◆◆◆ロングラン公演としての『ぬれぎぬ』◆◆◆

 

広田淳一がとことん語り尽くすロング・インタヴュー! 『ぬれぎぬ』のことはもちろん今後のアマヤドリのことなど、色々突っ込んで聞いてみました。収録日4月4日・全四回。

 

(※記事内容に若干の『ぬれぎぬ』のネタバレを含みます)

 

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───まずは、小劇場演劇としては珍しいロングラン公演としての『ぬれぎぬ』についてお聞きしていきたいと思います。今回、シアター風姿花伝でのロングランが決まってから、『ぬれぎぬ』という作品を構想する際に、そのことはどの程度考慮に入れたのでしょうか。たとえば劇団員のみのキャスト構成、ダンス・群舞などの身体表現は使わない、簡素な舞台美術、といった要素は、ロングラン公演をやるということからの制約によって決まっていった要素なのでしょうか?

 

 

広田:うーん、ロングランは正直そんなに意識はしていないですね。ただ、舞台美術に関してはどういう作品構想であっても簡素にはしたと思いますが。今回は一ヵ月ロングランという企画に予算を突っ込んだから、逆に美術はいつもより簡素にしてやろうかと。こういう企画の場合、ほんとにお客さんが見たいのは豪華な美術じゃないだろうし、舞台美術で本格的に「凄いな」って思わせるためにはやっぱそれなりに金掛けなきゃならないから、中途半端に金掛けるくらいなら、全然掛けない方がいいかなと。それよりも俳優の演技、作品の強度っていうところで勝負してやろうかと。

 

 

───でもそれは俳優の実力を信じていないとできないですね。

 

 

広田:そう。だから今回は俳優にとってはハードルの高い公演だね。

 

 

───どの方も見事にこなしてらっしゃると思います。まだまだ良くなるとも思いますが。

 

 

広田:うん、まだまだですよ。感想で「上手いな」って言ってくださったりしてありがたいのだけれど、僕ら的にはまだまだなんだなってことを凄く実感しています。まだまだ上はあるよね。一ヵ月のロングラン、非常にやりがいのある時間になりそうです。

 

 

───あとは、今回劇団員のみのキャスト構成ということも、ロングラン公演という条件からの一つの帰結なのでしょうか?

 

 

広田:それも多少はあるかもしれない。今回劇団員のみでやることは、作品構想の上で凄く意識したけれども、そのことを決めたのはもう半年前くらいの劇団会議でのことで、……普段僕らの公演は客演を含めてやることが多いんだけれど、それに、とくに古参の劇団員にはちょっとしたフラストレーションがあって、今回は劇団員のみで行こうということに決めた。

 

 

───フラストレーション?

 

 

広田:やっぱり一つの劇団として積み上げてきたもの、培ってきたものがあって、それをそのつど伝えていかなければならないから、客演の人に。古参の劇団員としては、それを伝えるコスト抜きで、或る程度言葉が通じる人たちと作品創作に専念したいという想いは前々からあって、それで、今回は劇団員のみでやろうって話になった。

 

 

───それを聞いて思うのは、その、古参の劇団員の方々のあいだで共有されている、培ってきたもの、共通言語のようなものとは、一体何なのかってことです。今作『ぬれぎぬ』では、演出として群舞やダンスなどの身体表現は禁欲していますが、その上で『ぬれぎぬ』という作品にどういった形でアマヤドリの共通言語が表われているんでしょうか。

 

 

広田:それは、うーん、……まず共有してるものは何かって話で言えば、まあ色々あるんだけれど、たとえば「全員で動く」っていう方法論〔※ひょっとこ乱舞時代から存続する、複数の身体のあいだで共時的リアクションを生み出すための方法論〕だったり、ダンス作る時の決まった手順だったり、そういうものだったりもするんだけれど、……さらに言えば、演技に関する共通認識、っていうのがある。「それはやらなくていいことだよね」とか「それをやらなくちゃしょうがないじゃん」っていうような。あとは、どこまで演出家が指示を出してどこまで俳優がアイディアを出すかっていうラインの見極めとか。やっぱり、それって現場によって全然違うと思うんです。このくらいは俳優が考えなきゃいけないとか、これはちゃんと指示を聞かなきゃいけないとか、共演者とはこうやって関わるべきだ、みたいなことでも、積み上げてきた複雑な共通認識っていうのはあるよね、アマヤドリの中で。

