十六年ぶりに復活した、広田淳一個人の劇団ユニット、ルスバンズ。2026年1月22日よりシアター風姿花伝で上演されるその第二回公演、『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』について、戯曲が完本し集中稽古に入っている段階で、作・演出の広田さんにお話を伺いました。
「『かもめ』を大胆に改変して上演することの意図」
─── まずは、今回の広田淳一個人企画、ルスバンズの第二回公演、『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』という作品の企画意図から伺いたいと思います。今回は色々と久しぶりのこと、初めてのことが多いと思います。劇団を離れての新作公演といい、既存の古典戯曲を踏襲して執筆していることといい、広田さんご自身の出演といい。どのような公演にしようという意図で、この企画は始まったのでしょう。
広田 一年前にアマヤドリを休止したときは、育児のことであったり、母の病気のことであったり、しばらく自分は舞台はできないかもしれないなと考え、他にも複合的な要因があって、演劇活動を休止しました。ですが、最近、なんとかやれるかもしれないなという気持ちになってきて、劇団とは別の企画として、古い引き出しから「ルスバンズ」を引っ張り出してきた次第です。まったく新しいものをやるというよりもそっちの方が自分の気持ち的にしっくりきたので。自分が出演するというのも、第一回公演(『うそつき』2009年4月)で自分が出ていたので、第二回も出るか、っていう感じです。
─── 作品内容としては、今作『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』は、チェーホフの戯曲『かもめ』の大枠として踏襲しつつ、舞台を現代日本に変更し、広田さんの新作戯曲として書き上げているわけですが、なぜこのような形になったのでしょう? 単純に『かもめ』をそのまま広田さん演出で上演したり、普通に新作戯曲を書くという選択もあり得たと思うのですが。
広田 自分がアマヤドリでの一年前の『取り戻せ、カラー』や、2023年の『代わりの男のその代わり』といった作品を執筆した頃は、私生活的にも大変だった時期で、自分自身の私的な問題を赤裸々に書くということを、とくにこの二作では、やりました。当時は今自分が直面している問題を書くしかないという時期だった。その二作で、自分のありままを曝け出す作品としては行くところまで行った感があったので、その延長線上ではもう書けない、書くことはない、という想いに至った。
じゃあどうするか、って悩んでいたときに、たまたまナショナル・シアター・ライヴの『欲望という名の電車』(演出:ベネディクト・アンドリュース)を観たんですね。あれにかなりガツンとやられて。古典の持っている力や、古典を元にして俳優や舞台が発揮できる力のすごさに圧倒された。そこから自分も古典をやってみたいという気持ちが出てきて、でも同時に新作を書きたいという気持ちもあったので、最終的に、『かもめ』をベースにして自分の新作戯曲を書くという今回の形に行き着きました。
─── ベースとなる古典を選ぶにあたって、広田さんにとってとくにチェーホフの『かもめ』をやりたい動機があったのでしょうか。
広田 過去にアマヤドリでイプセンの『野がも』(2018年)を上演したときに、実は『かもめ』をやろうかなという考えもあったんです。むしろ最初は『かもめ』をやろうという気持ちだったんですが、色々調べていくうちに、『かもめ』がイプセンの『野がも』の影響を受けて書かれたということを知り、あらためて『野がも』を読んだら、『野がも』の方が自分のやりたいことに近いんじゃないかと感じて、そのときは、『野がも』を上演することにした。でも一方では『かもめ』をやりたいなという気持ちもずっと持続していました。
『かもめ』をやる上ではアルカーヂナという役がとくに難所になると思うんです。でも、今回はザンヨウコさんをお呼びできたので、ザンさんがやってくれるなら行けそうだなという見通しが立った。このタイミングで『かもめ』(をベースにした作品)やるのはそれも大きいですね。
─── なるほど。たしかにアルカーヂナという人物は、母親という立場も兼ねつつ、かなり特殊な設定の人物ですし、今までの広田さんの戯曲を顧みても似たタイプの登場人物はいませんね。
