【雨天決行】倉田大輔 ロング・インタビュー(中)【season.7】

(photo by bozzo)

アマヤドリ屈指のベテラン俳優、倉田大輔

その倉田さんへの長時間インタビュー、
中編です。

/ 中 /

戯曲を読む上での立体性

(つづき)

─── ここまでは倉田さんが演劇をやっていく上で影響を与えたものについてうかがってきたわけですが、次は少し傾向を変え、「倉田さんにとって良い役者とは何か?」ということを訊いてみたいと思います。他の役者の方々を見るときに基準になっていることなど。

倉田大輔  うーん……。難しいですねなかなか。

─── では、少し質問のかたちを変えてみます。かりに倉田さんが今、若手の俳優を相手にワークショップをするとなったら、どういう内容のワークショップをしようと思いますか?

倉田  ワークショップか……。

─── ご自身が培ってきたもののなかで、これなら人に教えられるなと自信を持っている部分というか。

倉田  若手の人に……。何ができるだろうな。

─── 要は、ご自身の演技に関して言語化できている部分ということになるでしょうか。

倉田  言語化か……。これは最近稽古場で広田さんにもちょっと言われたことなんですけど、「倉田さんは勘だけでやってますよね」と。

─── (笑)

倉田  もちろん劇団のなかでは、プロデュース公演なんかよりもう少しお互いの関係が密だから、「どういうふうにやっているのか」っていうのを稽古の最中に共有する場が生まれたりすることもありますけど、そういうときでも僕は、基本あまり喋らないし、あまり言わない。

 そういう意味では、言語化することへの苦手意識みたいなものが自分のなかにはありますし、また、言語化してしまうことの怖さみたいなことも、感じているところはあるんでしょうね。言語化できる人自体は、僕は好きなんですよ。たまに俳優さんでも非常に言語化が上手なタイプの方がいて、そういう方の話は聞いていても面白い。ただ、なんとなくそれは言語化されなくても自分もやっていることだな、と感じる部分もある。

 やっぱり、どこまで突き詰めてもブラックボックスというか、演技に関して言語化しきれるということは絶対にないと思うんですよ。どのレベルまで細かくやればいいのかという問題もあるし。そういう意味で、言語化することに対する怖れみたいなものが自分のなかにあるのかなという気はしています、昔から。

 とはいえ、自分も演劇を長いことやっているので……さっきも言ったように、おいそれと他の役者さんに「あなたはこうですよね」みたいなことは、とても言えはしないんですが、劇団で、しかも後輩とかだったりすると、単純に経験値の問題として、結構言ってあげられることはあったりはします。

─── それはたとえば、その後輩の方があるシーンで苦労されているときに、アドバイス的に介入したりするということでしょうか?

倉田  いえ、そういうときには言えることってあまり多くないです。そういうときって、その役者さん自身が、いろんなものが見えなくなっちゃっている状態だと思うので。演出家からのオーダーに応えられていないとか、自分のなかでもイメージが膨らまないとか、単純に相手役とのやりとりがうまくいかないとか、そういった色んな要因でちぢこまってしまうと、当然良い演技なんてできないですから、「もうちょっと思い切りやろう」とか「やってみたらいいじゃん」とか、励ますことぐらいしか言えない。

 それよりももっと、本人の演技がかたまってきたときの方が、僕は何か言っている気がしますね。たぶん本人としてはこういうふうにやりたくてこういう演技になっているんだろうな、っていうときに、でもそれでやっていくと、こういうふうに見えてしまうから、ちがうアプローチをした方がいいんじゃないか、そのアクションは排除していいんじゃないか……的なことを言ったりします。割合具体的に言っている気がする。

─── それは、その役者さんがやろうとしていることを汲み取った上で、それとパフォーマンスがズレているということを、倉田さんは分析できているということでしょうか。

倉田  分析できているかどうかは分からないですけれど。そう感じることはあります。とくに同性の役者さんであれば、やりたいことはなんとなく拾える部分は多くて。今劇団にいる若手の男子には全員何かしら言ったことはある気がします。逆に、女優さんに対してはあんまり細かく言えることはない。分からないので。

─── であれば、倉田さんにとっては、その役者がやりたいこととパフォーマンスにズレがないと感じられる役者が良い役者だということになるでしょうか。あるいは、そこがスタートラインということかもしれませんが。

倉田  そうですね。それができていて、さらにそこでオリジナルなものを発揮されている役者さんとかを見ると、すばらしい人だなと思います。

─── なるほど。ありがとうございました。

 では次の質問にいきます。戯曲読解について、です。上演台本を渡されたとき、まず科白の内容が伝わるようにやるっていうのは大前提として、でも、実際には「戯曲を読む」作業ってただそれだけにはとどまらないですよね。プラスアルファとして、倉田さんがどのように戯曲読解をして、どのような準備をして稽古にのぞんでおられるか、それをお聞かせいただければ。

