「高校生と創る演劇」──。
穂の国とよはし芸術劇場PLATにおいて
現役の高校生たちが、プロのスタッフと共に
舞台作品の創作に取り組む企画。
今年第11回を迎えるその企画の第1回目は、
奇しくも、「穂の国の『転校生』」
(作:平田オリザ/演出:広田淳一)でした。
穂の国とよはし芸術劇場PLATと
アマヤドリのかかわりの端緒として、
2014年の「穂の国の『転校生』」を
広田と当時の参加メンバーを交え、
十年後の今、振り返ります。
【座談会参加者】 広田淳一(ヒロポン) 松尾理代(りっちゃん) |
松尾 それでは座談会を始めていこうと思います。よろしくお願いします。
全員 よろしくお願いしまーす。
松尾 アマヤドリは6月に新作『牢獄の森』を「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」にて上演いたします。そのPLATで毎年開催されている企画「高校生と創る演劇」の、第一回〔2014年〕では、広田さんが演出家として呼ばれ、当時の高校生たちと一緒に演劇創作に取り組みました。今回、その第一回に出演していたメンバーと広田さんとで、当時を振り返る座談会をやっていきます。
まずはみんな簡単に自己紹介をお願いします。名前と、当時のあだ名、加えて何か一言いただければ。
中神 中神真智子です。当時は「まっち」って呼ばれてました。今は東京で俳優をつづけています。
松井 松井瀬奈です。ニックネームはそのまま「せな」でした。今もせなです。名古屋大学の大学院の博士課程の二年生です。たまたま今、半年だけドイツに留学している期間なので、ドイツから参加しています。
伊藤 伊藤由佳です。みんなから「伊藤園」と呼ばれていました。最近は……のんびり暮らしてます。
佐伯 旧姓白井、今は佐伯なつ美です。当時は「なっちゃん」と呼ばれていました。何か一言……うーん、母親、偉大だなって思っています〔※佐伯さんは母親になったばかり〕。
田中 田中友梨奈です。当時はそのまま「ゆりな」って呼ばれていました。もしくは「ジブリ」って呼ばれていました。今は商業施設をマネジメントする会社にいて、大阪の土地で広報などをしています。
松尾 松尾理代です。「りっちゃん」と呼ばれていました。現在はアマヤドリの劇団員をしていて、昨年母親になりました。今日はみんな、よろしくお願いします。
では早速、みなさんに質問しちゃいたいと思います。まず、PLATの「高校生と創る演劇」という企画に興味を持ったきっかけと、この舞台に立とうと思った動機を教えてください。
田中 私のきっかけは、母親が「こういうオーディションあるみたいだよ」って見つけてきてくれたことでした。もともと演劇はやったことなかったけれど、クラシック・バレエをやっていたので、舞台には興味があって、同じ年代の高校生と知り合える機会だなと思ったので、好奇心というか、軽い気持ちで応募しちゃいました。
佐伯 お母さんが見つけてきたんだ。
田中 そういうのにアンテナを張っている母だったので、演劇とかダンスとか、舞台系の作品やイベントがあれば「こんなのあるけど観に行く?」「こんなのあるけどやってみたら?」って教えてくれて、その一つに「穂の国の『転校生』」があった感じです。
広田 りっちゃんもそんな流れじゃなかったでしたっけ?
松尾 そうです。うちも、母親が「学芸会のとき楽しそうだったね。こういうのも楽しいかもしれないよ」って教えてくれました。たしかに、と思って応募しました。
広田 なっちゃんは、もともと演劇をやっていたんですよね。
佐伯 そう。私はすでに演劇部だったから、アンテナ張ってたってのもあるけれど、将来の夢が「女優」だったので、「いつか東京行くぜ!」という野心もありつつ、面白そうだなと思って受けました。
広田 まっちも演劇部でしたよね。
中神 演劇部でしたけど、それより前、PLATが開館した中三の頃から、私はPLATでやっているワークショップとか受けに行っていて、オーディションの情報も自分で見つけました。高校一年のまだ入部する前だったと思います。しかも、戯曲が平田オリザさんの『転校生』だったじゃないですか。ちょうどその年の高校入試の現代文でも平田オリザさんの文章がたまたま使われていたので、これは運命じゃね? やるしかないと思って応募しました。
広田 せなちゃんはどういうきっかけでしたか?
