八人の役者たち
───突然ですが新企画です。広田さんは日頃頭のなかで色々なことを考えているのに、それをテキストとしてアウトプットしないので、ほとんど世間に知られないままにとどまっています。それを、インタヴュー形式で引き出してまとめるというのが、この企画の趣旨です。今後も折を見てこの企画は行なっていこうと思っています。 |
広田 よろしくお願いします。
───さて、今回のインタヴューのお題目は今月下旬のアマヤドリ新人公演についてです。スタジオ空洞にて、過去作『うそつき』と新作『やがて二人は部屋を出る』の二本立て。新人劇団員中心の公演といっても、いくつか選択肢はあったと思いますが、この二本立ての企画の発端はどういうものでしたか? |
広田 新劇団員三人と、僕がとくに一緒にやりたいと心に留めていた若い俳優たちがいて、この八人で公演を打とうというのが企画の大元だね。心に留めていた俳優たちには男子も含まれていたので、男女が半々でちょうどバランスのいいこの二作品にした。実は、『ぬれぎぬ』を再演しようとか、東京ではまだ上演していない『ブタに真珠の首飾り』をやろうとかいう案もあったんだけれど、『ぬれぎぬ』は改めてもっとじっくり取り組まなければならない作品だと感じたし、『ブタに真珠の首飾り』だと男子の出る余地がないし、ということで、この二本立てになりました。
───今回の公演の出演者は、今年劇団員になった梅田洋輔さん・大塚由祈子さん・深海哲哉さん、そしてすでにアマヤドリに出演経験のある長谷川なつみさん・村山恵美さん、さらに、アマヤドリには初出演の一之瀬花音さん・藤家矢麻刀さん・山脇辰哉さんです。 |
広田 花音ちゃんは、こういう表現が適切か分からないけれど、とにかく素直で可愛い(笑)。元々ダンサーで、舞台芸術にはダンスから入っていて、身体はすごい利くんだけれど、お芝居についてそれほど経験値があるわけではない、というよりお芝居についてはほとんど何も知らないに等しいので、良い意味でスルッと知識にとらわれずにやれている。
矢麻刀くんはそれとはもうまったく逆。こんなに最近の日本の演劇事情に詳しい人がアマヤドリの劇に出るのは結構珍しいんじゃないかと思う。まだ二十三ぐらいで若いんだけれど、若い人なりの賢さが目に見えて伝わってきて、色々アイディアも持っているし、考えていることも多いし、だけど、まだまだそれが本人のなかでまとまっていない感じが、とても面白い。まだ舞台に立つとはどういうことか、本番とはどういうことか、というのが──ダンサー経験のある花音ちゃんと比べれば──彼は身体的にぼんやりとしか掴めていないかもしれないけれど、これだけ色々と敏感な人もなかなかいないと思います。
───そのお二人は『うそつき』の方の出演で、加えて、梅田洋輔さんと長谷川なつみさんが『うそつき』チームですね。 |
広田 梅ちゃん〔梅田洋輔〕は、良い感じに育ってきましたね。彼はもちろん真面目で一生懸命やる人なんだけれど、なんていうんだろう、演技が非常に頑固なんですよ。人当たりは柔らかいし、腰も低い人なんだけれど、演技に関しては、彼自身が気持ち悪いと思ったら上辺だけで出来たふうにはやらない、器用に取り繕わない、ということを徹底している。やれないことはやれないまま素で出してしまうので、間が大きく崩れちゃったり、そのつど失敗するんだけれど、それは、何が自分にとってやりたいことなのか、何が自分にはやれないことなのか、そのつどつまずいてはっきりさせているということで、成長のためには正しいことだと思う。
その点は、ゆっこ〔大塚由祈子〕や長谷川さんとは違う。長谷川さんは、やはり真面目な子だし、社会人であることと演劇をやることを両立するためにとても気を遣っていて、仕事の都合で稽古に遅れたりすることも、申し訳ないというのではなく、別のところで取り返そうとすごく準備をしてきてくれる。『うそつき』でも稽古初日に二役分の科白を覚えてきて、戯曲読解も含め、家で準備できることは全部済ませてきてくれていたんだけれど、でも、そこから先、ただ準備してきたことを器用にやるという以上の、自分の想定どおりにいかなかったときの、自分の形が否定されたときの試行錯誤が、彼女の課題になると思う。今回は万全に準備した上で、稽古初期からその試行錯誤に入っていけているので、長谷川さん本人にとっても意味のある公演になるんじゃないかな。
