広田淳一インタビュー【2024年3月公演『人形の家』「激論版」「疾走版」に向けて】前編

2024年3月の『人形の家』公演に向けて、稽古もまだ始まっていない2023年12月中旬、主宰、作・演出の広田淳一に考えていること、思い描いていることを語ってもらいました。

広田淳一近影(稽古初日に撮影)

「なぜイプセン作品に繰り返し挑むのか」

――アマヤドリでは2014年春に『ヘッダ・ガーブレル』、同年冬に『海の夫人』と連続してイプセン作品の上演を行い、少し空いて2018年秋に『野がも』を上演、そして今回2024年3月に『人形の家』を二つのバージョンの上演台本、演出で上演する、という流れなのですが、まずはじめに、なぜイプセン作品に繰り返し挑むのかを聞かせてください。

広田 もう、これはシンプルに好きなんですよ、イプセンが。やっぱり圧倒的に戯曲がうまいので、とにかく何度読んでも面白い。うまいなんてお前どの立場で言うてんねん、って話なんですけど、ひとつにはとにかく好きだ、という思いがあるんです。そして、自分が演出をやっていく上で日本の演劇のスタンダードの無さっていうことに苦しんできたので、共通見解というか、みんなこれは抑えておこうね、みたいなものを積み上げたいという気持ちがありました。

どうも日本の演劇界は、「それぞれの演出家がそれぞれ独自の理論を持っているのが当然」という、悪しき相対主義みたいなものにハマってしまっている部分があると感じていて、俳優も演出家もやっぱり混乱しちゃっていると思うんです。だから、シェイクスピアとか、イプセンというのは、やっぱりみんなが押さえておいていいものなんじゃないか、そういう共通感覚を作ろうじゃないか、という気持ちがあってイプセン、繰り返しやっていますね。

もちろん現代の芸術分野で「スタンダード」を確立するなんて、やや倒錯した話だということは承知しているつもりです。元来、芸術にとっては、いかに前例を越えた、常識から逸脱した作品を作れるかが大切にされてきたわけですから。ただ、ぶっ壊すならぶっ壊すで基盤があるとこから壊さないと。更地にブルドーザー持ち込んだって何も壊せやしないんじゃないか? って思いがあるんです。

あとは、自分の性分に合っているんでしょうね、イプセンが。例えばケラさんはチェーホフとか好きじゃないですか? 僭越な話ですが、とても合ってらっしゃると思うんですよね。僕も憧れてチェーホフに挑戦してみようかな、という目線で読んでみたりもしたんですが、まあ、絶望的に肌に合わない(笑) 『かもめ』はまだしもいいとして、やっぱり『三人姉妹』なんていうのはナンセンスを面白がる感覚というか、軽みを掴むセンスが無いとやれないと思うんですよ。多分、ブルー&スカイさんみたいな人がやったら面白いんじゃないですかね? なにしろ、自分にはあんまりそういうセンスがあるとは思えなくて。

僕はどうしたって意味のあるものを積み上げていくタイプだから、勝手にイプセンとは肌が合う気がしているんです。とんでもなく緻密に組まれているけれど、掘り下げていけば取っ掛かりが掴めるというか。そういう意味では、アーサー・ミラーとか、テネシー・ウィリアムズなんかも好きで、いつかやりたいなと思っている作家ではあるんですけど、でも、テネシーはまた闇、というか、病み、というかね。とても、深い方なので(笑)

――今のお話ですと、イプセンを「好き」というのは、ドラマとしてしっかり構築されていて好きだ、ということになるんですかね?

広田 んー、それもあると思います。イプセンの戯曲は機械時計じゃないですけど、とんでもない精巧さで組み上がっていると思うんです。観ている人がハラハラドキドキ楽しい、伏線がそこら中に張り巡らされている、という意味でも良くできているし、上演する側として観ると、一つとして捨て役、捨て台詞が無い。これは『人形の家』に限った話ではないですが、本当に、全くと言っていいほど人数合わせみたいな役が無くて。これは、とんでもないことですよ。

イプセンは結構、年喰ってから比較的贅沢な環境で後半の作品群を書いているそうなので、たとえばシェイクスピアみたいな、上演しながら次々と書いていったような人とは違う、徹底した緻密さ、贅沢さがあるような気がするんです。演じる側としてそれは、何度やっても汲み尽くせないような豊かさに繋がるな、と感じているんです。

――なるほど、噛めば噛むほど、ということですかね。言い換えれば、それは劇団の主宰として、強度のある戯曲に取り組むことで、集団にとっても豊かな経験になるんじゃないか、ということですか?

