「今回の二つの演出はどんなものか」
――3月の『人形の家』は二つのパターンでの上演となりますね。「激論版」と「疾走版」と銘打ってますが、それぞれどんなものなのでしょう? まずは「激論版」について聞かせてもらえますか。
広田 いやあ、どんなもの、に、なるんでしょうね(笑) まず「激論版」に関しては『野がも』の時にやったような、「動く会話劇」みたいな方法論から、そんなに大きく変えようとは思っていないです。あの時の上演と大きく違うのは、テキレジに挑戦してみる、ということですかね。僕はノルウェー語がまったくわからないので、毛利三彌先生の2020年の翻訳に頼りつつ、今度は三時間ものにならないように、かといって劇の良さやスケールを損なわないようにしつつ、頑張って刈り込んで100分前後のものにできればな、と思っています。
演出家としては年々、音響、照明などをよりシンプルに、より必然性を強くしていきたい、っていう気持ちが強くなっていますね。たとえば、「ずっと仲の悪かった二人が、和解して喋る」みたいなシーンがあるとするじゃないですか? そういう時に明かりがほんのり、だんだんピンクになっていく、みたいな、そういう説明は要らねえんだよ、という気持ちが年々、強くなっている(笑)
いや、気持ちはわかるんですよ。つい、やってしまうんです、自分も。でも、それは芝居でもう見せてるじゃねえか、っていう話ですからね。せっかく俳優がいい演技をしていても、演出レベルで余計な説明をしてしまうと台無しになってしまう。だからね、やっぱり年々、俳優の芝居が見たいんだ、見せたいんだ、という気持ちが強くなってきているんで、それを見せたいっていうのは「激論版」の方はすごく強くありますね。
――芝居を見せたい、演技を見せたい、という流れは、イプセンの上演に限らず、近年のアマヤドリではずっと続いてきたように思います。そういった問題意識は劇団内で共有されてきたんですかね?
広田 そうですね。集団として徐々にそういう方向に向かっていった気がします。やっぱりコロナ禍以降、少人数の劇を作る機会がすごく増えたんで、それも多少は関係しているのかな。あの頃以降、僕の会話劇傾向に拍車がかかった気もするんです。もちろん、大きな枠で言ったら『ぬれぎぬ』(2014年春に初演。2020年秋に再演)ぐらいから、会話劇への傾倒はどんどん強まっては来ていたんですけど。『崩れる』の再演(2021年)とかも経て、会話劇をちゃんと見せたい、って気持ちが強くなっていきましたね。いい演技があったらそれ以上何もいらんやろ、という形での先鋭化。結局、それが一番面白いんだ、って感覚があったんでしょうね。スペクタクルで勝負していてもどうせチームラボには敵わんし、みたいな(笑)
――では、そんな中で、「疾走版」はどういう演出になるんでしょうか?
広田 念頭にあるのは『HUMAN LOST』ですかね。って、すごくマニアックな話で恐縮なんですけど、昔、僕、太宰治の『人間失格』の元になったとも言われる『HUMAN LOST』っていう小説を舞台化したことがあるんですね。ああいったことの延長でやりたいな、という気持ちがあるんですが……。誰が観とるねん、という話ですね。
えーと、『HUMAN LOST』の舞台化の際には、あれ、そもそも太宰の小説が、ヤク中になって精神病院に叩き込まれた時の日記、まあ、愚痴日記なんですよね(笑) 恨み事を連ねた、文学作品と呼ぶにはあまりにもつたない、剥き出しの言葉たちなんですけど、それを舞台化するにあたって更にズタズタに再構成して、いわゆる、ポストドラマみたいな感じで上演したわけです。
「疾走版」に関してはまだ見えていない部分も大きいんですが、必ずしもドラマの起承転結みたいな形式ではなく、もっと断片的なイメージのコラージュ、繰り返し、誇張みたいなことを大胆にやっていけるといいなと思っています。どういった形で『人形の家』という作品を切り裂いていくのか、何をピックアップし、クローズアップしていくのか、あるいはどこを切り捨てていくのか、今の東京でやる上で何が面白くなるのかよくよく楽しみながらやっていきたいなと思っています。
