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広田淳一、語る。#extra

 

連続企画、広田淳一の語り下ろしインタビューの番外編です。2016年9月に再演された『月の剥がれる』の公演パンフレットに掲載されていたインタヴューを、ここに再掲いたします。広田さんの演出家としての考え方などが垣間見られる充実したインタヴューとなっています。
(収録日:2016年9月某日)
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#StayAtHomeAndStaySafe
#稽古休みなアマヤドリ
 

 

 

 

『月の剥がれる』の出発点

 

  ───今年二〇一六年に結成から十五年目を迎えるアマヤドリは、「汚れちまったアマヤドリと、十五年分の後悔」と銘打って、過去作の再演に取り組んでいます。先の四月〜五月の『ロクな死にかた』につづいて、第二弾は、かつて二〇一三年三月に「アマヤドリ」の旗揚げ公演として座・高円寺1で上演された『月の剥がれる』の、約三年振りの再演です。今回はこの『月の剥がれる』の再演について、とくに作品の創作過程に深入りしつつお話をうかがっていきたいと思っています。

 まずは『月の剥がれる』の初演時の話から始めさせていただきます。『月の剥がれる』の初演があった二〇一三年の前年の二〇一二年には、アマヤドリの前身「ひょっとこ乱舞」の最終公演、そして国内ツアー公演『幸せはいつも小さくて東京はそれよりも大きい』、アマヤドリの「第0回公演」と称した『フリル』の上演がありました。それらの前段階を経て、いよいよ二〇一三年にはアマヤドリの旗揚げ公演をするというところから初演の『月の剥がれる』は出発していると思うのですが、当時のことは覚えておられるでしょうか。

 

広田 『フリル』は、少人数でやった小さな作品で、わりと現実感のない世界観の話だったんです。だから次は、もう少し具体的でしっかりと起承転結があって結論が出る作品を書きたいと考えていました。それに、『フリル』はほとんど登場人物が女性ばかりだったので、次は男の話を書きたいという希望もあったんでしょうね。

 今回の再演にあたって『月の剥がれる』初演の構想段階の頃に自分は何を考えていたんだろうと振り返ってもみたんですが……もう最初期に考えていたことというのは、影も形も二回ぐらいなくなっているんですよね(笑) 全然違うことを考えてましたね、最初は。想い出してみると、初めの方で「学校」がメインの物語を書こうとしてた時期があるんですよ。怒りの感情を無くした学校という設定で冒頭から終わりまで書くつもりだった。

 

  ───すると、『月の剥がれる』の学校パートのモティーフはその時期からのもので、今のかたちの『月の剥がれる』の学校パートの設定が複雑になっているのも、その名残りでしょうか。謎の転校生とか。

 

広田 そうですね。学校まわりの話は早い段階からあった。逆に言うと、チベットの焼身自殺者のこととかは書いている最中に構想に上がって来たことなんでしょうね。構想段階ですごく影響を受けたのは北田暁大氏〔一九七一年生まれ。社会学者〕の『嗤う日本の「ナショナリズム」』という本かな。あの本の内容っていうのは或る種の日本人論になっていて、戦後の日本人が六〇年代〜八〇年代〜二〇〇〇年代を通じてどういう責任の取り方をしてきたか、何を責任と考えて来たかということがサブテーマとして論じられていたと思うんですが、もちろんメインのテーマとしてのナショナリズムについても、ナショナリズムに対して日本人が戦後どういう距離を取って来たのかということを、「嗤う」「嗤わない」「ネタ」「ベタ」といったタームで分析する視点を提示していて、それはすごく面白いなと思ったんです。実際『月の剥がれる』の登場人物の科白でも「ネタ」だ、「ベタ」だ、という言葉が出て来ますし、『嗤う日本の「ナショナリズム」』は最初の頃にモティーフへの重要な刺激になっていたんでしょうね。

 

  ───政治的な戯曲を書く上でということでしょうか?