 

 

───そういう共通認識があるところに、客演の方が大勢入ると、一からレクチャーをしなければならないのが大変だということでしょうか。

 

 

広田:まあ、そういうこと。大抵の場合「広田の言ってることはよく分からん」っていう人も出てくるから、やっぱりその説明をやらなきゃいけないっていうことで、劇団員に負担が掛かってしまう。その部分の共通認識は基盤にして、もう今回は作品創作に専念しようということです。

 

 

───なるほど。なら、アマヤドリの共通認識を前提としたからって、必ずノンバーバルな表現手法が入るというわけではなく、今回みたいに純粋な会話劇が出来たりすることもあるわけですね。

 

 

 

 

◆◆◆広田淳一の会話劇◆◆◆

 

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広田:いやーでも『ぬれぎぬ』がこんなにがっつり会話劇になるなんて、みんな思ってなかったよねー。

 

 

───私も思ってませんでした。

 

 

広田:なんだろう、戯曲が思ったよりちゃんと出来たっていうことが大きかったのかもしれない。……いつもだったらもっと、ポエムのシーンがあったりとか、このシーンとこのシーンのあいだは描かれていないから身体表現で余白を埋める必要があるとか、そういう芝居が多かったんだけれど、わりと『ぬれぎぬ』は書かれているものだけで過不足ない作品になったんだろうな、と思ってはいる。

 

 

───ただ、『ぬれぎぬ』について思うのは、広田さんの作家性からくることなのかもしれないですが、やはり場面転換が多いですよね。会話劇を書くにしても、一幕ものを書いたりする志向は広田さんの中にはないのでしょうか?

 

 

広田:ああ……、場面転換が多いのは、わざとやっているところもある。……たとえば電話での会話とか、「あいつと電話しようぜ」ってだけで必要な登場人物をこの場所にどうやって登場させるかという必然性の考慮を省いてしまえるので、一幕もので登場人物の出し入れに苦心するのに比べれば、或る意味凄くイージーになる。イージーにはなるんだけど、あえてそういうのを増やしているところはある。

 

 

───あえてそういうのを増やすことに、深い動機みたいなものはあるんでしょうか。

 

 

広田:それこそ現代に生きてることのアドバンテージだと思ってるのかもしれない。まあ、たとえばチェーホフが生きた時代には携帯電話とかeメールとかなかったわけで、それに対して現代では、言語による他人のコミュニケーションの可能性を考えるとそういったものがひどく重要になっている──メインな手段の一つと言ってもいいほどに。もしかしたらメールで告白する人もいるかもしれないし、恋人との別れの時に携帯電話でっていうことも全然珍しいことではないし、極端な話だと、結婚に至るまでネットのコミュニケーションだけだったりっていうケースもある、つまり、今の我々のコミュニケーションの形ってテクノロジーに依存した形を現に取っている。だから、それを劇の中で避けて行く方がむしろ不自然だと思うんだ。最初の頃、最初の頃っつってももう十年以上やっているからかなり前だけれど、その頃には携帯電話を出すのは嫌だった、イージーになるっていうのが自分でも分かっていたし、逃げだなと思っていたから、出さないようにしてたんだけれど、たぶん『トラビシャ』っていう作品あたりから、現代的なコミュニケーションの問題を意識するようになった。それは今回の『ぬれぎぬ』でも結構意図的です。

 

 

───でも場面転換が多いっていうことは、一幕もののように一つの時空間に色んな要素を重層的に配置するのではなくて、出来事の連鎖によって表現したいことを線的に配置することになるわけですが、それは、現代的なコミュニケーションの問題とはまた別に、そういうふうに物語を展開しがちな作家の生理みたいなものが広田さんの中にあるということではないでしょうか? とくに『月の剥がれる』の前半とか、ほとんど出来事の連続によって語ってしまっているので、あまり演劇っぽくないと感じるんです。どちらかと言うと小説的と感じる。