今、まだ決めきってないって言いましたけど、これ、結構、最後まで、うんうん悩みながらテキストの構築も含めて格闘していくのが面白いんだろうなと思ってるんですよね。例えば、ノーラを一人の俳優が演じなくてもいいんだろうし、あるいは、最後のシーンが何度も繰り返されてもいいのかもしれない。
「疾走版」では『人形の家』というテキストの可能性にちゃんと向き合えたらいいな、とは思います。『人形の家』ってともすれば、フェミニズム的な文脈で語られ、テーマが矮小化されてしまうこともある劇だと思うんです。いや、もちろん、フェミニズム的な読みが間違いとは言いませんよ。明確にそういったメッセージが込められていると思うし、僕らの上演においても、女性が無力化されていく社会構造への異議申し立てという、そういった部分は必ず残ると思うんです。
けれど、イプセン本人も言っている通り、彼としてはきっと『人形の家』を政治運動とか、社会運動に直接繋げたいとは考えていなかったと思うんです。むしろ近代化する世界の中での伝統と個人の対立とか、家族から離れて人は生きられるのか、とか、あるいは、男の法、女の法、という二つの規範意識の対立とその超克とか、そういう普遍的な人間の問題を書いている、と、僕は解釈しているので、これからも読みを深めながら、いろんな再構築をやってみたいなと思っています。
――「疾走版」が、かなり大胆にテキレジされるというのは僕も初めて知ったのでそれはとても楽しみになりました。
広田 なるべく原作のテイストや順序を残したまま「激論版」はやりたい。「疾走版」はもうちょっと大胆に再構成して、加えてまあ、「疾走版」の名に恥じないようにね、文字通り走って、舞台空間を立ち上げていきたいと思っています。
――それを同じ劇場で同時にやるってことですよね?
広田 無謀な企画ですね(笑) だから、二つのバージョンの楽しみ方としては、「疾走版」を先に見た人が、ガチャガチャになっていてなんかパワーはあったけどこれは何の話なの? ってなったあとで「激論版」を見てもらうと、ああ、こういう話か、とドラマの筋が見えてくるだろうし、逆に「激論版」を見て話の筋を踏まえた上で「疾走版」を見てもらえれば、あれがこうなるのか、っていうような、音楽で言うところのリミックス版を聞いてもらうような楽しみ方があるんじゃないかと思うんです。もちろん、単発でご覧になる方のほうが多いんでしょうし、どちらを観ていただいても、「これがアマヤドリの『人形の家』です」というものを作るつもりです。きっと好みも別れるんじゃないかなあ。
これどう考えても時間が足りないような、野心的な企画だと自分でも思うんですね。でも、なんでこういう二本立てをやるのかと言うと、スタンダードを作りたい、という欲求と、現代的な舞台芸術の挑戦者でありたい、という意識の二つ、これを合わせて挑戦した方がカンパニーとしては面白いんじゃないか、という思いからなんです。「激論版」では伝統的な古典戯曲の確かさを借りて正面からリアリズム演技に取り組みつつ、「疾走版」ではそれ以降の演技論、演出論に対する挑戦、アンサーとしてポストリアリズム的な舞台に挑戦したい、というね。そういう欲張りな挑戦になっております。
――いやあ、どうなっていくんでしょうね……。稽古がいよいよ一月から始まるわけですけど、二つのバージョンを比べると、やはり「疾走版」の方が稽古をやりながら、ゼロから作っていく感じですかね?
広田 それは出演者としての心配からの質問?(笑) でもまあ、そうなると思いますよ。「激論版」はいったん放置するターンが必要だと思っているんで。
――放置、ですか?