広田 そうですね。主宰としても、演出家としても。まあ、せっかくなので主宰としてもうちょっと言えば、とにかく観に来てもらえる古典をやりたい、という思いがあるんです。なかなか小劇場の劇団が古典をやるとお客さんに観に来ていただけないな、という感覚がありまして……。やはり古典と言えば新劇のような伝統のある団体か、あるいは海外の演出家さんを呼んですごく大きなクリエーションでやる、というイメージになってしまっていると思うんです。でも、本当かな、って。

実は何年も前の段階で一度、『人形の家』をやるという企画があったんです。当然、イプセン作品で最も有名なのは『人形の家』ですしね。むしろ今まであえてそれを避けてきた。というのも、最初にいきなり『人形の家』をやるってなっちゃうと、タイトル負けしちゃってたと思うんです。やっぱり日本での上演歴では『人形の家』が一番多いでしょうから、観ている人の中にもこの作品についての知識だったり、印象だったり、ある程度、上演に対する情報の蓄積があると思うんですね。それを更新するようなものを作ろう、って志を立てた時に、イプセンに取り組む最初の一本がこれだと、なかなかそういった強度にはならなかったんじゃないかな、と。今、こうして何本かイプセン作品に取り組んだあとで自分たちなりに多少は方法論、――というほど大層なものじゃないですけど、糸口みたいなものは掴めている気がするので、いよいよ挑むタイミングが来たな、と。そんな気持ちですね。はい。

――伺っていると案外、イプセンに対しては戦略的に向き合っている感じがしますね。イプセンに対する執着というか、ある種のフェティシズムみたいなものを演出家としての広田さんが持っていた、というわけではないんですか?

広田 いや、もちろん好きなんですよ。うん、好きなんですけど……。でも、確かにフェチとか執着とか、そういう思い入れの強さが上演の根拠になっているわけではないんだと思います。元来、僕はそんなに人の作品に対して鑑賞する側の人間として猛烈に好きになる才能が無いんですよね。

これはあの、映画にまつわる格言みたいので、「いろんな映画見てるやつが映画監督になるわけじゃない。一つの映画を十回も二十回も見ちゃうようなやつが監督になるんだよ」というのがありまして……。僕は全然そういうことをしない、というか出来ないんですよね。繰り返し繰り返しひとつの作品を観たなんて、浪人生時代の時に観ていたエヴァンゲリオンTV版ぐらいじゃないか……。演出家でも、一人の作家さんにものすごく入れ込む方って居ると思うんです。寺山さんの作品しかやらない、とかね。僕はそういうタイプの演出家では無いんですけど、それでも、自分なりには大分、イプセンの作品に拘っているな、特別に好きなんだろうな、って思いがありますね。山田太一さんか、イプセンか、みたいな気分ですよ。

――そうでしたか。ところで、さらに前提の話になってしまうんですが、先程、古典はなかなかお客さんが入らないという話がありました。だとすると、どうして古典に挑み続けるんでしょうか?

広田 うーん。難しいところなんですけどね……。小劇場の団体がちゃんと面白い古典を上演する、っていう流れを作りたいんです。僕らみたいなタイプの、作家が演出家を兼ねていて基本的にはオリジナル戯曲をやり続ける、っていう団体が定期的に古典をやってしかも面白い、って、なかなかレアなケースなんじゃないかと思うんです。なので、そういう流れを作りたい。

それがね、ちょっと逆説的な言い方ですけど、オリジナル戯曲をやり続けていくために必要だと思っているんです。どういうことかと言いますと、たとえば自分たちの稽古場で座付き作家の言葉ばっかりに取り組んでいるとするじゃないですか? そうすると、それが一つの基準になってしまう。まあ、こんなもんか、というね。そんな環境に、突然イプセン作品みたいな、とんでもない強度の戯曲、言葉を放り込むと、おお、戯曲ってこんな可能性もあるのか、俳優が台詞を読むだけでこれだけのものが立ち上がってくるのか、って驚きがあると思うんです。それによって強制的に稽古場で求められる水準、レベルが何段も上がるというかね。俳優も演出家も、どうしたって天才の戯曲と付き合う必要が出てくるんで基準を上げざるを得なくなるんです。やっぱり現場にいるクリエイターはみんな、身が引き締まりますよね。次の公演で作家がダメな作品を書いてきたらみんなアレ? ってなりますから。そういう経験は大変だけど、重要だなと。