 

 

広田:いやー、それはたぶん、詰め込みたがりなんだろうね僕が。

 

 

───一幕ものにしてしまうと、たしかに必要な情報がどの人物から出るかっていうことに凄く気を遣わなくちゃならないですけど……、今回の『ぬれぎぬ』でも、最初の方で向井と村田が物語の設定を掛け合いで説明してしまったりする、そうやって語りの位相を増やしてでも情報を詰め込む、っていうことを、どうしてもやりたくなってしまうんでしょうか、広田さんは。

 

 

広田:そうそう。なんかねーそれは性分なんですよね。あとはそう、落語みたいなものへの憧れもあるかもしれない。……でも語りの位相を増やすのは、一時期封印しようかなと思って、封印した公演もあります。あんまり語ってしまうとそこで簡単になってしまうから。だからそれを禁じ手にしようと思って禁じ手にした公演もあるんだけれど、『ぬれぎぬ』では制限なしに使っている。もちろん最初の方で向井が語っている設定情報を、有島と門田のやりとりで示すこともできるんだけれど、それだとあまりに長くなるから、向井の語りに分解するということをあえてやっている。なんか、そうした方がいいと思ったんだな。平田オリザさんなんかは、対話への情報の組み込み方が非常に上手だから、説明される必然性がある中でその場所がどういうところであるか、その人物がどういう人間であるかを示していってると思うんだけれど、……僕の場合はなんというか、せっかち、っていうところもあるんでしょうね。

 

 

───でも、そうやって語りの視点を入れてまで言葉の密度を高めることと、広田さんの演出の手管であるノンバーバルな身体表現がどこでどう繋がっているのか、結構謎なんですけど。

 

 

広田:ほんとだよねー。それらはなんかバラバラなまま自分の中では存在している。ただ、今回の『ぬれぎぬ』は全然ダンスないし、言葉の方に思いっきり寄った作品ではあるけれど、これをいかに身体を使ってやっていけるかっていうことを考えていかなきゃならないんだな。と思ってるんだなやっぱり。

 

 

───身体を使っていく?

 

 

広田:ラジオドラマをやっているわけではないから、今回がいかに会話を中心に据えた戯曲だったとしても、そこに身体は付いてくる。それをどう表現するか。『ぬれぎぬ』という戯曲をどういう舞台芸術にするかは何千通りも選択肢がある中で、今回の上演で自分が具現化する形には、やはり身体が重要になってくるだろうなって。そのことはもっともっと考えつつこの一ヵ月はやっていかなきゃならないと思う。……とかなんとか言ってるうちにすぐ終わっちゃうのかもしれないけどね。一ヵ月って言っても一ヵ月弱だから。

 

 

 

◆◆◆構想段階の時の『ぬれぎぬ』◆◆◆

 

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───先程、情報を詰め込みたがるのは自分がせっかちだから、と広田さんはいっていましたが、そもそも、詰め込むためには詰め込めるだけの膨大な何かが必要なわけです。そこで広田さんの場合は、とくに『うれしい悲鳴』『月の剥がれる』、今回の『ぬれぎぬ』もそうですが、なんだろう、SFというほどではないんだけれども、物語世界の設定に少し我々の現実からズレた思弁的な工夫を入れるので、説明しなきゃならない情報が増える、ということがありますよね。そういった設定を創り出すっていうことも含めて広田さんの作家性だとして、その設定の着想こそが広田さんにとっては戯曲を書く際の最初のきっかけになるのでしょうか。

 

 

広田:なるなる。

 

 

