できると言えるんですか? 劇団の作るものすごくつまらない作品っていっぱいあるじゃないですか?
広田 雨天くん結構言うよねー。
雨天 いいから答えろよ。
花子 まあ、まあ。
広田 はい。それは残念ながらその通り、なわけです……。必ずしも劇団がおもしろいものを作るわけじゃない。ものすごくつまらないものも沢山ある。でも、実際の創作の際にはやっぱり共通言語の蓄積があった方が、圧倒的に効率がいいですよ。話が早い、ってことですね。
花子 なるほどね。
広田 社会的な側面から言えば、老舗の劇団も、新興劇団も、いろいろな団体が出てこられる場所、環境があった方がいい、と言うことです。会社だったら、伝統ある大手企業と、ベンチャーと、両方あって切磋琢磨して、競争原理で磨かれることで強い企業が生き残っていくでしょう? 芸術分野にもいろんな団体が生まれていく余地があって、そういう団体が自由競争における淘汰を受けられる、つまりは、自由市場が必要だと思っているです。
雨天 うーん。あるんじゃないですか? 今も。自由市場。
広田 あります。だからそれを守っていきたい。……という思いと、今後もずっとあるとは限らないぞ、という危機感と両方僕にはあるんですよね。小劇場演劇なんて商店街みたいなものですから、巨大資本のスーパーとかコンビニなんかが来て、商店街を駆逐してしまうようなことがおきはじめているよね、という現状認識です。でね、いろんな人に商店街を支える意識をもってもらえないものかな、と思っているんです。
雨天 あれ、なんだかまた社会的意義の話に戻ってしまっているような……。
花子 それな。
―――個人にとっての劇団の意義。
花子 そしたら方向性をちょっと変えて……。参加する人間にとって、劇団てどう役に立つんですか?
広田 まあ、まずは単純に先輩がいる、っていうのは大きいよね。
花子 うっとおしい、とも言えると思うんやけど……。
広田 まあ、それも含めて、ですね。演技に関しても、笑いに関しても、僕は技術論的な部分が非常に大きいと考えていますので、そういった技術にまつわる情報。それを蓄積している場所として劇団は有効だろうと思っています。蓄積された情報を伝達する場所としての劇団、ですね。
花子 確かにまあ、いろいろと教えてもらえるのはありがたいような気もしますね。
広田 でしょ? また別の視点から言えば、人間が人間になるためには集団が必要だぞ、ってことですかね。
花子 え、え、どうゆうこと? 人間が人間になるために?
広田 まあ、大人になるために、と言い換えてもいいんですが……。実際、地域コミュニティという「社会」を失いつつある都市の人間にとっては、その気になれば個人としてのみ生きていくことがある程度、可能なわけでしょう? フリーターみたいな社会的立場の人はなおさらそうで。だから、社会に至る入口としての集団が必要なんじゃないか、って言ってるんです。
花子 うーん、社会に至る入口……?
広田 それじゃ、俳優目線で話をすればですね、たとえば俳優が会社員を演じるとか、学校の先生を演じるとか、そういう社会的な人間を演じることは多いわけじゃないですか? あるいは母親とか、祖父、という役を演じると考えてもいい。でね、思うんですけど、そういう役を演じるためには経験が必要なんです。
花子 まあ、そらそうかなあ。
広田 組織には組織にしかない力があって、面倒くささがあって、葛藤があって、苦しみも喜びもある。そういうことを俳優は個人として経験しておく必要があると思うんです。だって、一回も会社勤めしたこと無い人間が社長を演じる、とかね。教員免許もっていない人が先生を演じる、とかね。そういう無理を想像力で補ってやるのが俳優というものでしょう? だからこそ、想像するための素材としてある種の集団に所属して、集団の中で喜んだり、苦しんだりする、そういう経験がものすごく財産になる、と僕は思うわけですよ。
花子 そんなん、個人で事務所に入ってても味わえるやん?
広田 そうです。その通り。
花子 ええ?
広田 別に劇団じゃなくてもいいんです。だけど、集団と関わる場を持とうよ、と。まあ、俳優を例にとって言えば、たとえば大きな事務所に入ってしまったら、その会社を経営する、運営する、発展させる、なんていう形で、主体的に集団に関われる人はほんの一握りなわけです。別に悪い意味ではなく当然のことですが、たいていはその会社の扱う「商品」として俳優は存在しているわけです。
花子 まあ、そういう部分もあるやろね。
広田 それで悪いとはいいません。会社は儲けなきゃ潰れるんだから当たり前です。それに、とても人間的なつながりで形成されている芸能事務所も多いでしょう。ただね、特に都市部ではそうですが、こういう少子高齢化の時代ですからね。演技に携わっている人も、簡単に子供を作れない人が多いでしょう? 本当に集団と関わる経験を持てていますか? ということを僕は問いたいわけです。で、そういう経験なくして人として本当に大人になれますか? っていう話なんですよ。
雨天 自分も独身なのによく言いますね。
広田 いやさ、だからこそ、ね。割と気ままに生きていけることは良くわかっていますから。でも、「消費者」であることと「社会人」であることは全然違うと思うんです。「社会と関わること」って舞台芸術にとってもすごく大切なわけですが、それって具体的に言えば「個人と個人の関わりを越えて、集団のメンバーとして、他の集団の構成員と関わる」っていうことじゃないですか? 先生だって、会社員だって、医者だって、個人として自由に行動できないところでこそ葛藤しているわけじゃないですか?