───変わって、大塚由祈子さん・深海哲哉さん・村山恵美さん・山脇辰哉さんが、『やがて二人は部屋を出る』チームです。 |
広田 良くも悪くも、大塚さんは情熱家ですね。よく泣くしよく笑うし、気持ちが盛り上がりやすい。それがともすると自分一人で盛り上がっていっちゃうふうになるから、演技の上では周りとも一緒に盛り上がるようにするというのが彼女の課題かな。でも彼女は、先月の一人芝居のときにも思ったけれど、とにかく元気。本人的にはもちろん不安定なときもあるよと思っているだろうけれど、圧倒的に精神の土台がしっかりしているから、ムラがなくて、体力もあるから疲れず延々稽古できてしまう。一人芝居のときも、稽古がはじまる前に朝からずっと一人で稽古していて、僕が稽古場に着くと「広田さんがくる前に三回通しました」とか言われて。ほんとにバイタリティ溢れる人。
深海くんは、ちょっと変わっている人だね。広島でグンジョーブタイという劇団を主宰していて、このあいだ観に行ったんだけど、広島という地域にしては驚くくらいお客さんが入っていた。本人にすごくやる気があって、地域の人たちを巻き込んでいけているんだと思う。どちらかというと、演出家というよりはプロデューサー気質なのかなと感じる。だから今回の稽古場で細かく演技についての議論をしたりしていることは、彼にとっては良い時間になっているんじゃないかと思う。
───広田さんがファシリテーターを務めたディレクターズ・ワークショップが初対面だと思いますが、そのときはディレクターとしての参加だったんですか。 |
広田 いや、役者で参加していた。でも、本人の目論見としては、役者として参加するけれど、ディレクターたちが何をするのか、ディスカッションの場でどんな言葉がやりとりされるのかといったことにも興味があっての参加で、その後自分の劇団で演出するときにもディレクターズ・ワークショップでの経験はすごく役に立っている、みたいなことは言っていました。まあそういう機縁がなければそもそも出会ってもいなかった人ですね。
───『やがて二人は部屋を出る』は二組の男女のカップル、若いカップルと年長のカップルが出てくる戯曲ですが、大塚さんと深海さんが年長のカップル、対して、村山さんと山脇さんが若いカップルという配役でしょうか。 |
広田 そうです。だけどこの、山脇くんがね……これは、特筆すべき才能ですよ。こんなに面白いやつとは思ってなかったんで、驚いた。近年稀に見る面白さ。ちょっと、普通じゃない。昨日も、『やがて二人は部屋を出る』の稽古中に、村山さんが或るシーンで科白の扱いにかなり苦戦しているときに、相手役の山脇に「おまえだったらどうする?」って振ったら、なんか彼が独自に編み出した謎の稽古方法みたいなものを披露してくれたんですよ(笑)。山脇くんは、学術的な本をたくさん読んでいるというわけではないから、どこかで聞いたことがあるような単語は全然使わないんだけれど、彼は、自前の単語で何らかの体系を構築していて、村山さんに対しても「科白の〈前のめり性〉が足りてないんすよ」みたいなことを言う。「〈前のめり性〉って何だよ?」って訊いたら、「前のめりになる感じがあるじゃないですか」と。「科白をただ理解して発声するだけじゃダメで、〈前のめり性〉がないと、伝わんないんすよ」と。なんというか、彼は、まだ若いのに、一生懸命手探りで自分なりのやり方を作り出そうとしているんじゃないかと思う。〈前のめり性〉もそうだけど、彼自身で編み出した独自の言葉みたいなのがいっぱいあって、そうやって言語化しないと腑に落ちないのかもしれない。普段はあまり喋らないんだけど。演技も静かで、そんなに大きな声を出さないし、表情も変えないし、派手なことは何もやらない。でもこいつはよっぽど考えがあってやらないんだろうなということは感じていて、で、色々訊いてみると実際すごく考えがあるみたいで、それは、こっちの考えていることともそんなに遠くなかったりする。いや、面白いんだよ、なんか。彼の存在は、相手役の村山さんにとっても良い刺激になっていると思います。