 

「疾走版」稽古初日風景

 「過去の上演を振り返ってみて、どうだったか」

――アマヤドリでは過去に『ヘッダ・ガーブレル』『海の夫人』『野がも』と上演を重ねています。それらの公演を振り返ってみると、どんな体験、どんな経験だったんでしょうか?

広田 いやあ、お恥ずかしながら、暗中模索って感じでしたね。本当に少しづつわかってきたというか……。『ヘッダ・ガーブレル』と『海の夫人』は今にして思うと正直、すごく迷いながらやってたんです。演出も、俳優も。とにかく戯曲を読んでみて面白い、という感覚は当初からあったんですが、では、それをどうやって立ち上げたら面白くなるんだろう? って部分とか、我々がやる意味はなんだ、オリジナリティのある上演になっているのか!? みたいな観点で言うととても自信が無かった。だからそれをずっと探っていたなと思います。

『ヘッダ』と『海の夫人』は、会話劇とは別の身体の運用方法、ルールを決めて上演しました。具体的には、徹底して目線を合わさない、とか。正面を向いて喋る、とか、そういう様式的なことを決めて、フィジカルの強度を追求して作ったんです。結果としては、まあ、ある程度の手応えはあったんですけど、ものすごくうまくいった感覚もなかった。きちんと演出方針を決めていたんで確かに首尾一貫したプランにはなったんですけど、それに必然性があるのかっていうと、怪しかったんですよね。それで『野がも』の時には結構ガラッと変えて、グッとシンプルな形にしてストレートな会話劇としてやったんです。王道のアプローチといいますか、ちゃんと戯曲について俳優間で話し合って、ひたすら会話劇としての強度を追求したんです。

この変化がなぜ起きたかと言えば、もう、正直に白状してしまいますと『海の夫人』と『野がも』の上演の間に、僕、ナショナル・シアターライブで、イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ヘッダ・ガブラー』を見ているんですよ。あれ、僕ね、結構、十年に一度レベルの衝撃を受けまして……。なんか、観終わった後しばらく喋れませんでしたもん。まさに言葉もないというか、あまりのレベルの差に愕然としてしまって、もうあらゆる意味でね。――具体的には、俳優、テキレジ(テキストレジの略:台本の台詞の追加や削除などをすること。 または、それらを台本に記入すること)の巧みさもそうですし、そういった演出チームの教養の深さ、俳優のパワー、そしてそれを邪魔しない極度に洗練されたスタッフワーク。いや、もう、すさまじいなと思って。まるで次元が違う、今まで自分たちがやってきたことはなんだったんだ、というぐらいの思いがあって……。

その『ヘッダ』の上演から食らった衝撃というのはとても大きかったんですけど、でも、前向きな発見でもあったんです。技術論的に言えば、ああ、会話劇でこんだけ動けるんだな、とか、装置がなくて、身体だけで会話劇を見せても、こんなにパワフルに、ダイナミックに見せれるんだな、ってことを感じましてね。そして、あれ? これって案外、自分たちにとってはかなり得意な方面なんじゃないの? という思いが湧いてきたんです。今までやってきたことの、何かが繋がった感覚があったんですよね。

そもそもアマヤドリという劇団は「ひょっとこ乱舞」なんて名乗って活動していたぐらいですから、初期は本当に飛んだり跳ねたり走ったり、という劇を作っていたんです。そこから段々と会話劇に取り組むようになっていって、『ぬれぎぬ』とか『崩れる』とかを経つつ、会話志向はどんどん深まっていったんですけど、そんな中でも、いつでも身体を使いたい、群舞をしたいという思いがずっとありましてね。つまり、劇団としては「会話劇をいかに身体的な躍動感をもって演じるか?」というのが長年のテーマだったわけですよ。