広田 あくまで僕の主観で言えば、ですけど。要するに、俳優だけで稽古をする時間が必要だ、ってことですかね。いや、というのもね、『代わりの男のその代わり』(2023年秋初演。同一戯曲を青盤、赤盤のダブルキャストで上演した)をやった時に、赤盤の人が完本したあとに「もう広田さん、しばらく稽古場には来ないでいいですから」みたいなことを言っていましてね。主に、倉田大輔なんですけど(笑) 戯曲を書き終わった後で僕が稽古場に行ったら、「ん? 何しに来たんですか?」みたいな。戯曲もあるんで、いったん台詞入れて、自分たちでこーかな、あーかな、っていうのやって、できたら見せますんで、ってことを言われたんですよ。
多分、遠慮とかじゃなくて、単純に本音なんです。俳優としても演出家がいるとどうしても本番っぽくなっちゃう部分があるじゃないですか? 緊張感をもって半分本番みたいな雰囲気でやる、ということが、稽古序盤においてはかえって効率が悪いと感じてたんでしょうね。
もちろん、いろんなカンパニーがあってそれぞれやり方があると思うんですけど、多分、僕らの稽古もそれなりにクセが強いと思うんですよ。このシーンを今日やります、みたいに前のシーンからどんどん潰していって、ハイ、じゃあ全部できたから通しましょうとか、そういうやり口では全く無い。ひとつのシーンばっかり延々と稽古していて、ある日突然、通しましょう、とかね。その中で、あ、ここが全然面白くないから重点的にやろう、と見つけていったり、かなり杓子定規じゃない感じで、芝居全体を生き物として捉えて稽古していると思うんです。手を変え品を変え全体を掴みにいこうというね、そういう気持ちです。
アマヤドリの稽古場としては「演出家いらなくね?」っていう言葉が出るのも大した驚きではなくて、実際『代わりの』の時には、「あ、私もそう思ってました」みたいな感じで他のメンバーも受け止めていたんです。だから『人形の家』「激論版」も、一回上演台本が出来たら放置になるんじゃないですかね(笑) 俳優さんだって、イプセンを上演するって、うーん、なんていうんだろうな、決して解釈不可能なテキストではないと思うので、自分たちで考えたことを形にする時間が欲しいと思うんですよね。サラ・ケインとか、イェリネクとか、ハイナー・ミュラーとかをやるんだったら、ね。ちょっと演出家不在で俳優のみの解釈で進めていても効率悪いかもな、ってなると思うんですけど、『人形の家』だったら、ね。ある程度、自分だったらこうやりたい、とか、あるんじゃないですかね。
「疾走版」の方は構成劇になってくると思いますんで、最初から僕がいて、どういうコンセプトで切って貼ってしていくのかっていうことをトライしていくんでしょうね。で、ある程度稽古が進んだ段階で、「ちょっと待て、これ本当に面白いの?」って、俳優さんからも言ってもらって我に返るというかね、何度か行き止まりにぶつかって、方向転換して、とかってやっていけるといいなと思います。
「俳優に求めるものはどういうものか」
――これ、ちょうど今、最後に聞こうとしてたことと重なる部分かもなと思いながら聞いていたのですが、広田さんとしては俳優に求めるもの、能力、っていうのは、どういったものなんでしょうか?
広田 んー、それは、どういう次元の話なんですかね? もうちょっと質問を詳しく伺ってもいいですか。
――ああ、それじゃ、演技論的なことで伺います。次回3月の『人形の家』に取り組むにあたって、あるいは、ここ近年のアマヤドリでもいいんですが、広田さんが演技面の能力として俳優に求めているのはどんなことでしょう?
広田 うーん。演技面……。というと、もう究極、俳優の演技に求めてるものは相互性ってことに尽きますね。関係性の中で演じられているか、存在できているか、っていうこと、つまり、相互性。これ、言い換えれば、再帰的な反応が起きているか、ということですね。自分がアクションした時に相手がそれで変わり、そのフィードバックを受けて自分がさらにもう一回変わっていくっていう、アクション・リアクションのサイクルが回ってるかどうか。で、回っているものを指して、僕は相互性のある演技という風に言ってるんですけど、演技面で俳優に求めているものは、ひとまず相互性のある演技をしてほしいっていうことに尽きますね。
言葉にするとシンプルなんですけど、それが、本当に難しい。勝手な僕の解釈ですけどマイズナーであったり、ステラ・アドラーであったり、あるいはスタニスラフスキーが言いたいことも、極論、それが核だと僕は思っているんです。もちろん他にもいろいろあるんですけど、でも、相互性のある演技をしてくれ、ってことが核じゃないですかね。だから、そこにどうやって至るかということを演技としては求めたい。
――演技面以外の部分だと、俳優にどんなものを求めているんでしょう?