 

広田 『嗤う日本の「ナショナリズム」』には連合赤軍の話が途中で出て来るんです。ああいう政治的な集団においてはとくにそうですが、複数の人間が集団になって何かやろうとする時に、当初目的としていたこととは全然違う方向に事態が転がっていってしまうというのは、よくあることだと思うんです。それで一人一人がそういう事態に翻弄される様を書いてみようと思った。以前にも、『銀髪』という作品で当初の目的を喪失していく集団というのを書いてみたことはあるんですよ。あれはベンチャービジネスの話だったんですが、最初はこんな会社を作りたいな・こんなビジネスをやりたいなと考えていて、それを全員で共有できていると思っていたはずなのに、意外と一人一人が考えていることは違っていて、状況が進んでいくにつれてそのズレが露わになっていって、「こんなはずじゃなかったのに……」と最後にはみんなの妥協の産物でしかないものが残る、というね。そういった特定の集団のなかで不可避的に何かが変質していってしまう様を『月の剥がれる』でも書いてみたいと思ったんです。

 

 

───その特定の集団というのが、『月の剥がれる』では「サンゲ」という政治集団になるわけですね。

 

広田 そうです。とくに「サンゲ」は男女混合の集団なので、余計集団としてやっていくうちに当初の目論見から逸れていくということが起こり易いんじゃないかと思う。

 

  ───? それは、男女混合の集団とそうでない集団とで、どういう違いが出て来るんでしょうか。

 

広田 まあ僕が深くコミットしてきたコミュニティーというのは、自分の家族なり、学校なり、部活動なり、劇団なりでしかないので、その範囲での観察になるのですが……。男ばっかりの集団っていうのはやはり「男社会」になりますよね。それは必ずしも性別によるものではなくて、女性だけで構成された男性的な社会というのもあると思いますが、ともかく、「男社会」はヒエラルキーがはっきりする。そして全体としてのトータリティ、組織として一つのものだという感覚は男だけの集団の方が強いように思います。あまり落伍者を出さないように動きますしね。それは、演劇の一つの座組のなかでの男性の俳優陣というくくりでも当てはまることかもしれない。男性の俳優陣のなかでは往々にしてなんとなく序列みたいなものが出来るんですよ。それは儒教的な年齢の序列に加えて、実力や経験なども考慮しつつ、あのひとは先輩、あのひとは後輩、あのひとは兄貴、あのひとは弟分、みたいな位置づけがなされる。それによって「後輩いじり」みたいな円滑なコミュニケーションが生まれたりもするわけです。

 

  ───それが、集団に女性が入ると変わってくるのでしょうか。

 

広田 女性では、あからさまに上下関係を示すっていうことをしない人が多い気がします。まあダンスを指導している時の笠井〔里美〕とかはちょっと開き直って上に立つ役割を担ったりするけど、でもなかなかそういう人はいないですね。みんな上下関係をつくろうとしないので、フラットな関係がつくられ易い。僕が考える男社会を男社会たらしめているものっていうのは一つのトータルなヒエラルキーのなかに全員が位置づけられているってことだから、女性が入ってある程度その序列が崩れるっていうのは、やはり男社会とは違う、フラットな関係性の集団になるってことだろうと思います。

 

  ───なるほど。そういう男女混合の組織だからこそ、「サンゲ」もトータルで動く、一人のリーダーを中心にして目標に向かって直線的に動くような集団ではない、ということですかね。

 

広田 そうかもしれない。まあ、そんなにはっきりとは割りきれませんが……。初演でも、一人のリーダーが仕切るような集団ではないということを意識しつつ「サンゲ」を描いていました。一見、羽田という人物が黒幕のようにも見えますけど、資金を出している目蓮にもかなり発言権があって、だけど実は表向きのリーダーとしては太地、ないしは浩二がいて、さらに思想的なルーツとしてはまた別の赤羽という青年がいる。そういうふうに非常に中心が捉えにくい組織として「サンゲ」を描こうというのは、かなり意図的にやりました。なんだろう……『銀髪』もそうですけど、大人数の芝居を書こうとすると、必然的に集団論とか組織論にならざるを得ないのかもしれないですね。

 

【公開戯曲】『月の剥がれる』完全版
https://bit.ly/3e5IIwS

 

 

 

再演のキャスティング

 

  ───初演の時も、『月の剥がれる』を大人数でやろうということは最初から企画されていたんでしょうか。

 

広田 ええ、そうです。旗揚げだし、まあ、ドカーンと大きくやろうと思ってたのかもね。

 