イヴォ・ヴァン・ホーヴェの『ヘッダ・ガブラー』は、会話劇をダイナミックに動きながら演じる、っていうことに関して、ひとつの完成形を見せてもらった気がしたんですよね。それもあって衝撃を受けたんです。それからはかなり意識的にそういったことに取り組むようになりましたね。『野がも』の上演では、かなりそれを意識していて、ある程度手応えもあったんです。あ、フルサイズ上演の三時間超えでやってしまったんで、お客さんは全然入らなかったんですけどね。いやあ、面白かったんですけどねえ……。大赤字でした(笑) でも、確実に収穫はあったんです。それ以降、自分の戯曲を演出する際にも、会話劇における身体的躍動感はいつも意識し続けてきました。と、そんなわけで、今回も、そういう流れで行くんだと思います。

――なんだかわかるような気もするんですが……。会話劇で、かつ、動く、っていう表現が、かなり受け手によってイメージするものが違う気もします。言語化が難しい部分でしょうが、その辺りもう少し言葉にしてもらえませんか?

広田 うーん、とにかくもう観てくれ、という部分ではあるんですが……。それじゃいけませんね(笑) 少なくとも身振り手振りとかを、過剰にやっていく、ということではないですね、うちがやってることは。

あー、だから、その辺りを別の角度から申し上げるとですね、結構、ゼロ年代初頭の日本の演劇界って、割と俳優の動きにずっとこだわって、演技について考えてきた時代だったのかなと僕は思うんです。とりわけ、俳優の動きの中でも個人の喋っている身体、人間がいかなる仕草、身振りを用いてセリフを喋っていくのかということを、チェルフィッチュの山縣さん岡田さんをはじめ、あれでもないこれでもないと試行錯誤していた時代だったのかなと思っているんです。

そういう観点から言うと、自分は仕草とか、身振りとかに対しては、もちろん、興味はあるんだけど、それよりも移動する身体、集団のなかの人とか、俳優がどこに配置されているかとか、空間構成という意味も含めて、そういったことに昔から興味があったんですよね。

えーと、更に具体的に言えばですね、そもそも俳優の動きというのを自分は大まかに二種類に分けて考えているんです。移動する身体、つまり、下半身、足を使っての動きと、上半身を使っての、身振り手振り仕草みたいな動きと、その二つ。僕は上半身の身振りや仕草を深掘りしていくこと、言うなれば、抽出した動きを繰り返してサンプリングしていくようなことよりも、心理的なエネルギーを移動という形式に置き換えて、空間構成で見せることに興味があったんです。

移動っていうのは、ものすごくシンプルに言ってしまえば一人の俳優が相手役と近づくのか、遠ざかるのか、という話です。実際には複数の人間が舞台上にいたり、小道具との付き合い方が加味されてきたりで話は複雑になっていくんですが、要するに、誰に近づき、誰から遠ざかろうとするのか、というのが基本です。このエネルギーをね、あれこれ誇張したり、抑制したりして舞台上の動きをデザインしていく。そんな感覚で演出をしています。

しかし、なかなか言語化が難しいですね……。ただ、わかりづらいことではないんです。普段、僕らが生きて喋ってる時も、たとえば喫茶店で二人で座って喋っているにしたって、距離感の移動っていうのはダイナミックに起きていると思うんですよ。重心だったり、目線だったりの移動というレベルにおいてね。それを舞台でやる時には拡張して、エネルギーの値を上げてやる。台詞に合わせて振り付けをする、なんてことじゃなくて、会話の中の必然性を俳優に掴み取ってもらいながら移動してもらう、ということですね。それができるんじゃないのかと思って、『野がも』以来、自分たちとしてはそういうことに取り組んで来ているつもりです。

 


前編では、イプセン作品に取り組む理由を踏まえ、過去の上演を振り返りつつ、演技論・演出論的な話に入っていきました。
後編では、2024年3月公演の『人形の家』「激論版」「疾走版」の二つの演出についてと、いま俳優に求めるものについて、話を聞いていきたいと思います。(後編はこちら

 

アマヤドリ『人形の家』「激論版」「疾走版」は、東京のシアター風姿花伝にて、2024年3月15日~24日の上演です。
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劇場にてお待ちしております。