花子 まあ、そうかもなあ。
広田 だから、集団に主体的に関わることで演じられる役の幅が絶対に広がると僕は思うんです。アルバイトとしてのみ企業に関わり、家族を持たず、子供を育てず、個人として生活しているだけで、組織人が演じられますか? と。政治家の役や、中間管理職の役が演じられますか? と。自分にとってありがたくもあり、厄介でもある、そういう、ある種のうっとうしいものとしての集団。それとの関わりを通じてしか、人間は大人になれないんじゃないか、と僕はそう思うわけですね。
花子 劇団がそれを補う存在になるかどうかは関わり方次第だと思いますけどね……。
雨天 まったくその通りですね。ただ、今の話は現代人の抱える「個人」の問題といってもいいのかもしれませんね。明治以降の日本人が抱えてきた問題意識とも通底するような……。
広田 では、あえてちょっとそういう小難しい話をしてみましょうか。いったん。
花子 ええー。
―――ややこしい話
広田 「人間は誰もひとりでは生きていけない」なんて言葉がありますが、僕の問題意識はむしろ「かなりひとりでも生きていけるような感じになってきちゃったよね、世の中?」ということですね。哲学者のコジェーヴが「動物化」という概念で語り、哲学者のハンナ・アレントが『人間の条件』で提示した問題意識でもあるわけですが、えーと、まあ、ここでネグリさんとか、ハートさんの名前を出して「マルチチュード」なんて言葉を持ち出してもいいんですが、あるいはマルクスの疎外という概念は、とか言ってもいいんですが……。
雨天 まあ、知ったかぶりはそのぐらいにしておきましょう。
広田 ですね。だから、あくまで僕なりの理解で要約しますけど、現代人、とりわけ都市部の人間は地域のつながり、コミュニティというものを失って、巨大企業のもとで消費者として(動物化して)生きていくしか無いんじゃないか? という問題意識があるわけです。それを僕は、不安に思っているわけです。
雨天 消費者であること、は、なぜいけないんです?
広田 いけないとは言っていません。僕だって、誰だって、消費者です。たとえば、「Googleが某国の検閲の前に屈したなんてけしかしらん話だ」と思っても、Googleのサービスに依存して今日も検索をかけるし、仕事を進める。そうするしかない。
雨天 まあ、その方が楽ですからね……。
広田 この「楽だ」という感覚にはそう簡単にはさからえません。僕らは「大手コンビニチェーンはフランチャイズ経営者を搾取している!」なんていったところで、ついついコンビニでおにぎりを買っちゃう。便利だし。だけど一方で、僕らは消費者としてだけ、そういう形でのみ、その場所で歓迎されているわけですよ。消費者にしかなれない時代だからこそ、僕らには「大切なお客様」以上の存在になれる場所、集団、そういったものが必要だと思うんです。消費者マインドを越えて、自分たちで集団を組織できる力を持つこと。そういった能力が演技メディアの人間にとってはすごく大切だと思うんです。だって、舞台も映画もドラマも、個人では作れないわけですから。
花子 でもまあ、言うて、うちらは国民やし、市民やん? え、そういう意味では集団の一員ちゃうん?
広田 そうです。だけど、まあ、国家の一員として、とか、コスモポリタンとして、なんて、ちょっと現実感の薄い話じゃありませんか? それよりも小さくて、実感のある集団との関わりが経験を生む、と僕は思うんです。
雨天 ええと、やや無理矢理ですが、それをさっきの話とつなげれば、商業的なフィールドでは俳優は「商品」にしかなれない、ということですかね?
広田 そういう側面もある、という話です。舞台作品を芸術としてではなく、純粋に商売として考えれば、俳優の価値は「どんだけお客さんを呼べるか?」ということに尽きるわけです。うまくても客を呼べない俳優と、下手でも客を呼べる俳優と、どっちが興行的に重要かは言うまでもありません。で、別にそれは悪いことではない。
雨天 うーん?
花子 悪いこと、と言いたそうやん。
広田 それはそれで良い。でも、それだけじゃイヤよね、って話です。マイナー主義をやろうっていうわけじゃありません。どう売れるか、これはものすごく重要です。でも、売れることだけが大切ではない。両方大事だよね、ってみんなが考えている中で、その二者択一を迫られた場合、芸術性を選択する集団と、興行的価値を選択する集団と、両方があって初めてバランス取れるよね、といってるんです。
雨天 まあ、大体、そこにそんなに明確な一線はひけませんもんね。シス・カンパニーさんが興行的成功だけを考えているとは到底思えませんし。
広田 動員増ばっかり考えてる小劇場劇団だってあるわけです。そうなんですよ。
花子 でもあれやんな、アマヤドリにいつつ、事務所にも入ってええんやろ?