松井 私もまっちと似ているかもしれない。私はもともとミュージカル女優になりたくて、中学までミュージカルをやっていたんですが、演劇も、新しい世界として触れてみたいなと思って、高校は演劇部に入りました。でもたぶん、応募は演劇部に入る前ですね。なんか、豊橋にPLATっていうヤバい施設ができたって話題になってた頃で。
全員 (笑)
佐伯 たしかに。当時ヤバかった。
松井 オーディション受かればPLATの舞台に立てるぞと思って、応募しました。
広田 そうか。僕はPLATができてからの豊橋しか知らないけれど、PLATがあるかないかで、駅前の風景って全然変わりますもんね。
松井 すごい施設ができたぞって、わが家で話題になってて。たぶん私も母が情報を見つけてくれて、教えてくれたんじゃなかったかな。
広田 伊藤園は、どうでした? あなたはバトミントン部でしたよね。
伊藤 そうですね。私は、叔母が舞台が好きで、チラシを見つけたみたいで、「やってみたら?」って勧められて、私も「やってみようかな」というノリでした。
広田 今でも覚えているのが、伊藤園、結構大きい役だったのに、本番直前の時期にバトミントンの練習あるから抜けます、みたいなことが何度かあったよね。
伊藤 そのときバトミントン部でも副部長で、頑張っていたんですよ。部員からは、「副部長が休むって何なの?」って言われるし、演劇の方では、「伊藤園、そんないい役なんだからもっと稽古を……」って言われるし、板挟みで大変でした。
広田 大変でしたよねー。
広田 まあ、みなさんも当時の僕の年齢に、だんだん近づきつつありますよね。
松尾 当時お幾つだったんですか。
広田 当時三十五歳だよ。
全員 へー。
佐伯 じゃあ、今四十五歳? でもヒロポン全然変わってないね。
広田 いや、変わってる変わってる(笑)
松尾 では、次の質問いっちゃっていいですかね。「穂の国の『転校生』」に実際参加し、集団での演劇創作をやってみて、事前の予想とちがっていたことがあれば、教えてください。
広田 どうだったんでしょう。
中神 いい意味で上下関係がなかったと思う。対等に、大人たちも私たちをプロの俳優のように扱ってくれたし、高校生のあいだでも、学年はちがうけど、年上の人が先輩だぞっていう態度を取らなかったし、新鮮だった。学校の部活だと、やっぱ上下関係がしっかりあるから。意外だった。
松尾 分かる。学年のちがいって学校生活のなかで大きいのに、学校も学年もちがう女の子たちが、一丸になって良い舞台を作りたいって想いでひたむきに進む感じが、すごい居心地がよかった。理想的な創作環境だったんじゃないかって、今になっても思う。
広田 たしかに。りっちゃんは当時一年生で、なっちゃんが三年生、ゆりなが二年生とかで、混ざってましたもんね。
佐伯 じつは私は、バチバチにみんなライバルだって思ってました。
松尾 え?