倉田  うーん……。基本は、脚本にはストーリーがあって、キャラクターがある、そこに焦点を置いて深く考えるっていうだけではありますが。

─── 極論、たった一行の科白でも読めているか読めていないかという相違はあると思うんですね。たとえば相手を傷つけようとしている科白でも、その悪意を汲み取れていないと、全然迫力のないものになってしまったり。戯曲読解が漠然としているのとそうでないのとの差はあるのではないか。

 具体例を挙げます。2024年の6月と8月に上演したアマヤドリの『牢獄の森』、この作品には倉田さん演じるテーパという役と、徳倉マドカさんが演じるユニファという役との、牢獄での面会というかたちでの一対一のやりとりがありましたね。

倉田  はい。

─── あそこのシーンは、自分が戯曲だけで読んでいるかぎりでは淡々と進んでいく印象があったんですよ。でも実際の倉田さんのパフォーマンス、そして徳倉さんのパフォーマンスというのはかなり起伏の激しいものになっていて、たくさんのせめぎ合いや押し引きのあるシーンになっていた。たとえば突然倉田さんが食い気味に「ちがうちがうそ−じゃなくてユニファはどうなのってえー元気にしてるんですかぁ?」みたいに科白を早口に強く言って相手を押し戻したり、ユニファが「妻じゃん?」って言ってからの「勘弁してよもうホント!!」と椅子から立ち上がって後ずさりして言う科白の激昂したテンションであったり。それらは、単純に戯曲の文字面を追うだけでは出てこないだろうなと思います。

倉田  なるほど。ただ、そういう部分は、僕としては戯曲の読解っていうこととはちょっとちがっていて。読解というと、それこそ古典だったら色んな読解があって専門家による細かい解釈も色々ある思うでんすが、正直僕はそこまでの読解、脚本を分解するようなレベルでの読解は基本的にはやってないです。まずはストーリーを普通に読む。そして、自分のやるキャラクターについて、そこに自分がそのストーリーでそのキャラクターで置かれたときに本当に自分がどうするか、っていう振り幅を考える。それはもちろん稽古をやりながらではあるんですが、そのなかで探っていっているという感じです。

 さっき稲富さんがおっしゃったテーパとユニファのやりとりも、たしかに文字面では淡々としていたかもしれないし、もしかしたら僕も最初に読んだときは大した起伏もなく読んでいたかもしれないんですけれど、科白を入れた上で、そのストーリーのなかで、そのキャラクターとして自分を投じたとき、そこで出てくる生のリアクションだとか、生の感情だとかを見出して、そういったものを大切にしてやった結果だろうと思います。ステレオタイプになりすぎないように、なんとか立体的ではありたいという思いは、すごくありますね。

─── 「立体的」……? その表現は面白いですね。

倉田  なるべく、やりすぎないようにはしたいんですけど。僕はどっちかって言うと「やりすぎだ」って言われる方のタイプです。

─── 立体的、っていうのは二次元ではなく三次元のイメージになるわけですが、何かその「やりすぎ」に関して、空間的なイメージがあるのでしょうか?

倉田  何だろう。映像であれど舞台であれど、立体的であった方がいいと自分は思っているのですが、舞台であればより立体的であった方がいいと感じているかもしれません。お客さんを含めた劇場の空間があるので。そういうことは少なからず意識していると思います。無駄に大きい声出すのとか好きですし。

 でも、基本的には、お客さんを意識した意味で「立体的」って言っているわけではなくて、あくまで戯曲を読む上での立体性、ということなんですけれど。その瞬間その瞬間、自分の役が持っている感情なりモチベーションなりのなかで、相手役との関係性が最大限出るようなかたちを目指す、というか。

 何が面白いのか、っていうのは難しいですけれど。芝居の面白さって、難しいじゃないですか。お笑いみたいに笑えればいいということではないから。淡々としているやりとりが面白い場合もあるし、激しいやりとりが面白い場合もある。いずれにせよ、自分はそのシーンが面白くなるようにとはつねに考えています。ステレオタイプにならないように、それでいて面白くなるように、立体的に……というイメージで。

─── なるほど……。では、具体的なことの方が話しやすいかもしれないので、さらにお訊きします。2024年3月にアマヤドリが上演したイプセンの『人形の家』、倉田さんはその「激論版」にトルヴァル・ヘルメルの役で出演されました。このパフォーマンスは本当にすばらしかったと思います。

倉田  ありがとうございます。

─── とくに一番注目したいのは、「茶番は止めろ!」という科白からの最後の一連のクライマックスのシーンですね。手紙を読んでからノーラを責めていくというシーン。あのくだりのダイナミズムというのは、単純に声量というだけではなく、舞台を広く使ったり、椅子を倒したり、ということも含めてのダイナミズムだった。あのシーンの科白自体は、相手のノーラの反応は基本薄くて、ほとんどトルヴァルの内部から湧き上がるものだけで圧が生まれていて、トルヴァル自身の科白によって彼一人どんどん興奮させられていくようなところがあり、単純に相手役とのやりとりということではない難しさがあったと思います。さらには「おしまいだぁ〜」ってすごく情けない声を出したり、もう一つ別の手紙を読んだ後「ノーラ、俺は助かったよ!」からの変化とか。全部トルヴァル自身の内部でめまぐるしく展開しているのですが、あのあたりは、どういうアプローチでつくっていったのでしょうか。