  ───それで、今回の再演にあたっては初演のメンバーをそのままキャスティングしようと試みたけれど……なかなか上手くいかなかったと聞いていますが。

 

広田 そうなんですよ! まあ、そのこだわりはかなり早い段階で諦めざるを得ませんでした。キャスティングの声掛けは一年以上前にすでに始めていて、その初期の段階で、もう何人かは早くも駄目だったんですよ。それでその考えは諦めて、キャスティングはゼロから考え直しました。初演時より今は大分、劇団員も増えてますし、結果的にはそれで良かったんだと思う。

 

  ───初演と同じひとを呼ぼうというのは、初演時と同じ役をやってもらうという前提で声を掛けているんだと思いますが、その考えを諦めて、あらためて配役のことは抜きで一緒にやりたいひとを集めたという感じでしょうか。

 

広田 そうですねえ……。ほっさん〔細谷貴宏〕とかサトピン〔谷畑聡〕とかはある程度何の役をやってもらうかを想定しつつ呼んでいますけどね。あ、あとは初演と同じ役をやってもらう〔鳴海〕由莉ちゃんと田中〔美甫〕と……。ああ、それと毛利〔悟巳〕ちゃん。一人美少女が欲しかったんですよ(笑) 彼女のやるあの田所美耶という転校生の役は恋の告白をされる役だから、ある種の容姿端麗さがあると加筆もし易いな、と。

 

  ───では、それ以外の配役は稽古をしながら決めていこうということだったろうと思います。実際、わたしが早い時期の稽古で見ていたのと比べると、今は結構変わっていますよね。

 

広田 いやー、いまだに決めてきっていないんです。とくにソラという役と、阿南寧々という役。ソラと寧々は、完全に初演の時のコロとももちゃん〔百花亜希〕の個性で書いてしまった役だから、あの二人以外がやってもなかなかピンと来ない。まあ寧々の方は再演にあたって結構書き換えていて、それでまた違って来るところもあるんでしょうけど、ソラは……。難しいですよね。キャストも全員刷新されているわけではないし、〔笠井〕里美とか、〔小角〕まやとか、〔渡邉〕圭介とか、初演とまったく同じ役をやっているひともいるから、そこで固定されている部分があるだけに、変わった部分の初演との差が測り易くもなってしまっているんです。ソラと寧々は、いまだに悩んでいますね。ただもう今の配役で一応変えないだろうなとは思っています〔この時点の稽古では、ソラ:榊菜津美、寧々:石井葉月=相葉るか〕。

 

  ───初演時の当て書きということで言うと、羽田という役はまさに小菅紘史さんへの当て書きだったと思うのですが、それが倉田大輔さんに変わった難しさというのはあったでしょうか。

 

広田 大分苦戦はしましたけど……。小菅って、ちょっと普通じゃないんですよ(笑) 見た目もちょっと変わっているけど、考え方とかも僕には理解できないようなところがあって。だから僕が彼に当て書きする時も、このひとと僕とには共通する部分があるな、似ているな、という感覚は起点になっていなくて、自分からの距離が遠いところで書いているんです。だけど倉田くんって、もちろん彼と僕との違いっていうのも大分あるとは思うんですけど、何をどう考えているかとか、僕からすれば全然理解できるんですよ。だから彼が羽田を演じる上でのイメージの違いはあると思う。でも一方で、倉田くんってすごく能力も高いし、実力もある俳優なんだけれど、絶対に自分は中心に立たないぞっていうスタンスのひとなんですよね。つねに外野から全体を見ているような感じで、それが『月の剥がれる』の登場人物のなかでもちょっと変なスタンスにいる羽田という役を、彼なりに演じる手掛かりになるんじゃないかと思います。

 

  ───倉田さん演じる羽田は、初演にあったアクの強さがかなりマイルドになっていると感じました。

 

広田 小菅がやっている羽田は、なんかもっと訳が分からなかったからね(笑) 何考えてんだこいつ? みたいな。小菅は背が高いし、スキンヘッドだし、肉体の存在感が倉田くんとは全然違う。羽田と目蓮が赤羽を追いつめるシーンとかは全然印象が変わりましたね。初演で赤羽をやった小沢道成くんは華奢で、そんなに背も高くないので、それが大原〔研二〕さんと小菅っていう巨漢の二人に囲まれてやいのやいの言われている状態、そこで赤羽が圧力を掛けられている状態っていうのは絵的に分かり易かったんですけど、倉田くん自身が結構華奢ですからね。そういう意味では全然変わりましたよね。