佐伯 そういうのはそんなに見せなかったけれども。三年だし。先輩だし。引っ張っていく立場だし。でも、負けたくないっていう気持ちは、一方でありましたね。「女優になりたい」って夢が自分にはある以上、演劇に賭けるエネルギーでは負けないぞって。バトミントン部には負けないぞって。
伊藤 (笑)
佐伯 でも完成したときには、「みんなすごいな」って思いましたね。学校の演劇部ではリーダーを張ってた私だったけれど、バトミントン部の人も、ダンスやってたっていう人も、名古屋から来ましたっていう人も、一年とか二年とか関係ない、舞台上ではみんなまじですごいなって思いました。自分は井の中の蛙だなって。リスペクトの気持ちに変わっていった。この企画じゃないと見えない世界があったな、って思います。
広田 へー。それはかなり意外だった。全然そんな雰囲気に見えなかったから。なっちゃんは一番リラックスしてるように見えてました。
佐伯 じつはバチバチでした。
松尾 ゆりな先輩はどうでしたか。
田中 いや、それこそ私はなっちゃんの逆側で、ど素人が混じっちゃったって感じでした。過去演劇をやってきた人とか、女優を目指している人とか、すでにアイドルやってる人とか、目標に向けて頑張っている意識の高い人たちがいるなかに、「楽しそう」って好奇心だけで入っちゃった、みたいな。だから最初は、ついて行けるだろうかって不安はあった。でもみんないい人たちだったし、同じ女子高生っていう括りにはいるわけで、すごく刺激にもなりました。同じ歳で、同じ豊橋に住んでて、ここまで志高い人たちがいるんだっていうことが。私は、演劇の「え」の字も知らなかったけど、自分の出せる精一杯のものは出し切らなきゃなって思えました。
本当にすごいところに入ってしまったっていう、そのギャップが一番印象的でした。
広田 伊藤園も同じような感じでした? 演劇の経験はなかったという意味では。
伊藤 まったく経験ない状態で、ポーンって入って。周りが演劇経験ある人ばかりだと怖いかなって思ってたけど、でも、意外と、みんな優しくて。それと、ゆい〔彦坂祐衣〕という仲間を見つけて、こいつと一緒にやろうって感じで頑張れました。ゆいも水泳部だったので。
結構軽く見てたんですよね、自分のなかで。PLAT自体がどんなところかも全然知らなくて、それまで演劇からも離れていて。「行けるっしょ」みたいな感じで行ったら、かなりガチガチだったから、焦りはしましたよ。ちゃんと。
佐伯 高校生だからね。普段は誰か先生や指導員が教えてくれる、やらせてくれる、っていうのに慣れていたけど、「穂の国の『転校生』」の現場は、ヒロポンの言うことに合わせればいいや、って感じではなくて、「あなたたちも考えなさい」「考えて動きなさい」って言われて。「ちゃんとお金を取る演劇をやるんだから」って。高校の部活とは全然ちがって、そこは大変だったよね。
広田 たぶん初年度っていうことで、予算も潤沢にあって、劇場さんも力の入った対応をしてくださっていたからね。僕からしても身の引き締まるような現場でしたよ。
松尾 私は思ったよりずっと楽しくて、その点で予想を裏切られました。
全員 へー。
松尾 私は学校に友達がいなくて。本当に家にずっといたから、「穂の国の『転校生』」は、すごく楽しかった。同じ学校の同級生との関わりとみんなとは全然ちがってて、それは、演劇という共通言語があるからかな、と考えて、その後も演劇やりたいなって思うようになりました。私もそれまで演劇の「え」の字も知らなかったんですけど。演劇になら自分の居場所があるかもしれないって。
佐伯 じゃあ、りっちゃんの人生を変えたくらい大きい経験だったんだ。
松尾 そう、人生変わってる。
広田 りっちゃんはとくにそうかもね。
松尾 当時、精神的にずっと追い込まれていたけれど、生きることにすごく前向きになれた。
佐伯 それは意外だった。
松尾 私はみんなと全然しゃべれなかったから、こうやってまたみんなとゆっくりお話できるのは嬉しいですね。
広田 せなちゃんとかはどうだったんですか。
松井 私は、さっきもお話ありましたが、スタッフさんも一流の人たちが呼ばれてて、すごい舞台にお金が掛かってたじゃないですか。それが分かっちゃって、ビビっちゃって、わりと萎縮してました。二年生、三年生の年上の人も多いし。やり辛いなと感じる私と、けど、そこから頑張るぞっていう私と、二人いた気がします。
広田 稽古の段階から盆〔回り舞台〕がちゃんと回ってましたからね。あれは歴代の「高校生と創る演劇」のなかでも、お金が掛かった舞台だったかもしれない。
佐伯 矢作さん〔※矢作勝義。穂の国とよはし芸術劇場PLAT 副館長・芸術文化プロデューサー〕元気かな?
