イプセン✖アマヤドリ 劇団員インタビューvol.3 ワタナベケイスケ

他の作家に浮気することもなく、古典といえばイプセンてな具合で取り組んできたアマヤドリ。
これまで『ヘッダ・ガーブレル』『海の夫人』『野がも』と3作品を上演してきました。
出演していた劇団員に当時の思い出を聞いてみました! 

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ーー出演作についてどういう作品であると考えていましたか? また、自分の役はどういう存在であると認識していましたか? その考えは当時と今とで変わりましたか?

『野がも』で僕が演じたグレーゲルスという役は、白黒はっきりさせたい、全てを明らかにしてそこから再スタートを切ったらいったらいいんじゃないか? と主張し、結果悲劇をもたらす事になるキャラクターでした。

当時、自分としてはグレーゲルスというのは特殊なタイプの人間で、倉田さんが演じていたヤルマールのような人物が多数派であると思っていました。

ですが、近年においてはグレーゲルスのような人物が多数派なのではないか、という感覚があります。

当時、変わった人だと思っていたグレーゲルスの性質が、実は人間の本質なのではないか、と思えてきたということは当時と今とで変化した部分です。

ーー広田演出でイプセン作品を上演する良さや面白さがあれば教えてください。

広田さんのオリジナル戯曲とイプセンの戯曲は共通する部分があると思っていて、それはどちらもパワーが必要であるという事だと思います。

単に大きな声を出すということだけではなく、その場に存在し台詞をいうために、とにかくパワーが必要という部分で非常に親和性がある。

 

広田さんは最近あまり言わなくなりましたが「孤独と連帯」という作家としてのテーマがあるんです。

その言葉から僕が受ける印象は、閉塞感だったり不安定感。息苦しく感じる場や人間関係、どんなに開放的な場所にいても檻に閉じ込められているような感覚は人間だけがもつ独自のものだと思いますし、そこにイプセンとの親和性を感じます。

演出家としての広田さんが求めるものも、強度とダイナミズム、人間同士のやり取りの細かさ。

イプセン作品を広田さんが演出するということは、確実に強度の高い俳優が見れる、という面白さがあると思います。

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ーーアマヤドリのオリジナル戯曲を上演する時と比べて気をつけた点などありましたら教えて下さい。

『ヘッダ・ガーブレル』が自分にとって初めての古典だったこともあり、慎重に取り組もうと様々なことを調べました。

さすがにノルウェー語の原文は諦めましたが、英訳版を読んだり、様々な日本語訳を読み比べました。

やはり読み比べてみると翻訳によってかなりキャラクターの輪郭が違って見えてきて面白かったのを覚えています。

広田さんのオリジナル戯曲だと俳優に当て書かれている事も多いのである種楽をしている部分もあるとは思いますが、古典となるとほとんど更地です。

当たり前の事だとは思いますが、当時の歴史や舞台設定の地理的なことなど調べたり『ヘッダ・ガーブレル』はかなり慎重に取り組みましたし、その後『海の夫人』『野がも』と作品を重ねる毎により慎重になっていきました。

ーー当時の思い出があれば教えてください。

『ヘッダ・ガーブレル』と『海の夫人』は身体的にも台詞的にも制約を設ける演出でした。

直線的にしか移動しない、台詞を口語に近づけないとか。当時かなり苦労した記憶があります。

ただその分戯曲そのもの、台詞の意味とゴツゴツした状態で対峙することが出来たと思います。

 

例えば戯曲が革のジャケットだとして、普段だったらなめしたりして身体に慣らすことができる。

ただ今回はそれが禁止されていたので、ジャケットそのものが持った機能、質感を今まで以上に見る作業ができた、という感覚です。

まず中心に台本があり、その一つ外側に客観的な解釈があり、その更に外側にどう演じるか? のプランがある、と考えているんですが、この外側二つの境界が曖昧にならないための訓練になったと思いますし、どんな戯曲でも最初はこう出会うべきだと思いました。

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ーー今回の出演者に向けて応援メッセージなどお願いします。

広田さんは俳優の演技そのものに強い関心があるので、2バージョンどんな演出の違いがあれど、広田さんが俳優に求める演技の原始的な強度を楽しみにしています。

 

昨年自分が『代わりの男のその代わり』に出演して改めて思いますが、広田さんが求めるそれは簡単に実行できるものではありませんが、僕はそれを信じていますし見てる人にも伝わると思っています。