 

  ───あとは、正蔵役を誰にするかというのも迷いどころだったでしょうか。

 

広田 正蔵役を迷ったというか、〔西川〕康太郎くんをどこに置くかを迷ったんだよね。最初は康太郎くんに正蔵をやってもらおうかと思ったんだけれど、ちょっと違うな、となって。結果、康太郎くんには浩二をやってもらうことにした。うん。これで良かったと思う。

 

  ───それと、宮崎雄真さん演じる太地もかなり面白いですね。斬新で。

 

広田 雄真さんはなんか変な演技体になってますね(笑) 最初は普通に太地という役をストレートにやっていたんですけど、太地自体が少し書き換わっていて、初演時みたいにアーティストとして鳴かず飛ばずという設定ではなく、わりとある程度名がある存在っていうことになって、自分をデモンストレーションするのが得意だという要素が入ったと思うんです。それで今は自分をアピールすることに長けたキャラクターとして演じてもらっているんですが、それがハマって面白い感じになっていますね。あれは雄真さんならではのものでしょうね。他のひとにはなかなかああいうことはできないだろうと思います。

 

『月の剥がれる』出演者 ショートインタヴュー
http://amayadori.co.jp/tsukihagaint

 

 

 

演出(美術/衣裳)について

 

  ───次に、『月の剥がれる』再演の新演出について話をうかがっていきたいです。それは、新演出のプランについてだけでなく、広田さんの演出という仕事全体を視野に入れつつ語っていただけると面白いかなと思っています。

 

広田 うーん。演出家っていうのも実にさまざまなタイプの演出家がいると思うんですよ。極端な話をすれば、俳優以外のところから作っていくのか、俳優から作っていくのかで二分できるかもしれない。それで、すごく壮大な美術やすごく大掛かりな仕掛けということから入っていくひともいると思うんですが、僕はやっぱり俳優からしか入っていけないし、俳優から出てもいかないと言っても過言ではないかもしれないですね。だから俳優さんということと……あとは舞台の空間、ということをすごく考えている。それは自分の演出家としての個性なんだろうと思います。

 

  ───例えば広田さんが戯曲を冒頭から書いていかずに、ばらばらに書いたものを最後の最後で組み合わせて完成させているというのは、演出の上でも、同時並行で部分部分を作っていってそれらを最後に組み合わせるという方法論とリンクしていると思います。それは、広田さんとアマヤドリに独自の創作過程ではないか。

 

広田 謎の作り方をしているよね(笑)

 

  ───『悪い冗談』〔二〇一五年三月@東京芸術劇場シアターイースト〕では何に使うかも分からないまま稽古場でけんけんぱの練習をしていたという話を聞いてますけど。あと、やはり『悪い冗談』で、門田という人物がずっとあの橋の下の空間にいて舞台に出ずっぱりになるというのは、美術を決めた段階ではっきりしていたことなんでしょうか?

 

広田 そう……そうなんだろうねえ(笑) まさに結果としてああいうふうに利用されるべき美術になっているわけだからね。それは決めていたんだろうねえ……。

 

  ───そのあたりは本当にわたしには想像も付かない作り方をしていると感じます。再演版『ロクな死にかた』〔二〇一六年四月@シアター風姿花伝〕でも、ゲネを観るまでは全然どんな演出になるか分からなかったですし。わたしが最後に稽古場に行った時には、あの可動式の椅子か机みたいな小道具って、何も無かったですよね。

 

広田 そうだったっけ? あはは。あの再演版『ロクな死にかた』は、良い意味で僕の演出家としての手腕みたいなのがすべて出た公演だったと言えるんでしょうね。だって、前半のスタジオ空洞でやった時って、オペこそ演助さんに任せたけれど、照明や音響のプランはほとんど僕が立てたんですよ。照明のシュート作業とかも大体僕がしているし。美術のアイディアも考えて、あの小道具とかも全部スケッチを描いて舞台監督に「こういうのを作ってくれ」って渡してるんですよね。あの時はもうほんとに何からなにまでDIYというか、作品自体を小さく作ったから、ほとんど自分の頭のなかどおりの演出になってますね。……そう、後半のシアター風姿花伝の上演からは照明に三浦さんが入ってくれたんだけれど、僕が考えていた以上にスタジオ空洞の照明のニュアンスを残してくれていて、まあ美術が同じだからそうなるのは必然でもあるんだけど、でもかなり『ロクな死にかた』の公演全体を通して、ほんと自分の想像どおりにやったなという実感があります。