広田 自分が書くとしても自分の文脈からはなかなか出てこないキャラクターです。母親が女優であるなんて、あまり想像することのできないシチュエーションで。まあ『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』では女優というより有名な芸人、TV番組のMCという設定に変えてはいますけれど。
─── 先ほどの話では、2018年当時は『野がも』の方がご自身のやりたいことに近かったとのことでしたが、今は『かもめ』の方がそうなったということでしょうか。
広田 そうですね。ちょっと雑然とした印象論になってしまうのですが、自分の思っていることをそのまま言うと、チェーホフにとって『かもめ』という戯曲は、彼の四大戯曲と呼ばれる作品のなかでは最初に書かれた作品で、イプセンの『野がも』を参照しているという点でもそうですが、まだ彼が試行錯誤しながら書いていた時期の作品だと思うんです。当時のチェーホフ自身、作中人物でいうとすでにトリゴーリン(功なり名を遂げている文士)に近い立場にありつつ、同時にトレープレフ(作家志望の青年)のような青臭い気持ちも持っていたんだろうなと思う。僕には『三人姉妹』でチェーホフがやりたかったことが結実したように見えていて、『三人姉妹』より前の戯曲は、『三人姉妹』のようなことがやりたいのだがまだそこに至っていない途上の作品に見えて、その試行錯誤に、トレープレフの青臭さが重ねられているようにも読める。
イプセンの『野がも』だと、今回やったように、それを現代を舞台にまったく別の話に書き換えるようなことはできないと思うんですよ。『野がも』には隙がなさすぎるというか、変える余地がない。でも『かもめ』には若干の遊びがあって、それは僕がチェーホフの作品全般に抱いている印象でもあるのですが、どこか変わっていく余地を残しているような気がしていて、そこに魅力を感じていることが、今『かもめ』をやりたい大きな動機の一つですね。
あと、『かもめ』という戯曲が日本でどう受容されてきたかということも、『かもめ』を選んだ大きな要因ではあります。例えば、『野がも』という戯曲は、演劇をやっている人のあいだではよく知られている作品ではあるんですが、普通のお客さんにとっては「ああ、この作品ね」とはなかなかならない作品だと思うんですよ。でも『かもめ』であれば、大抵の方にとって或る程度あらすじ自体は頭にあって、「これは知ってる話だ」というところから始まって、ヴァリエーションがあると「こう変えたのか」「こういうふうに解釈したのか」という見方をしてもらえる。だから、今回のように大胆な書き換えをすることによって、元の作品をどういうふうに読み替えたのかということまで含めて、こちらの意図が伝わるんじゃないかという計算はありました。
─── なるほど。今のお話で、『かもめ』を敢えて大胆に改変して上演することの意図はかなり腑に落ちました。
「弱者男性の問題と、無意識の領域」
─── では次に、『かもめ』のことを離れて、『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』という戯曲そのものについて伺います。──自分は、この本作は、今までの広田さんの戯曲とは質感の違う作品のように感じています。登場人物それぞれが魅力的に描かれているのですが、それは、単にキャラが立っているというのではなく、登場人物一人一人の「無意識」も含めて造形されているというふうに感じる。一人一人が、表に現れない屈託を意識下に抑圧しているように見えます。それは会話のあり様によく出ていて、本作では、言い淀みや、仄めかしや、言いたいことは直接言わないで別のことを言っているようなズレ、錯誤、相互不理解といった細部がたくさん仕掛けられている。ユズルという登場人物の「きっと言葉にしない方がいいこともあるんだろう」という科白が典型的ですが、一人一人が、口に出して言えなかった言葉、抑圧された言葉を持っていて、それが会話に淀みと余白を生んでいるように見える。それゆえに、どの登場人物も独特な仕方で孤独で、対話していてもずっとミスコミュニケーションが続いているような感覚を受けるんです。また、そのことが、それぞれの登場人物の不幸な運命を予感させ、後半に向けて牽引力が増していく面白さにもつながっている。
以上の特徴がチェーホフを踏襲したゆえなのかどうかは分かりませんが、今までの広田さんの戯曲では、もっとストレートな会話のやり取りが主体だったと思うので、『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』は文体からしてかなり質感が違う作品になっていると感じます。これは、どこまで意図的なのでしょう?