───『うれしい悲鳴』だったら「泳ぐ魚」、『月の剥がれる』だったら「サンゲ」、『ぬれぎぬ』だったら「リタバリアン行政特区」、それらは、現実に起きた(起きている)何かをそのままなぞって社会派戯曲に仕立てるというような発想とは無関係に、現実に捻りを入れた上で物語に取り入れられたもので、しかも露骨なテーマ性に繋がっていくということがない。物語のディティールに関わってくるものではあるけれども、物語のリアリティの根幹には位置づけられていない。こういう作品設定を広田さんがどこから得るのか、非常に不思議なんです。……構想段階ではどういう情報収集をしたりしているんでしょうか?───たとえば参考文献(※戯曲の末尾に参考文献リストが付いている)に挙がっている森村進さんの『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)、こういった本を手に取った経緯というのはどんな感じなのでしょう。

 

 

広田:何なんでしょうね?

 

 

───今回は「悪と自由」三部作の第一弾という副題もあるわけですけれども。

 

 

広田:「悪と自由」の三部作を言い出したのは、あれはちょっと、業界的な事情もあって。いやこれはでも、全然プラスに捉えていることなんですけれど。演劇人は十月~十一月に文化庁に来年度(四月~三月)どういう公演を打つかの計画を出して、助成の申請を提出しなきゃいけないんですよ。そこまでに来年度の計画を一度決めなきゃならないのよ。そこで三本企画を立てた時に、まあ毎年悩むことなんですが、2014年度はその三本が一つながりのものになるのかなーって予感が自分の中にあったので、「悪と自由」三部作ということで企画書を書いたんです。……でもどうなんだろうね、今、作品設定についての質問をいただいたけれど。

 

 

───ええ、それは「悪と自由」三部作に限らず『うれしい悲鳴』といった作品についても言えることですが。あのような不思議な設定を着想の時点で出しているのは、どういう思考を経てのものなのか。

 

 

広田:意外とランダムですよ。……自分はあまり小説を読まなくなったていうところがあって、それよりも新書だったり、思想系の本を読んだりする方がインスピレーションを得られやすいというのはある。小説っていうのはもう或る種の結果だから、そこからの影響で自分の作品を書こうということにはならないんだけれど、新書や思想書は、現在の世の中はこうなってるよ、とか、こんな考え方もありますよ、といったことがあれこれ書かれているところから、「なるほどねー、じゃそういう視点から物語を作ったらどうなるんだ?」と、その本に書かれていないことを想像しながら読めるので。

 

 

───その本に書かれていないことを想像しながら読む?

 

 

広田:そうそう。新書や思想書には物語は書かれていないわけだから、勝手に色々想像できる。たとえば『月の剥がれる』の「サンゲ」にしても、あれは浅羽さん〔※浅羽通明氏。1959年生まれ。評論家〕の本に由来している。なんかイラク戦争があった時に浅羽さんは凄く危機感を持ったらしくて、イラクに自衛隊派遣が決まった時に、文学者たちはやいのやいの言っているけれど、結局それが世間的にも政府に対しても完全に黙殺されていてなんの力もないじゃないか、ということを浅羽さんは問題視して、……なんだっけ、浅羽さんが言っていたのは、派遣された自衛隊が一人死ぬごとにこっちもロシアン・ルーレット的に一人死のうじゃないか、それぐらいやらないと反戦運動足り得ないということだったと思うんだけれど、「サンゲ」はそれをちょっと改変して、一人殺したらこちらも死ぬ、という平和運動の団体として設定した。着想の元はそういうところにあったんです。それは、イラク戦争の時の文章だから随分前のものなんだけれど、たぶんそれを読んで以来、どこか頭の中に残ってたんでしょうね。『月の剥がれる』の入口自体はもうちょっと別のところにあったんですが、「そういえば浅羽さんこんなこと言ってたなー」と思って本を読み返したりして。いやほんと、何がスタート地点になるか分からないですね。

 

 

───では、今作『ぬれぎぬ』では何が出発点だったんでしょうか。

 

 