 

  ───再演版『ロクな死にかた』、舞台の空間の使い方で言えば、下手の奥にポールが一本立っているのが印象的でしたけれど。

 

広田 あれも自分でざっくり決めて。あれは脚本に合わせて何かに見立てるというより、スタジオ空洞ってビルを支える柱が一本上手前にあるんですよ。だから、あれだけだとバランスが悪いからもう一本柱が必要だな……と思った……んだろうね。なんとなく。

 

  ───(笑)

 

広田 勘だよね完全に(笑) ……そうそう、再演版『ロクな死にかた』の演出のことで一つ言い忘れちゃいけないのは、衣裳に矢野〔裕子〕さんが入ってくれたことですね。あれは大きかった。矢野さんとはずいぶん長い付き合いですけど、仕事をするのは結構久しぶりで、でもコミュニケーションは上手く取れたかなと思っています。今回の『月の剥がれる』再演でも、矢野さんの方からどうしてもやりたいと言ってくれて、衣裳に入ってもらっています。

 

  ───『月の剥がれる』初演も衣裳は矢野さんですよね。矢野さんの衣裳のプランというのも、アマヤドリの特色の一つになっているように感じます。

 

広田 そうですね。矢野さんとやるときは、かなりお任せにしている部分があると思います。矢野さんと僕とでは目の違いっていうのがあるんでしょう。僕は結構はっきりした色合いが好きなんだけれど、矢野さんは淡い色使いが好きで、だから、再演版の『ロクな死にかた』の衣裳、白・ベージュを基調として薄いピンクを合わせていくなんていうのは、非常に矢野さんっぽい発想でしたよね。今回の『月の剥がれる』の再演も衣裳は矢野さんの色合いになるんじゃないかなあ。

 

  ───分かりました。では、また舞台美術の話に戻って、今回の『月の剥がれる』再演版の美術について語っていただけるでしょうか。一応わたしも模型は見ました。

 

広田 今回の舞台美術は、わりと打ち合わせの回数を重ねて、僕もかなり意見を出してああいうかたちになったんですけど……そうですね……昨日も照明さんから「あれは何なの?」って言われました。「檻なの? 広田くん」って言われて。

 

  ───(笑)

 

広田 「いや、檻ってわけじゃないんですけどねー」って答えましたけどね。自分としては、なんか区切られた空間から出て来る・飛び出すという要素、或いは二つに区切られた空間を突き抜けていくみたいなことが必要だろうと考えていて、ああいうふうになっているんです。

 あと、これは今後稽古していくなかでどうなっていくか分からないですけど、田中さんがやるイノリ、という役がありますよね。あの役は初演の時にはちょくちょく舞台に出て来る役、学校パートともサンゲパートともまた別の次元で存在していてほしいというオーダーを出していた役だったんですが、あの彼女の存在は、今回でも学校パート、サンゲパート両方にまたがってちょくちょく舞台上に出て来ることになると思う。で、今回は初演の時よりも取り組みに余裕があるので、どういうふうに出て行くかなということを、田中さんも色々と考えてくれているみたいで。それも、空間が二つに区切られているとやり易いだろうなと思うところはある。

 さらに言うと、『月の剥がれる』の物語構造として、学校パートの世界、サンゲパートの世界があって、学校パートの方にサンゲパートが内包されているということになっていますよね。学校の授業のなかでサンゲの物語が語られるという構成になっている。でも、そのわりには学校パートの生徒たちが出て来る時間が短いので、なんだかいい具合に、要所要所でサンゲパートのシーンを生徒たちがどう見ているかが提示されてもいいのかなと思っています。それも、空間が二つに区切られているのや、奥をどう使うか、という話ですね。