広田 お元気ですよ。あの方しょっちゅう東京に来ていて、僕らの劇もよく見てくださるし、東京の演劇にも通じている。本当に、一年間に何十往復もしてるんじゃないかな。
中神 私も、矢作さんに東京でよく会います。
佐伯 へー。
広田 ところで、僕から訊いてみたいんだけれど、みなさんにとってこの十年はどうでしたか? 「穂の国の『転校生』」の経験が、この十年でどう効いてきたのか、効いてこなかったのか。人によって全然ちがうと思うんですよ。それこそりっちゃんなんかは、大幅に人生変わってしまったという方でしょうし。
松尾 私はあれから、演劇やりたいと思って、大学も演劇の大学に行って、アマヤドリのオーディションを受けて、アマヤドリに入団して、っていう感じでしたから、だいぶ変わりました。精神的にもだいぶ成長できたなって思うので、やってよかったなと思います。人を信じるってことを、初めて経験できた。
広田 それまでどんな人生だったんだ(笑)
佐伯 りっちゃんは、人生のなかで演劇がまだ側にあるイメージだよね。まっちもそうなのかな?
中神 そうだね。私がりっちゃんとちがうのは、「穂の国の『転校生』」に参加する前からずっと「演劇やりたい」という気持ちがあったこと。でも参加したことによって、やっぱり演劇のなかでも、小劇場がいいなって思えるようになった。ぼんやりとお芝居やりたいなっていう考えから、さらにどういう演劇がやりたいか、クリアになったというか。それから、私も、上京したかったのと、学費とかもろもろの都合とで、演劇の短大に行って、卒業後は岩本好礼さんが主宰していたperrotという劇団に入って、演劇をつづけました。でも、劇団に入って一年ぐらいで、コロナ禍になってしまって。出演予定の公演が全部飛んだりして、そのあとで劇団も解散することになって。演劇やりたいって気持ちはあるけれど、環境的にできないっていう状況がつづいて、挫折を感じたりもしました。
でも演劇に対するやる気はふつふつとあって、今は、2022年から劇団チョコレートケーキの長期ワークショップに参加させていただいていて、そこで、同年代から大学生までの人たちと、月一ぐらいでワークショップをやっています。今三年目かな。その、同年代と一緒に創作するという環境が、ちょっと「穂の国の『転校生』」と似てるなと感じてます。ただ、高校生のときは全然言語化できなかったものが、ここ十年を経て色んな蓄積されてきたものが効いてきて、言語化できるようになりましたし、表現も、昔はできなかったことが、「こうしたらこうできるんじゃないか」って予想を立ててやれるように、少しずつなってきたなっていうのは、十年かけての進化だし、変化かなって思います。
佐伯 まっちは演劇をつづけてるんだよね。ブレない。
広田 まっちは最初から超やる気だったもんね。「絶対出たいです!」みたいな物凄い勢いを持って来てくれたのを覚えてますよ。
松尾 なっちゃんはどうなんですか?
佐伯 私は、大学生の頃まではまだ人生で演劇が頭にあったけれど、社会人になってからは一旦離れた感じです。でも、高校生のあのタイミングで「穂の国の『転校生』」に出てなければ、色々迷っていたと思う。やっぱり「女優」になるなら、テレビに出て、全国の誰でもに観られたいとそれ以前は思っていたのだけれど、舞台で、チケット持って劇場に来てくれた人に観てもらう、それも嬉しいことなんだなって感じて、身近な人を楽しませることの方に喜びが移っていった、ということがあるから。それで、「女優」っていう目標は薄れて、他のやりたいことを探して社会人になった、という感じ。
そうして仕事をやるなかで、振り返ることはあります。あのとき、ヒロポンが「演劇は生ものだ」みたいなことを言ってたんだけれど、そうであれば、今生きているこの私も「生もの」なんだから、どういう選択をしても私は私だ、後悔しないでいいんだ、今のこの瞬間の選択が私なんだなって、思うことができたり。そんな十年でした。
広田 なっちゃんが出産したっていうのは、すごい驚きでしたね。ご結婚されたっていうのは聞いていたけれど。
松尾 伊藤園はどうですか?