広田:何だったんでしょうね? なんだろう? 考えてみると、うーん、まあ、昨年末に『アクアリウム』〔※劇団DULL-COLORED POP本公演第13回作品。広田はゲスト出演者=俳優として参加〕に出させてもらったのも大きかったし……プライヴェートでもこの半年のあいだに大きな事件があってそれが一番大きいわけなんだけど……あと、リバタリアニズムには結構前から興味を持ってました。笠井潔さんの『国家民営化論』を読んだりっていう経験があって。

 

 

───はい。

 

 

広田:いや、それよりもたぶん、僕がどっちかというと保守寄りの考え方を持っているからでしょうけれど、以前からリベラル左派の言論人の発言の頼りなさっていうのに、逆に凄い危機感を持っているんですね。昨今、日本国内で間違った愛国心の暴走みたいなことが大衆的に起こり始めているところに、きちんと論理的かつ倫理的に歯止めを掛けられるリベラルな、しっかりした言説が見当たらなくて、非常にバランスが悪いなと感じている。で、共産主義的な考え方はこれからはもう力を持っていかないだろうから、もっと違う思想、たとえば「自由」ということを中心の理念に据えた思想──リバタリアニズム──をリベラルな政治姿勢として打ち出していかないと、ポピュリズムないし国家主義的なものと対抗し得ないんじゃないかと思っているんですよね。

 

 

───その問題意識はよく分かります。さっき触れた森村進さんの新書でも、リベラル左派の立場は、経済的自由への規制を肯定する点で権威主義的な政治体制と通底する点がなくはないから、ファシズムや全体主義と絶対的に相容れない立場はリバタリアンだけだ、という説明が冒頭にありますね。……まあでも、こういう政治の話は『ぬれぎぬ』の内容そのものとは関係なくて、要は、広田さんがリバタリアニズムに興味を持ったのが政治的関心に由来するということにすぎず、その出発点から『ぬれぎぬ』みたいな物語として完成度の高い作品が生まれてくるプロセスが、やっぱり、よく分からなくて、不思議に思いますが。

 

 

広田:いやー、あの今回は、これは半分はったりみたいなものになるかもしれないけれど、……実は、『ぬれぎぬ』は三部作の第二作を書いているつもりなんだよね。

 

 

───第二作?

 

 

広田:そう。『ぬれぎぬ』ではもうリバタリアンの特区がある、っていう設定になっている。それを前提にして物語が書かれている。でもほんとは、時間軸的に言うと、物語の中の年表では、我々の現実と完全に地続きの社会からリバタリアン特区が築き上げられていくっていう段階がその前にあるはずで、実は、9月の劇団本公演ではそれを書こうと思ってるんだよね。それは登場人物がたくさん出てくる群像劇になる気がするから、劇団員だけでやる話じゃないなと思って、今回のシアター風姿花伝での公演では、つまり『ぬれぎぬ』で描かれた物語では、その特区が出来上がった後にそこでどんなことが起こるかっていうのをミクロな事件としてやることにした。物凄く小さな出来事として。……いやだから、実はちゃんと三部作として構想はしているんですよ一応。

 

 

───では、第一作ではリバタリアン特区が出来て、第二作ではそこで起こるミクロな事件が描かれて、……第三作目では、どうなるんでしょうか?

 

 

広田:ちょっと大風呂敷になるけれど、なんかアジアの人たちと、それこそ韓国人、台湾人、中国人を視野に入れて、アジアがどうなるかっていう話をしようかなって思っていて。三部作だから約一年後ですけど、一年後にはそういう作品をやっているんじゃないかっていう予感を持っています。いや、勝手に妄想を広げてるだけだけど。

 

 

───いやー、相当難しそうなモティーフに思えます。

 

 

広田:まあ、実際やったら大苦戦だろうけれどね! 言うだけはタダだから。

 

 

 

(つづく)

 

 

今後の予定

 

【広田淳一ロング・インタビュー2/4 『ぬれぎぬ』の登場人物について】

 

【広田淳一ロング・インタビュー3/4 劇団員募集!これからのアマヤドリ】

 

【広田淳一ロング・インタビュー4/4 戯曲『ぬれぎぬ』の固有性】(※ネタバレ全開)