 ……そうだ、舞台装置ということだと、もう一個のパーツについても言わなきゃならないですね。今回、椅子だか机だかよく分からない丸いものをたくさん用意しているんです。あれをどう使うかっていうと……いや、そもそも僕は美術と作品が強烈につながっている必要っていうのをそこまで感じていないのかもしれないな。いつも僕は、「特定の劇」のための美術を用意するっていうよりも、美術は美術としてただ存在していて、それをどう利用して俳優が過ごすか、ということを考えているのだと思う。だからその利用し易さみたいなことを、物語とは別の軸で追求していっているところがあるのかな。たぶん、あの机とも椅子ともなるような物体っていうのは、レゴブロックみたいに、持ち運びもできるし、積み上げることもできるし、俳優たちが演技していくなかで舞台空間を自由にクリエイトして行けるものになっている。あの小道具は、そのための良いアイディアを提供してくれそうだなと期待しています。

 

  ───その使い方を、これから稽古のなかで演出を付けていくということでしょうか。

 

広田 そうですね。でも、俳優さんに考えてもらう部分が大きいと思う。もちろん僕がアイディアを出すこともあるけど、実際にものを使って俳優たちが動いた方が良いアイディアが出て来ると思うので、そこは好きにやってくれって感じで、遊ばせる。稽古時間はまだまだ余裕がありますし、それはほんとうに色んなことが試せればいいなと思っています。

 

【舞台写真】『月の剥がれる』2016年9月23日(金)~10月3日(月)
http://amayadori.co.jp/archives/8556
http://amayadori.co.jp/archives/8660

 

 

 

戯曲について

 

  ───四月〜五月の『ロクな死にかた』の再演においては、戯曲のリライトは、初演版から少しだけ短くなって微調整にとどまったという印象でしたが、今回の『月の剥がれる』は、すでに多くのシーンが大元から書き換えられていますね。

 

広田 『ロクな死にかた』は、前半の完成度が高いと初演から思っていたんです。ただ、その展開の仕方や落とし方がすこし気に入らなかったので、再演ではそのあたりを微調整して完成に向かいました。『月』の初演はあちこち散らかってましたからね。再演で埋めなきゃならない部分が沢山あると感じていたんです。『月』の初演の時には、なんというか……極端な言い方をすると、感想で「綺麗でした」みたいなことばっかり言われてしまったんですね。しかし、テーマとしてこれだけのものを扱っているのに、感想がそればかりになるというのは……なんだかやはり届かせるべきことが届いていなかったんだな、と思わざるを得なかった。それは素直に悔しい思いだったんです。だから再演版はしっかり書き直した。ここまでのリライトで、ようやく前半についてはちゃんと書けたかなという気がしています。省みるに、初演の前半部分というのは物語にかなり飛躍が多かったんだろうと思う。太地が死ぬまでの流れが何がなんだか分からないまま進んでしまって、それが腑に落ちないお客さんには、後半も何がなんだか分からないものに受け取られてしまったんだと思う。その、太地がどうなっていくかという流れを書き換えて、ようやく再演としての手応えが出て来たところです。

 それで今感じているのは、前半の終わりまでに感じている達成感に、後半がまだ追い付けていないんじゃないかということですね。後半も、前半と同じだけの長さはありながら、まだ密度で前半に拮抗できていないきらいがある。学校パートの部分はまだまだ書き換えられる余地があるかなと感じる。でも、全体としてこのお芝居がお客さんにどういうふうに受け止められるのか、今回どういう感想を持っていただけるのか、それは本当に楽しみですね。

 

  ───長さは現状のボリュームを維持することになりそうですか。

 

広田 二時間半超えますかね。でも、これを二時間以内で見せようと思ったら、少なくとも数千字カットしなきゃならないでしょう? 作品の密度からしてそれは必要ないと思っている。そこは、勝負ですね。今回、小さくまとまった作品を作っているつもりはないから、コンパクトに見せるっていう発想ではなくて、この長さに見合った楽しさ・面白さがあればいいのだと思う。

 本番はいい状態で迎えられそうですね。ダンスはすでに一旦かたちになってますし、そんなに準備不足っていうところはありません。劇場空間でこれがどんなふうな作品として最終的に立ち上がるのか、僕自身とても楽しみにしています。

 

公演終了後動画『月の剥がれる』
http://amayadori.co.jp/archives/8790

 

(聞き手:稲富裕介)

 

 


 

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