村山さんは、一見すごく普通っぽく見えるんだけど、この子はこの子なりに変わっている。彼女は高校演劇をしっかりやってきた人なので、舞台の基礎的なことに関しては非常に優秀で、『天国への登り方』のときは手の掛からない子だったんだけれど、今作では、苦戦している。性格的に、全然怒らない、怒ることができない。だから相手に強く言う科白が全然引っ掛からなかったり、苛々した感情を出すのにひどく苦労したりするんだ。今作では、彼女がそうした感情を出すプロセスをもう一度取り戻すこと、が必要なのかもしれない。いずれにせよ、本人は楽しそうですけどね。本人曰く、演劇をすることが楽しくて楽しくて仕方がないらしいです(笑)。
二種類の戯曲
───今回上演される二作品、どちらも広田さんの戯曲ですが、全然作風が違いますね。 |
広田 違うね。作風ということで言うと、良くも悪くも、過去の『うそつき』から最近作の『やがて二人は部屋を出る』を比較すると、豊かになった部分と貧しくなった部分があると思う。『うそつき』は色んな種類のテキストを出したいと思って書いた戯曲なんですよ。日記があったり、手紙があったり、字幕もあり、会話もありと、言葉のヴァリエーション、およびシーンのヴァリエーションを多彩にしようという意図があった。対して、『やがて二人は…』の方は本当に純粋な会話しか出てこなくて、観客に向かって語りかけるような言葉もない。ひたすら会話シーンのみ。『崩れる』以降に自分がやっていることの延長にある作品だと言えますね。
───そういう文体上の違いもありますが、もう一点、戯曲の寓話性の有無についても指摘したいと思います。『うそつき』の方は、広田さんの寓話作家としての才能が分かりやすく出ている作品だと思うんですね。寓話──すなわち、現実に取材したリアリズムの物語でもなく、SF的な可能世界の話でもなく、寓喩[allegory アレゴリー]という言語操作に基づく世界を構築し、そこで展開される物語です。過去作では『水』や『うれしい悲鳴』や『月の剥がれる』や『銀髪』や『青いポスト』がこの系統の作品に当たります。 寓話、というと、イソップ物語みたいに、何かの抽象観念を別の具象的な何かに置き換え、それを一義的に対応させて──たとえば「裏切り者」の寓喩が「コウモリ」であるというように──間接的に現実を風刺したり教訓を引き出したりするものだというのが一般的な理解なのですが、本来、寓話には、それにとどまらない面白さがある。私見では、寓話というものは、現実世界の要素を別の何かに意図的に置き換え、その歪んだ設定に基づいて物語を展開し、現実の枠組みの内部では考えられない問題を考えることを可能にするからこそ、面白いんです。べつに現実社会を風刺することが寓話の目的ではない。 たとえば、『うそつき』に出てくる「エレファント」というのは、現実におけるクローン人間を示唆するものではないし、人間を複製することに警鐘を鳴らすというモティーフでもなく、ただ、人間のようで人間でないものを「エレファント=象」と呼ぶことよってのみ成り立っている存在ですよね。とくに科学技術的な設定の裏付けがあるわけではないし。でも、この呼称の上だけで成立しているにすぎない「エレファント」の存在が、『うそつき』の物語のなかでは、「嘘」というテーマにからんで、板垣という登場人物の「嘘」やわれわれの日常的な「嘘」とつながっているようでもありつながらないようでもあり、なぜか妙にリアルな存在として感じられてくる。こういった多義的な存在を、言語操作(寓喩)によってさくっと作り上げることができてしまうのが、広田さんの寓話作家としての特異な才能です。 他の例証としては、長篇戯曲『月の剥がれる』において、現実のようで現実でない近未来的な作品世界が、表題の「月」、「ソラ」「テン」といった登場人物の名前、「散華」という組織名、「怒り」を放棄した「この国」という抽象的な空間、そこに絡んでくる「転校」や「議長」や「殺し合い」や「大抗議」、等々の、現実的な意味から転用され作品内部でのみ密接に関連する用語の体系によって、重層的な物語のリアリティを生み出していることを指摘するだけで、十分でしょう。言うまでもなく、『月の剥がれる』を単純に日本の近未来を描いたSFと読むことは、誤読です。現実世界との対応よりも先に、「怒り」や「散華」という言葉の意味を非現実に転用する、現実をブレさせるアレゴリーの操作があるわけです。 |