広田 そう読んでいただけるのはありがたいですね。かなり意図的にやっています。自分が戯曲を書くとき、もう長いこと演劇を創ってきているから、或る種乗ってくると勢いで書けてしまうし、知らず知らず自分の手癖に寄っていってしまうということは感じていて、近年では、自分の書く戯曲のなかでありがちな形、自分にとって書き易い形に安易に陥らないよう、書く際に指針を決めて書くようにしているんですね。或る意味自分の作品の限界に対する反省みたいなことからそうしていて。そのなかでも、今作は、全体を「いかに書くか」という点で、言いたいことを言い切れない、みんな本音は言えないんだっていうことを書こうと意図してやっています。実際それが意図通りに伝わっているようで、それは率直に嬉しいですね。
語りたいことをすべて語り尽くしてしまうような会話ではなくて、そんなに喋らない、喋れるけど喋らない会話。他人との齟齬があっても、腹蔵なく「徹底的に話そうじゃないか」ということをしないコミュニケーション。敢えて言語化のレベルを或る程度下げることによって、言葉にしないことの価値、別種のコミュニケーションの豊かさを出せるんじゃないかという企図がありました。
広田 ああ、そうかもしれませんね。
─── 弱者男性の問題、男性性の問題、或いはそれと相克する女性性の問題というのは、まさに口に出しては言い難い何か、直接に意見を表明し難い何かを含んでいる問題だと思うんですよ。卑近な例ですが、性的なスキャンダルや性的な事件のSNSでのフィルターバブル的な炎上や、それにより指弾される男性性、また反動的な女性性への攻撃といった現象には、それらを横目で見ながら直接は口に出して意見を言い難い何か、どこか自分のトラウマに触れてきそうで避けたくなる無意識的な抑圧が、ある。今作ではとくに、中年男性に書き換えられたトレープレフのユズルや、おそらく『かもめ』のドールンが元になっている堂本という人物の造形がこのテーマに接近していますが、このテーマを選ばれたことと、今作での文体の変化というのは、暗に連動しているように思います。
広田 今お話を聞きながら、二つのことを考えていました。
一つは、フェミニズムが明らかにしてきたように女性が女性自身の言葉を奪われてきたという歴史がある一方で、男性にもまた、自分の言葉を奪われているという側面があること。以前、2021年のコロナ禍に「ひきこもり」を題材にした『生きてる風』という作品を創ったとき、ひきこもりに関する書籍を多く読み、この問題はまだ書くことが一杯あるなと自分は感じて、その後もフェミニズムの問題等も含め色々勉強していったのですが、その途上で、この弱者男性というトピックにも突き当たった。杉田俊介さんの著作(この問題の関連書としては『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』『男がつらい!──資本主義社会の「弱者男性」論』等)や、あとはとくに西井開さんの取り組みですね。社会学者の西井さんは、弱者男性たちが、或いは弱者に限らず男性たちが表立って語れなかったことを男性同士で語り合うグループ、男性が男性社会・父権性社会のなかで弱音を封じられたり、男らしさを要求されたりする過程で奪われてしまった言葉を、ただ訥々と語り合うという会を主催されていて、『生きてる風』を書いていた頃から注目していました。自分がその会に参加したいと思ったほどで。その望みは叶ってないんですが、いつかそのことを、男性にも奪われている言葉があるということを、扱って戯曲にしたいなという想いはずっとありました。それが、今作で登場人物たちが口に出そうとしても上手く言葉を出せない、流暢に喋っていないというスタイルにつながっているというのは、まさに、その通りかもしれません。
もう一つは、今フィルターバブルという言葉を出されましたが、「弱者男性」のトピックというのは──この言葉は、ワードとして強いし分かりやすいので僕も使っていますが、いわゆる「弱者男性」の問題というのは、この問題が単一の事象としてあるのではなく、もっと大きな、パターナリズムなり父権性社会で起こっている様々な歪みのなかの一断面としてあるのだと思います──一時的にワーッと盛り上がるし、一部の人にとっては攻撃的なまでに饒舌に語りたくなる話題である一方で、どこまで語っていいのか、不用意な発言が難しいものでもある。とくに性的な事件が絡んだものだと、現実の生活のなかではほとんど言及できない。お互い意見を持っていたとしても、何をどう思っているのか、「本音」を人に言うのが怖いトピックでもある。教科書的にしか言及できないというか、もうそんな話題には触れないのが吉というか。話題として必然的に言いたいことが言い切れないものになってしまっている。
─── 今作では、堂本というキャラクターが、性的な冤罪事件に巻き込まれるという背景を背負っており、しかもそれが具体的にどういう事件なのか触れられない、という描かれ方をしている。これもまた、元の『かもめ』からの大きな改変の一つだと感じます。
広田 近年、身近なところも含め、遠いところも含め、或る程度年齢のいった男性が性的なトラブルでキャンセルされていくという出来事を、われわれは何件も見てきたわけですが──大きなものでは中居正広さんの件──、そういった出来事の渦中において奪われてしまった無数の声というものもあるのではないかと思う。もちろん、加害者にも正しさがあるなどと言うつもりはないし、奪われるべくして奪われた声が大半でしょう。でも、或る日を境に一瞬で人生のすべてが変わって、キャンセルされて以降まったく世間から姿を消してしまった人間であっても、そのあとの人生はある。でも、それはもう表で知られることはない。それこそ文学で扱ったりすることしかできないことなのかもしれない。くり返せば、それらを擁護したいということではないですよ。だが、実際に明確な悪事によってキャンセルされ、社会からキャンセルされたとしても、この世から消滅するわけではないし、その人を含めた社会というものはつづいていく。僕はそのことを無視はできない。
─── まさにそういったキャンセルされた人々の記憶というのは、この現代の令和の日本に生きる、われわれの無意識の領域に堆積していっているのではないかと感じます。そうした問題意識と、広田さんが今作を執筆する際に選んだスタイル──無意識の領域も含めた人物造形と彼らの淀みと余白のある対話──は、やはり相互に関係しているのだろうということを、今のお話を聞いて思いました。
「改変された『かもめ』のキャスティング』
─── そのような戯曲を、今回の座組の俳優の方々がどのように演じられるかも、楽しみです。先ほどザンヨウコさんのことが出ましたが、今回の座組はやはり『かもめ』を上演するという想定で呼ばれたのでしょうか?