伊藤 そうですね……私は「穂の国の『転校生』」の次の年の「高校生と創る演劇」の企画にも出ました。それで、こういう道って楽しいなーって思い、就職も進学もせずに、事務所に通って、女優を目指しました。私は家族に観てもらいたかったんですね。でも当時、お爺ちゃんが入院していて、舞台だとお爺ちゃんには観てもらえないから、映像の方を頑張ろうとしました。
でも、そのお爺ちゃんが亡くなって、そのとき、事務所の人から「今は稽古しているだけだからお爺ちゃんの死に目にも会えたけど、実際この仕事を始めたら仕事優先だから家族の死に目に会えないかもしれないよ」と言われて、それは絶対嫌だ、私は家族大好きだから、それは無理だなと思って、辞めました。
でもお芝居っていう経験をさせてもらって、自分のなかでは、やりたいことをやっていいんだっていう自由さが生まれて、今も、自分がやりたいと思うことをずっとやっています。海外行きたいからカンボジア行ってきまーすとか。やりたいことをやらせてもらってきた十年でしたね。
松尾 ゆりな先輩はどうですか。
田中 私はもともとみんなとはベクトルがちがったかなと思っていて。「穂の国の『転校生』」に参加して、もちろんすごく楽しかったし、いい経験だったのは間違いなかったんですけど、演劇の道を行きたいというよりは、私は自分が何かをすることで、周りの人を笑顔にすることが好きなんだなって自覚して。もちろん舞台に立って、台詞を言って、お客さんを笑顔にするっていう方法もあるけれど、もっと多くの人を笑顔にしたいなっていう考えが、なんとなく自分のなかで生まれてきました。
それで、就活面でも、エンターテイメントを人々に届ける、っていうことを目標にして、劇団四季とか、東宝とか映画系も受けて。で、商業施設の運営をやっているところも受けて。最終的に迷ったんですけど、より自分の好きなように、自分の思うことを届けることができるのはどれだろうかと考えたときに、商業施設のイベントやキャンペーンやプロモーションの企画の自由さに惹かれて、そちらを選びました。
だから、ベクトルは演劇とはズレていくんですけれど、自分の頑張りによって、エンターテイメントを多くの人に届けて、周りの人に笑顔になってもらえたら嬉しいな、っていうのはずっと根底にありつつ、今の仕事をつづけています。お買い物に来てくれた人たちに、笑顔になって帰ってもらうにはどうしたらいいのか。そのために企画したり何だりっていうことに、やりがいを感じています。
広田 プロデュースする側に立ったわけですよね。
田中 バレエとか演劇とか、幅広いエンタメを少しずつ経験してきたことにより、自分の目標が見えてきたって感じでした。
広田 せなちゃんはどうですか? またあなたも変わった道を歩んでますよね。
松井 振り返ると、「穂の国の『転校生』」に参加して、色々自分のなかで葛藤があったんですが、結果、すごい積極性を持つことができるようになったなって思っています。チャンスがあったらすぐに掴みに行く、みたいな。「穂の国の『転校生』」自体、自分の個性を積極的に出して行かなきゃならない現場だったから。
そして、私次の年の「高校生と創る演劇」も出たんですけど、その前に、名古屋でプロの舞台に出させてもらったことがあって、そこで、完全に挫折したんですよ。めちゃめちゃすごい劇団員の人がいて、私この人みたいになれんわ、無理だ演劇、みたいになって。二作目の「高校生と創る演劇」でも、本番一週間前に肉離れになってしまって、みんなに迷惑掛けちゃって、心身ともに演劇は無理だ、辞めようって決めたんですよ。好きだったけど、これをずっとやっていくことはできないなって思って。
だったら、演劇をつづけながらでもいいから、べつのことを探さなければと思って、昔から好きだった「宇宙」のことに行き着いて。
全員 へー。
松井 そこから大学受験のために勉強して、今は大学院から名古屋大学です。「宇宙」って一言で言っても、何を勉強するのか、色々あるんですが、私は好きだった宇宙、そして演劇の経験も活かせる仕事として、プラネタリウムで働く人になりたいなと考えています。自分の好きな宇宙のことを、自分が培ってきた演劇などの表現を使ってみんなに伝えられたらなって。
それでも、宇宙のことをみんなに伝えるには、まだまだ専門性が足りない、経験が足りないと思って、勉強しつづけて、気づいたら博士課程に入ってました。
広田 でももう実際、プラネタリウムであなたがナレーションする、みたいな仕事をやってらっしゃるんでしょう?