広田 なるほど。現実から逸脱した世界を描いている、という点はそうかもしれない。
───まあ、今言ったことは、ヴァルター・ベンヤミンという批評家がアレゴリーについて論じたことの応用なんですけど。何が言いたいかというと、『やがて二人は部屋を出る』は、広田さんの寓話作家の資質を敢えて封印して書かれている、ということです。それでいて『やがて…』は、プライヴェートな空間での抜き差しならない会話、という広田さんの戯曲の別種の個性が顕著に出てもいます。 |
広田 それはそうですね。これは、外部のプロデュース公演のために書いた戯曲で、その公演の都合上の制約もあった。大阪の俳優二人と東京の俳優二人が出演することになっていて、別々でしか稽古ができないから、四人を二人と二人に分けて成立してくれ、というオーダーだったんですよ。大阪での公演だったから自分は観られてなくて、ビデオもなくて、一切上演を観ていないので、今回自分の手で上演してみたいと思ったんだけれど、改めて読むと、結構初演の人たちに当て書きしていたんだなと感じる。
───若いカップルと中年のカップルが分離しつつ組み合わさるという、この戯曲の構造は、広田さんのなかではどういうイメージだったのですか。 |
広田 二組の男女の対比を書きたいというのは、明確に意図はしていた。簡潔に言えば、終わりを見つけようとする若いカップルと、終わりから逃れようとする年取ったカップル、というような。エネルギーの差なのかな。若者たちの方がエネルギーがあるから、自分たちで決着をつけようとするし、決着がついたあとでもまだ関係を再開したりするだけのパワーがある。逆に、中年の方のカップルは、実質的にエネルギーが尽きてしまっているから、終わったことにできないというか、終わらせてしまうと完全に終わってしまうから、終わりを迂回しようとする……。それは僕のなかでだけの若者と中年のイメージかもしれないけれどね。
───山脇さんは、若いカップルの男性役になりますが、さっきおっしゃっていた彼の「静かな演技」というのは、役に合っているんでしょうか。 |
広田 今のところは、彼の演技は、僕が戯曲を書いていたときに思い描いていたものよりも、はるかに地味で、動きもないし、表情もないし、振り幅みたいなものがない。ないんだけれど、なくても、もしかしたら成立するかもしれないと思わせる演技なんですよ。それは単に派手にやることができないとか、戯曲が読めていないというのとはまったく異質な演技なので、今はまだ、彼の好きなようにやってもらっています。ただ、最終的にどうなるのかはかなり未知数です。
───『うそつき』の方は、もう何度目かの再演ですが、演出をガラッと変えたりということはありますか。 |
広田 そんなに大きく変えるつもりはないけれど、演技や動きは過去のものをなぞる気は全然ないから、役者次第で全然変わっていっちゃうでしょうね。それはそれでいいんじゃないかな、と思っている。この戯曲は、他人事みたいに感じるというか、わりと自分にとって距離のある作品、自分じゃない人が書いたようにも感じられる作品なんですよ。『天国への登り方』のような作品とは違って、『うそつき』は、自分にとっての喫緊の問題、個人的な問題からは遠いところで書いているから、或る種クールに全体像を見通せてしまえる。登場人物が四人だけで、作品世界が持っている総合的な情報量が減っているだけに、作劇の上で情報を整理しやすかったし。だから俳優次第でどんどん変わっていってしまうことに抵抗がない。むしろ、作品がどういうふうに変わっていってくれるのか楽しみですね。
(聞き手・稲富裕介)