広田 それはそうなのですが、トレープレフが中年で、トリゴーリンの方が若者というのは、わりと戯曲を執筆している途中で決めたことでした。
─── そうなんですか?
広田 書き始める前にそう決めていたわけではなかったんです。西川康太郎くんにトレープレフをやってもらうなんて全然考えていなくて、むしろ最初は『かもめ』のとおり若い若林尚紀くんにトレープレフをやってもらおうかと考えていた。でも、自分自身がおじさんになったっていうこともあって、元の『かもめ』の若者としてのトレープレフのあり方にグッと来なくなってしまって、逆なんじゃないか、トレープレフが中年でトリゴーリンを若者にすべきなんじゃないかって、或るときに気付いて、そこから一気に執筆の展望が開けて加速しましたね。
─── 『かもめ』からの大きな変更点で言うと、ニーナが分裂してお笑いコンビになっていることも目を惹きます。
広田 ニーナニーナというね。このコンビの片割れを梶川七海さんにやってもらうことは、ザンさんの役と同じくらい早期から決まっていたことかもしれない。かなり梶川さんのパーソナリティに引っ張られて書いた役でもあります。とはいえ、過去に何度か出演していただているものの、僕が彼女のことをとくによく知っているということはないので、僕のイメージでそう思っているだけで、彼女の方で「この役自分らしいな」と思って演じられているわけではないと思いますが。とはいえ随分執筆では助けられました。
─── そもそもお笑いということを題材に選んだのはなぜなのでしょう。
広田 まず、『かもめ』のニーナ(とアルカーヂナ)は舞台女優なわけですが、当時のテレビのない時代における舞台女優の存在感を現代にそのまま持っては来れないだろうと思いましたし、また、女優の話にしてしまうと、あまりにも自分たちの業界の話に近くなって逆にリアリティがなくなると思ったんですよ。面白くなりそうもないというか、想像力がジャンプできないというか。その点、お笑いというのは、たまに吉本興業さんとかが演劇の人と絡んでくれたり、芸人さんが俳優として舞台に立ったり映画に出たりとクロスオーバーする部分はありながら、遠くて近い距離にある。とくに芸人さんがネタを作るという部分はかなり演劇と異質で、想像力の余地がある。
あと、芸人さんの「コンビ」という特殊な人間関係のあり方には以前から興味を持っていて。一般的な関係とは言えないじゃないですか。友人でもないし、純粋なビジネスパートナーでもない。家族でもないのに、下手したら一生ものの付き合いになる。「お笑いコンビ」というのは、日本人にとっては普通に受け入れられているものだけれど、海外の人とかから見たら非常に特殊な関係に見えるのではないか。劇団とはまたサイズ感の違った人間関係で、密度が高く、逃げ場もない。おそらくコンビのことはそのコンビにしか分からないという部分も多いのだろう。その関係のあり方にはすごく興味があって、書いてみたいなということで今回のこういう形になりましたね。
─── なるほど。その発想の延長線上で、今作では、元の『かもめ』における最後のトレープレフとニーナの対話のシーンが、ああいうふうに大きく改変されているというのも、見所かなと思います。
やはり今作『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』は、単にチェーホフの『かもめ』を現代に翻案しただけの作品ではない。広田さんの今までの戯曲とは違った質感の面白さがありながら、独自の完成度に達しており、個性的な座組の面々がこれをどう演じられるかも含めて、上演が楽しみな作品であるということを、今日のインタビューを通じて掘り下げることができたかなと思います。
広田 ぜひ楽しみにしていてください!
広田淳一個人企画・ルスバンズの第二公演『坊や、花火だ。逃げろ、空が落ちてくる』は、東京のシアター風姿花伝にて、2026年1月22日(木)〜2月1日(日)の上演です。
チケットご予約、公演情報詳細は こちら から。
劇場にてお待ちしております。