広田 んー。俳優個人に人間として求めたいこと、アーティストとして求めたいことっていうのは、えーと、そうですね。ちょっと時代と逆行するような話に聞こえるかもしれないですけど、強さ、タフネスを求めたいんですかね。いや、これは逆に、時代が僕をそうさせてるのかもしれないですけど、とにかく、タフであってほしいな、と思っています、俳優には。
今、いろいろハラスメントの問題なんかありますけど、やっぱり僕はね、俳優が本当に権力を勝ち取る、というか、地位を向上させていくためには、単に横柄なやつ、権力を持っている人間を反省させる、っていうだけじゃ足りなくて、俳優たちが責任感を持ってそれぞれ行動できるようになる、ってことが必要なんじゃないかと思うんです。稽古場の雰囲気作りっていうことにアマヤドリも本当にいろいろと過去の反省を踏まえて、すごく過敏にというか、かなり深刻に受け止めてここ数年、すごい時間を費やして色々話をしてきている団体ではないかと自認はしてるんですけどね。そんな中で、責任、ということについてはいつも考えているんです。
演出家とかプロデューサーがおかしなことを言っていた時に、それはおかしいですよ、って言える揺るがない個を持った日本人の少なさ、空気に流される日本人の弱さを僕は散々見てきた気がするんです。自分も含めてね。本当に僕らは空気に簡単に飲まれるし、全然、変わってないですよ。どこの団体にいっても同じです。劇作家協会でも、演出者協会でも、アマヤドリでも、他の劇団でもね。極端な話、戦艦大和の出撃から全然変わっていないんですよ。偉そうなことを言ってた人たちが、いざ目の前に揉め事が起きると「揉めたくない」というモチベーションだけになって、一目散に逃げていく。そういうのを僕は何度も見てきたから、本当に一人一人が胆力を持って取り組まないと、ハラスメント対策の根幹はいつまで経っても変わらないな、と思います。そうですね。『人形の家』のテーマとも響き合う、近代化した社会の中でいかに個を確立させていくのか。または、どうしてそういったことが不可能なのか。それを稽古場レベルでも考えていく時間になるでしょうね。
『人形の家』に話を戻しますと、僕ね、この作品の中では男と女の対立っていうものがある種、現代よりもシンプルに描かれている戯曲だと思うんです。当時、女性が男性に虐げられているという、ま、いわゆるパターナリズムへの抵抗、家父長制に対しての違和感の表明、という問題意識があったと思うんですけれど、今、それが、もうちょっと変化してLGBTQ+の問題だったりに発展してきている。男女の対立っていう言葉が、もうすでに地盤沈下を起こしてるというか、非常に大きな、揺らぎの時を迎えていると思うんですね。つまり、異性愛中心主義は本当か、とか、一対一の恋愛(モノガミー)は本当か、とかそういう問題意識が普通に提出されるようになってきた。そういった時代の中で、男と女の対立っていうモチーフ、言葉をどういう風に解釈し、切り裂いていけるのか、料理できるのか、っていうことをね。この二つの上演、とりわけ、「疾走版」の方ではひとつの取っ掛かりにしていければな、と考えています。
二つに、あるいはそれ以上に引き裂かれうる想いや人間。その複雑さから目を逸らさず、地道に向き合って演劇に取り組んでいく。
演出や演技、演劇作品やその上演についての語りから、創作という行為の根っこの1つを聞いたように思います。
アマヤドリ『人形の家』「激論版」「疾走版」は、東京のシアター風姿花伝にて、2024年3月15日~24日の上演です。
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劇場にてお待ちしております。