松井 やってみない?ってお誘いがあったので。まだ学生ですけど、呼ばれたら、宇宙についての講演会とかもしたりします。
全員 すごい。
広田 ドイツはなんで行くことになったんですか?
松井 ドイツはプラネタリウムの発祥の地なんですよ。今からちょうど百年前にプラネタリウムはドイツで生まれたんです。その発祥の地で、共同研究ができたら面白そうだなって思って、全然つながりとかなかったんですけど、自分で急にドイツの教授にメールを書いたりして。Zoomミーティングとかして。それで縁を作って、今ドイツの研究室にいます。
佐伯 半端ない。
松井 この積極性も、「穂の国の『転校生』」に出たからこそのものかな、って思います。
広田 ガチじゃん。大学の教授とかになったっておかしくない経歴ですね。
松井 いえ、でも、私はプラネタリウムで働きたいので。プラネタリウム界はすごい狭き門なんですよ。待遇が良いわけではないのに、花形だから、みんなやりたい仕事で。ちゃんとしたところで一生働きたいって思ったら、倍率がとんでもない、三十倍、四十倍みたいになります。だから今は実績を積み重ねていって、募集が出たら試験を受ける、みたいな感じです。
広田 ドイツに永住しないでくださいよ。
全員 (笑)
松井 帰ります(笑)
広田 しかし、みんな色んな人生で、分からないものですね。りっちゃんみたいに、演劇に興味なさそうだったところから変わった人もいれば、まっちみたいに、演劇への情熱がまっすぐ伸びていっている人もいて。
松尾 「穂の国の『転校生』」の経験は、確実にみんなの人生に何かしらの影響を与えていますよね。
広田 僕にとっても大きい経験だった。よくあるタイプの企画でもないし。たまに一日だけ高校生とワークショップをすることもあったりはするけど、オーディションから考えたら半年〜一年というスパンでみなさんと関わらせてもらって。稽古にも一ヶ月掛けて。高校生にとって一ヶ月って大きいものですしね。そしてその後も、ちょこちょこ折に触れてお話する機会を持たせてもらったり、みなさんも会いに来てくださったりするので、なんか、勝手に豊橋にホーム感を感じるようになっています。冗談じゃなく、豊橋って、僕が関東圏以外で一番行っている土地かもしれない。
全員 へー。
広田 このあいだ、つい一ヶ月前にも豊橋行きましたよ。矢作さんに呼んでいただいて、イベントに出るために。
あと、去年か一昨年か、それこそゆいちゃん〔彦坂祐衣〕が、今看護師やっているけどもう一度演劇やるかどうか悩んでる、僕に相談に乗ってほしい、と思っていたようで。そしたら伊藤園が、「ヒロポンなんてあたしが呼んだらすぐ来るよ」って請け合ったらしくて、僕呼ばれて。
全員 (笑)
広田 行きましたけどね。それで相談に乗って。訳分からないんですけど、ついでに三人で豊橋の動物園とか行ったんですよ。ただ喋ってるのも暇だから、動物園行っちゃう?とか言って。
松尾 のんほいパーク?(笑)
伊藤 そう(笑)
広田 こんなふうに、ちょっとした付き合いをつづけていただいているのも、ありがたいことです。まあ、アマヤドリの公演などもまた観に来ていただけたらありがたいですけど。
松尾 6月の14日から16日まで、PLATでアマヤドリの新作やりますんで、ぜひ。
広田 そうじゃないタイミングでも、またゆっくりお話できたらいいですね。本日は座談会に参加していただきありがとうございました。
全員 ありがとうございましたー。
PLATレジデンス事業 新作共同制作
アマヤドリ本公演
『牢獄の森』
作・演出 広田淳一
2024年 6月14日(金)~16日(日)
@穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
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