広田 事務所さんが許してくだされば、うちが否定することはありません。で、事務所の仕事が大忙しになったから、という理由で劇団を辞めたって構わない。
花子 あ、そうなん?
広田 事務所との関わりが俳優という個人を育てることだって大いにある。そういった機能を否定するつもりは全くありません。僕自身も含め、うちの劇団員だって何人も事務所に所属させてもらっているわけですからね。
花子 ああ、そうなんや。
広田 僕は興行的な成功を大切にする演劇創作のシステムがあることは大切だと思っている。一方で、芸術的な判断を興行的なそれよりも優先できる、劇団という制度を大切だと思っている。それは矛盾することじゃない。サブシステムとしての劇団制が無いと業界全体として機能不全なんじゃないか、ということです。商業的なシステムだけでは何かが足りなくなるぞ、と、そういう問題意識なんです。
―――入団にあたって。
花子 まあ、劇団というものを大事にしてはんのやなー、てことはわかりました。
広田 どうもありがとう。
花子 けどまあ、それがアマヤドリじゃなきゃいけない理由にはならんやんな?
広田 そりゃそうです。だからまあ、うちのやっていることが好きな人が入ればいいんじゃないかな、と。
花子 え、ちょっとヘンなたとえかもわからんけど、劇団に入るっちゅうのは、なんや、結婚する、みたいな話やと思っとったんやけど……。だから大変そうやなあ、って。
広田 そんな大袈裟に考えなくてもいいですけどね。まあ、長くいたかったら長くいてもいいし、卒業したかったら卒業してもいい。
花子 でも入ったら大変そうやなあ。しがらみとか。
広田 しがらみが無い、なんてことはいいませんよ。そんなに僕は自分では感じませんけど、そりゃあ、フリーで活動している人に比べたらめちゃくちゃあるんでしょう。でも、まあ、ね。若いうちに積極的にしがらんどけよ、と。そういうことを僕は言ってるわけですから。
花子 しがらんどくって……。
広田 まあ、ともかく、そんなに重い気持ちで考えなくていいんじゃないの、ということですね。入って一年とかで辞めたいなーと思ったら辞められるように、俳優さんは最初は「準劇団員」て扱いになるわけですし。
雨天 あ、あの制度はそういう意味なんですか?
広田 お互い、傷が浅く済むように(笑) 18年劇団をやってきて、「こいつは絶対辞めない!」とか、そんな幻想はとっくに打ち砕かれましたからね。ある意味で、そういうことはとっくに諦めた。
雨天 だけどなお、劇団は必要だ、と?
広田 はい。劇団じゃなきゃできないことがありますから。もちろん、一方でうちを辞めてしまった俳優でもスタッフでも、とても成功している人もいるわけです。別に辞めちゃダメだよ、とかそんなこと言うつもりはない。でも、システムとして小劇場の劇団がある、っていうことは僕にとってはまだ価値があると信じられるんです。それが信じられる限りは、僕は何回劇団員が全員いっぺんに辞めようとも劇団を続けるんじゃないですかね。まあ、ちょっと泣くと思いますけど(笑)
雨天くん さっきから話を聞いていると、「別にアマヤドリじゃなくてもいいから、どっか劇団入れ」ということを言ってるようにも聞こえますね?
広田 はい。そう言っています。ちゃんとした大人になりたいなら何らかの集団に主体的に関われ、と。いろいろ検討して、アマヤドリが合ってるんじゃないか、いいんじゃないか、と思えた人はぜひ来てください。一緒に作品を作りましょう。で、いったん入ってみて「アカンな」と思ったら辞めたらいいんじゃないですか? 止める権利なんてありませんし、それで必ずしも関係が悪くなるってことじゃありません。あ、ホラ、昔うちにいた田中美甫ちゃんなんて、今はCHAiroiPLINのメンバーとして頑張っているわけでしょう? で、そのあとでうちの公演に客演してもらったりもしてる。
花子 あー、そういうこともあんねや。
雨天 まるで揉めてしまった人たちがいなかったかのような締めのトークで。
広田 そりゃ揉める時もありますけどね(笑)
雨天 ええ、ええ、広田の人格の破綻は否定しようもないですからね……。
広田 強く生きていきます……。というわけで、人間的な問題はさておき、アマヤドリと創作がしたいって方はぜひ来てやってください! 仲良しクラブ作ろうってんじゃありませんから。仕事をしましょう!
花子 ほんならあたしは慎重に検討させてもらいますー。
広田 わあ、入らなそうなコメントだあ。
雨天 お後がよろしいようで……。