倉田  あのくだりは……たしかに、あれこそ最初に読んだときは、戸惑いましたね。あんなにコロコロ変わられたんじゃこっちが追いつかないと思って。本当に戸惑いました。面白いとも思えなかった、初見で読んだときには。もちろん読み込んでいくうちに面白くなりはしたんですけど。あのシーンはとにかく、あの内部の変化に、トルヴァルの気持ちの変化に、プレーヤーとして演技を成立させるべく追いつくというのがちょっと大変でした。あまりにも忙しなくて。さすがに日常ではあそこまで忙しなくはならないですから。

─── ならないですね。

倉田  あんなにコロコロコロコロ変わるのを演じるのは、なかなか大変ではありました。でもあそこは、広田さんが演出で助けてもくれて。

 広田さんが古典をやるときの企図として、動きをダイナミックにしたいというのがありますよね。それは僕も承知していたし、僕もその方向でやりたいと思っていたから、動き自体を役者たちでつくっていった部分はあります。古典だと、自分たちで科白を言う稽古をたくさんしないと、科白がなかなか板につかないというか、科白がなかなか言えないんですよ。だから広田さんに、一旦役者だけで稽古をさせてくれって言って、時間をもらったりして、役者だけでも散々稽古をやりました。そのときに役者の動きっていうは、役者の生理で動けるところは動いてもらって、それ以外のところは、演出、っていうと大げさですけど、僕が演出して大まかにつけたりっていうことはした。

 でも、あの最後のクライマックスのシーンは、そこからさらに広田さんから「こう動いてほしい」「ここでこうやってほしい」っていう、わりと動きも含めた具体的な演出があったんです。広田さんって、演出家としては、他にないくらい自由度の高い人だと思うんですよ。あまり細かくないというか。けど、『人形の家』のあのシーンについては、広田さんにしてはある種珍しく、「ここでここまで詰めてほしい」「ここまで行ってほしい」とか、それこそ椅子を倒す動きもそうですし、具体的な指示がありました。広田さんも気を遣ってくれて、「そうやって何か気持ち悪さとか、こうしない方がいいと感じるところはあるか?」って訊いてくれたんですけど、僕としては、その演出に気持ち悪さを感じることはありませんでした。むしろやり易さを感じた。「全然大丈夫です、これでいきましょう」って言って。そういうふうに、広田さんにも助けられてつくっていったシーンです。

 だから、台本を読んでいる段階では、「こんなのできるのかな」っていう不安しかなかったですね。

─── あのシーンは本当にすばらしかったです。戯曲上だと少し理屈っぽい科白のつづくシーンだと感じるので、あのシーンがああいうふうに成立するまでには、何段階も過程があったのだろうなと想像します。

倉田  そもそも、ヘルメルという役が僕に合うのかなという思いがありました。単純にルックスからしてももっと大人っぽい、重厚な人の方が合う気がしたし、最初はヘルメルという役がすごく遠かった。

 それで……くり返し台本を読みながらやっていくうちに、自分でしゃべっていて明らかに無理しているなとか、嘘があるなと感じると、どうしても気持ち悪くなるんで──「気持ち悪いな」って感覚がパッと出てくるんで──そこは正直に、そういうのをなくすのに近い方向のアプローチというのを、あのときはやった気がします。僕なりの立体性を目指して。

 そして、『人形の家』が終わった頃だったかな。ちょっと忘れてしまいましたが、広田さんから「ヘルメルをああいう解釈の仕方でやること自体が貴重だ」と、褒めてくれるニュアンスで言われたことがありました。言われたときは、「え、俺そんな変なことやってるかな?」と思ったんですけど。俺そんな変な捉え方したのかなって。

─── いや、広田さんがおっしゃったのは、たぶん「変な」っていう意味ではなかったんじゃないか。倉田さんのあのヘルメルの独創性は、ストレートプレイでありながらもダイナミズムは全然日常的ではない、といって非リアリズムでも前衛的でもない、真正面から新規性にチャレンジした成果であったと思います。

倉田  まあ僕も他の『人形の家』の舞台をたくさん観ているというわけじゃないんで、安易なことは言えませんが、たしかにもうちょっと、あの時代の男性性の強さを背負ったヘルメル、っていうのが一般的な解釈なのかなとは思います。そういう意味では、僕がやったのは、ひどいほどに情けない姿をさらけだすヘルメルだったので、そのことを広田さんに指摘されたのか、と思ったりもしましたけど。

─── 何せよすばらしいパフォーマンスでした。もっと世間的にも評判になってよかっただろうと思うほどの。

(つづく)

アマヤドリ 雨天決行 season.7

『取り戻せ、カラー

作・演出 広田淳一

2025年 1月24日(金)~1月26日(日)
@吉祥寺シアター

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